週の真ん中ストレート(4) 戦後も続く吉野作造の潮流 −田口望−

田口望
田口望

 

 

 

 

田口 望
大東キリストチャペル 教役者
大阪聖書学院 常勤講師
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 論説委員


●ネットでも見れる辞典でその後の吉野作造を追ってみよう

吉野作造とその影響について考えています。インターネットでも確認できる3つの事柄をインターネット辞典を引用しながら見ていきましょう。まず吉野自身について

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吉野作造(よしの さくぞう)

1878-1933 明治-昭和時代前期の政治学者。(中略)第二高等学校在学中,キリスト教に入信。大正3年母校東京帝大の教授。「中央公論」誌上で民本主義をとなえ,大正デモクラシー運動の理論的指導者となる。マルクス主義とは一線を画しながら,労働運動,朝鮮の学生運動などを支持。13年朝日新聞社に入社するが筆禍事件で退社。のち明治文化研究会を設立,「明治文化全集」を刊行し近代史研究につくした。

(後略)

(出典 日本人名大辞典)
※太字、傍線は筆者

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 前回からのつづきで繰り返しになりますが、吉野自身はマルクス主義とは一線を画し、Democracyをわざわざ民本主義と訳したのはそうした社会主義革命と一線を画した労働運動、民主化運動を展開せんがためでした。その後彼が影響を与えた政治思想団体、新人会というのがあるのですが、そのことについても見て見ましょう。

 

  • 吉野の意図を超えて暴走する 新人会

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新人会(しんじんかい)

東京帝国大学の学生が中心となって結成した大正~昭和期の思想団体。

1918年(大正7)12月5日、吉野作造(さくぞう)教授の下で普選研究会を行っていた赤松克麿(かつまろ)、宮崎竜介(りゅうすけ)らが中心となって、吉野と浪人会の立会演説会を契機にして結成。大正デモクラシーをリードした黎明会(れいめいかい)とは師弟関係にあるともいうべき新しい世代の集団で、「吾徒は世界の文化的大勢たる人類解放の新気運に協調し之(これ)が促進に努む」「吾徒は現代日本の正当なる改造運動に従ふ」との綱領を掲げた。

 会員は、当初、東京帝大生に限定せず、卒業生の麻生久(あそうひさし)、佐野学(まなぶ)や慶大生の野坂参三(さんぞう)、労働者の渡辺政之輔(まさのすけ)らも参加した。機関誌『デモクラシイ』(後継誌『先駆(せんく)』『同胞』『ナロオド』)を発行して、講演会、学生諸団体との連絡、中国・朝鮮の同志との交歓を行い、また、労働運動に接近して友愛会と協力し、各地に支部をも置くなどして広範な社会運動を展開した。

 しかし21年(大正10)11月、彼らを取り巻くこの時期の社会運動の多様な発展に伴い、思想的分化を生じ、東京帝大内の学内学生団体に改組、以後マルクス主義志向を強め、学生社会科学連合会(学連)で指導的地位を占めた。また、関東大震災に際し、救護活動を行い、東京帝大セツルメントの創立などに協力した。この間、会員の中から佐野、赤松、野坂、渡辺のほかに小岩井浄(こいわいきよし)、志賀義雄(しがよしお)が22年7月結成の日本共産党に参加したのをはじめ、会は多くの社会運動家を輩出させた。

 28年(昭和3)の三・一五事件で新旧の会員が検挙され、東京帝大当局は解散を発令したが、会は非合法的に存続し、翌29年11月22日の国際共産青年同盟10周年記念日に「新人会解体に関する声明書」を発表して解散した。他の新旧会員に嘉治隆一(かじりゅういち)、蝋山政道(ろうやままさみち)、河野密(こうのみつ)、風早八十二(かざはややそじ)、水野成夫(しげお)、大宅壮一(おおやそういち)、後藤寿夫(ひさお)(林房雄(ふさお))、岡田宗司(そうじ)、石堂清倫(いしどうきよとも)、中野重治(しげはる)らがおり、歴代会員は約350名を数える。

 治安維持法関係での被起訴者は前後100名を超え、のちに革新政党の指導者、国会議員、学者、作家となった者も多い。

[佐藤能丸]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

以上引用終り

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 ことわざに「贔屓(ひいき)の引き倒し」ということばがありますが、新人会はまさにその状態です。吉野作造に多大な影響を受け、吉野作造に心酔し、吉野作造を師と仰ぐ人たちが新人会を結成するのですが、この思想団体が、左傾化し、吉野が距離を置いていた共産主義に共鳴していきます。

この新人会の後期には「吉野が提唱する民本主義が民主化が不徹底である」と新人会の生みの親である吉野批判まで展開していくのです。そして、新人会は戦後も日本共産党の再結成に携わる大幹部や新左翼の運動に関わる人を多く輩出しますがキリスト者はほとんどいませんでした。

吉野自身はこの変質していく新人会からは身を引き、かわりに3反主義(サンパンシュギ)を提唱する社会民衆党の結党に協力していきます。

 

 

  • 吉野の意をくむもう一つの潮流 社会民衆党

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社会民衆党(しゃかいみんしゅうとう)

 社会民主主義派(右派)の無産政党。労働農民党の共産派への門戸開放決議に反対した日本労働総同盟幹部の松岡駒吉(こまきち)、西尾末広(すえひろ)らが、労働農民党を脱退し、安部磯雄(いそお)、吉野作造(さくぞう)らの新党樹立の提唱にこたえて、1926年(大正15)12月5日結成した。委員長には安部、書記長には片山哲(てつ)が就任。

 反資本主義、反共産主義、反ファシズム(三反主義)を掲げ、総同盟、日本海員組合、官業労働総同盟など労働組合主義に基づく組織労働者を主たる支持基盤として、金融恐慌下の失業救済、田中義一(ぎいち)内閣下の対華出兵反対、浜口雄幸(おさち)内閣下の労働組合法制定運動など、穏健で漸進的な立場から社会運動を展開した。

 しかし、31年(昭和6)満州事変が開始されるや、中央委員会は満州事変支持を決議し、翌年4月には赤松克麿(かつまろ)、嶋中雄三(しまなかゆうぞう)らが国家社会主義を唱えて軍部に接近し脱党した。このような党内外での国家社会主義や日本主義運動の台頭に対抗するため、総同盟系統の松岡ら社会民主主義派は、32年7月23日に中間派の全国労農大衆党と合同して社会大衆党へと発展させた。

 1928年の第1回普通選挙には、安部(東京)、鈴木文治(ぶんじ)(大阪)、西尾(大阪)、亀井貫一郎(かめいかんいちろう)(福岡)らが当選。議会活動を重視し、戦前日本の無産政党のなかではもっとも多くの代議士を送り出した。

[塩田咲子]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

以上引用終り

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 この政党は今で言えばイギリスの二大政党の一つである労働党のようなものを目指して結成したと考えればよいでしょう。吉野作造はこの社会民衆党結党においても三反主義(反資本主義、反共産主義、反全体主義)を主張しています。現代のような労働法制が整備されていない時代の資本主義というのはそれはそれは現代では創造のつかないほど労働者が搾取されていました。今で言えば極端な新自由主義やグローバリズムに反対する立場と言えるでしょう。

しかし、だからといって共産主義にもなびくことなく頑強に反対し、また、個人の自由を奪い人間性を奪う全体主義にも反対しました。右にも左にも逸れることなく、彼は真ん中を求め続けたのです。来週以降詳しく見ていきますが、この社会民衆党の系列に属した人は驚くほどキリスト者が多く、戦後の日本政治史に多大な影響を及ぼした人もおり、中には総理大臣に上り詰めた人さえいます。

 

  • まとめ

 吉野作造の唱えた民本主義は戦前だけではとどまらず、戦後の政治にも多大な影響を及ぼしています。吉野の影響を受けた人たちには大きく分けて2つの潮流があります。

ひとつは新人会系の人々で、当初は吉野を師と仰いでいながら、やがて吉野を批判し、左傾化して、共産党や戦後の日本社会党左派に与していく人々です。(ちなみにこの中にはキリスト者はほとんどいません。共産主義に希望を置き、キリスト者としての信仰を棄てた者もいます)。

もう一つは社会民衆党系の人々で、吉野作造の意を汲んで中道政治を求め、極端な資本主義、共産主義、全体主義に反対した人々です。彼らは戦後の右派社会党、民社党のルーツになる人で中には総理大臣や野党第一党の党首に就任したキリスト者おり、戦後も日本政治のど真ん中にい続けた人たちなのです。

今般、キリスト教界で政治運動をされている諸兄の中には、この二つの潮流を理解せず、いたずらに左翼の政治運動に加担・共鳴することこそキリスト者の本分と誤解されている方がよもやいるとしたらそれは残念な事です。

次回は5月9日更新予定です。