みんなで建てた “ 都の教会 ” − 久保田 Ukon 典彦 −

『キリシタン史からのメッセージ』
  高槻・Ukon:第6回

 

 

 

 

久保田Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰

みんなで建てた “ 都の教会 ”

●  “ 多くの人たちの、多くの人たちによる、多くの人たちのための ”

━━ ということで、思い浮かんでくるのは、1576年に献堂された、
都の教会 「被昇天の 聖母教会」の建設です。
一般には、「都の南蛮堂・南蛮寺」と呼ばれていました。

1576年8月15日に奉献されましたが、
この日は 「被昇天の聖母マリア」の祝日で、
併せて、宣教師フランシスコ・ザビエルが、27年前に来日し、鹿児島の地に上陸した まさに、その日でもありました。

それまでは、1560年に、下京に ヴィレラ神父が、仏僧から購入した家屋に、小聖堂のようなものを設けて、ミサ聖祭を行っていたのですが、古くなり、柱にも ひびが入り ・・・・・ という状態でした。

都地区の責任者だった フロイス神父と、オルガンチーノ神父は、
五畿内の、おも立ったキリシタン達に、
“都に すばらしい教会を建立する計画”について、意見を求めました。

キリシタン達は、河内や 高槻には、美しい教会が建てられているのに、都にはそれがありませんでしたので、誰もが、
“全力を傾けて、協力・援助したい”と答えたのでした。


● キリシタン達は、早速、非常な熱意をもって、建築に必要な仕事を分担していきました。

 多くの、必要な材木の調達を引き受けたのは、髙山ダリオ飛騨守でした。
自ら、大工や樵(きこり)たちを連れて、遠くの山に出かけて行き、伐ったり 挽いたりした木材を、都まで運んでいきました。
このことは、建築期間中 ずっと続けなければならない仕事でしたよ!

河内の 結城ジョルジ弥平次も、献身的に働きました。
建築を援助するために、河内から4、50名の大工や労働者たちを連れて来ました。
自らも、石の運搬などをしたり、米や金銀を届け、資金面でも支えました。

三箇頼照の姉妹の 三箇フェリパ は、河内や摂津の国のキリシタン達を訪ねて行き、建築のための寄付金を集めました。

マルタ という 年老いた寡婦は、決して豊かではなかったのですが、
教会と司祭館の すべての畳の代金を支払うことを引き受けました。

都に住むキリシタンの女性たちは、働いている人たちのために、料理された食べ物を届けました。
他の地域に住んでいる女性たちは、同じことが出来ないので、そのためのお金を送ってきました。
非常に貧しい人たちも、わずかな米や、調理するための鍋を届けたりしました。

木材・他の建築材料・食料品・労働力の他に、
2500クルザード(3千万円?) の大金が、この教会堂建設のために集まりましたよ!


● キリシタン達ばかりでは ありません。

この計画は、織田信長と 都の所司代・村井貞勝の好意がなければ、実現不可能でした。

村井貞勝 は、
① 木材や その他のすべての建築材料の、都への自由搬入を許し、あらゆる税を免除しました。
② 近隣の住民からの、“教会建設反対の訴え”を斥けました。
③ “棟上げ”の時に、千人の手伝いを寄こし、60クルザードの祝い金を贈りました。


● このようにして、多くの人たちの協力があって、

1576年8月15日に、盛大な献堂式が、喜びをもって行われました。

都や五畿内から、多数のキリシタン達が集まりました。
高槻からは、髙山ダリオ飛騨守・ジュスト右近たちも、家族や2百人を越える家臣と共に参加しました。

都の人々は、こんなにも多くの駕籠と 騎馬の兵士たち、こんなにも多くの人々が、教会に押し寄せるのを見て、ビックリしましたよ!

それ以来、この 「都の 南蛮寺」 は、“都の名所” としても注目され、多数の人々が訪れる場所になりました。

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●写真:『都の南蛮寺』
[ 参考図書 ] 「完訳フロイス日本史2 織田信長篇Ⅱ」第46章(中公文庫)
「都の南蛮寺」(木俣清史・絵)
※写真のホームページ掲載の許可は、著者(投稿者:久保田典彦)が著作権者より受けています。(他への転載は、禁止いたします。)
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久保田 Ukon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
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「髙山右近研究」をライフワークにしています。
髙山右近やキリシタン達を通して、いっしょに考えていければと思います。