信仰者に学ぶ(第三回)~アッシジのフランチェスコ(3) −中川晴久−

中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
主の羊クリスチャン教会牧師
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 論説委員

<フランシスコの説話>

 『聖フランシスコの小さき花』には、たくさんの逸話が語られています。これらは全てが真実ではありません。後の時代になって作られた話も多くあります。しかし、フランシスコの霊性をよく伝えているものだと思います。ぜひ、読んでみてほしい作品です。
今回は、その中からいくつかを紹介したいと思います。 テキストは私が何度も繰り返し読むことになった永野藤夫訳『聖フランシスコの小さき花』からです。

 

 

 

 

 

 

<クィンタヴァレのベルナルド>

 最初にフランチェスコの仲間になった人物に、ベルナルドという人がいます。彼は、フランチェスコが実家を追い出され2年もの間物乞いをして歩き、世間の人々に馬鹿にされ、罵られているのに、神を賛美している姿に真実を見出しました。

 「また二年間もすべての人々に憎まれさげすまれながら、ますますしっかり耐えているように思えたからである。」(『小さき花』2話)

 そこで、ベルナルドはさっそくフランチェスコを自分の部屋に招き宿泊させました。
そのときフランチェスコの真実の姿を見て、ベルナルドにも回心が起きます。

 「聖フランシスコはベルナルド氏が眠ったと思い、入ったばかりの床からそっと起き上り、手と目を天に向けて祈り出し、いとも熱心に[わが神よ、わが神よ]と言った。涙ながらにそう言い、朝課の時間(六時頃)まで同じことばをくり返すだけであった。」(『小さき花』2話)

 フランチェスコの姿から、苦難の時こそ神にある真実に歩むことを求めることを教えられます。私たちも現実の生活の中で、やってもいない事をやったと言われ非難されたり、ひどい時には偽証までされて貶められることさえもあります。でもそんなときにこそ、私たちは神にあって真実に歩みたいものです。私たちが最も苦しい時に、いかに歩むかで後の全てが決定されるともいえます。どん底の中で神を見上げて真実に歩むのであれば、その真実は神さまによって知られます。そして、その真実ゆえに神さまは、フランチェスコがそうであったように豊かに臨んでくださるでしょう。しかし、苦難において真実に歩むことを捨てるのであれば、その信仰が偽りであったことを明かされることでしょう。

新改訳 マタイ6:6
 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 フランチェスコの最初の仲間であるクィンタヴァレのベルナルドの回心は、フランチェスコの真実に歩もうとする姿を通して起こされたものでした。

<グッピオの狼>

 グッピオという町の近くに人食い狼が現れました。人々はこの狼を恐れて、町の外には出られないほどになりました。そのようなときに、フランチェスコはこの町に立ち寄りました。そして町の人たちから話を聞くと、フランチェスコはこの狼と会うために森へ向かい、そこで出会った狼に説教をしたのでした。

 「兄弟なる狼よ、イエス・キリストの御名によって命じるが、わたしにも他のだれにも害を与えるな。・・・兄弟狼よ、お前はこのあたりでとんでもない悪いことをし、ことわりもなく神の被造物を殺して食った。動物ばかりか、神の似姿としてつくられた人間をも殺して食った。だから泥棒や極悪の人殺しのように、絞首刑になってもいいくらいだ。だれもがお前を非難し、このあたりの者は皆お前の敵だ。だがわたしは、皆とお前を仲なおりさせたい。だからお前はもう害を与えてはならないし、皆もお前の今までの不正をすべて許さねばならない。そうすれば、人間も犬ももう、お前をいじめないだろう。」(『小さき花』21話)

 狼はフランチェスコと共にグッピオの町に姿を現し、大人しく首をうなだれました。言い伝えでは、この狼はそれからグッピオで2年生きて、親しげに家々の戸口を回っていたということです。

 この話は、歴史的な事実ではなかったにしても、フランチェスコの自然や動植物に対する愛が最もよく表現されている話でしょう。フランチェスコにとっては、野の花の一つも、一羽の雀も、狼でさえも愛おしいものでした。大自然は一つ一つ、神さまが作った作品だからです。そして、この自然は神さまから恵みとして与えられていることを、フランチェスコはよく知っていました。空気も水も、太陽も月も、私たちを生かすために、神さまから与えられたものです。自分自身もまたそれらと同じ被造物として、フランチェスコは太陽を「兄弟」と呼び、月を「姉妹」と呼びました。

新改訳 創世記1:31
 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

 人類史上で、神さまの創造の喜びを最もよく味わうことができたのは、フランチェスコだったかもしれません。私たち信仰者もそうありたいです。大空を見て、その青い空のその上に、私たちは神さまの御座を見ようとします。植物の葉を見て、ただの緑色でなく、私たちは神さまの作品としての彩りを見ようとします。信仰者は空を見て、草木を見て、鳥や魚を見て、そこに製作者である神さまを見ることができます。キリスト者の視野に映っているものは、神さまの創造を認めない人たちとは違っていて当然です。ですから、神さまを伝えるために語らねばならないものが、キリスト者にはあります。

<太陽の賛歌>

 フランチェスコの歌ったものに、有名な『太陽の賛歌』と題したものがあります。大自然に兄弟姉妹と呼び掛け、それらを通して神を賛美する非常に変わった賛歌です。ここでは、自分自身にやがて来るであろう「死」すらも、「姉妹」と呼んでいます。

太陽の賛歌

神よ、造られたすべてのものによって、私はあなたを賛美します。
私たちの兄弟、太陽によってあなたを賛美します。
太陽は光をもって私たちを照らし、その輝きはあなたの姿を現します。
私たちの姉妹、月と星によってあなたを賛美します。
月と星はあなたのけだかさを受けています。
私たちの兄弟、風によってあなたを賛美します。
風はいのちのあるものを支えます。
私たちの姉妹、水によってあなたを賛美します。
水は私たちを清め、力づけます。
私たちの兄弟、火によってあなたを賛美します。
火はわたしたちを暖め、よろこばせます。
私たちの姉妹、母なる大地によってあなたを賛美します。
大地は草や木を育て、実らせます。
神よ、あなたの愛のためにゆるしあい、病と苦しみを耐え忍ぶものによって、私はあなたを賛美します。
終わりまで安らかに耐え抜くものは、あなたから永遠の冠を受けます。
私たちの姉妹、体の死によってあなたを賛美します。
この世に生を受けたものは、この姉妹から逃れることはできません。
大罪のうちに死ぬひとは不幸なものです。
神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いなものです。
第二の死は、かれを損なうことはありません。

『太陽の賛歌』は、フランチェスコが病で目がほとんど見えなくなったときに歌われたものです。そして、「姉妹なる死」という部分は1226年にもう死を待つ最期にあって付け足したものといわれています。

 

 

 

 

 

 

 フランチェスコの霊性についてより深く知りたい方は、『現代に生きる《太陽の賛歌》』(サンパウロ刊行 エリク・ドイル著、石井健吾訳)がお薦めです。

信仰者に学ぶ(第一回)~アッシジのフランチェスコ(1)
信仰者に学ぶ(第二回)~アッシジのフランチェスコ(2)