安息日から主日への礼拝になったのはいつ? −中川晴久−

 

 

 

中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
主の羊クリスチャン教会牧師
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 論説委員

 

キリスト教はいつユダヤ教の安息日から主日(日曜日)の礼拝になったのでしょうか。

 巷には「カトリック教会が土曜日から日曜日へ勝手に変えた。」という話から、「ローマの教皇がミトラ教の太陽神信仰を取り込んだためだ。」という話まで、ローマ教皇が政治的支配権を握ってキリスト教教義を変質させたという誤解までも、飛び交っていたりします。もちろん、そんなわけありません。
新約聖書正典のみではなかなか理解できないことですが、聖書解釈においてはより正確に理解するために、時代背景やそれにともなう時代考証、補助となる資料を調べることも怠ることできません。その意味でも『使徒教父文書』の存在はありがたいものです。


『使徒教父文書』とは

 『使徒教父文書』について、編集責任者の荒井献氏は次のように紹介しています。

 「教会史上のある時期、あるいは特定の地域においては、新約聖書正典と同じ位置を占めていた。従って、新約聖書の世界を全体的に把握するためには、使徒教父文書も必読の書ということになる。」

 新約諸文書とほぼ同時期に書かれた「クレメンスの手紙」や使徒ヨハネの直接の弟子であるポリュカルポスが書いた手紙などが収められている。読んでみると使徒たちを知る信仰者の息遣いがあり、面白い。


『ディダケー』より

『使徒教父文書』の中に最初に登場する『ディダケー』(正式には『12使徒を通して諸国民に与えられた主の教訓』)は、1世紀末頃に成立したと言われています。比較的やはくから広く教会に受け入れられ、評価は高く、当時の諸キリスト教会の慣行をかなり詳細に反映している重要な資料です。

 初期キリスト教の指導者である教父といわれているアレキサンドリアのクレメンスやアタナシオスを始め、多くの人々がこの文書を引用しています。
ディダケー14:1
主の日(日曜日)毎に集まって、あなたがたの備えモノが清くあるよう、先ずあなたがたの罪を告白した上で、パンをさき、感謝を献げなさい。

 ここでは、日曜日ごとに集まって礼拝を捧げている様子ことがはっきりと述べられています。すでに初期の頃より、キリスト教会は主日礼拝を持っていたことがうかがわれます。


『イグナティオスの手紙』より

 また、『使徒教父文書』の『イグナティオスの手紙―マグネシアのキリスト者へ』にも主日礼拝についてのハッキリした意志表明の記述があります。
イグナティオスはアンテオケ教会の2代目(3代目説あり)の監督で、まだ使徒たちを知っていた世代です。
 また、このアンテオケ教会は異邦人伝道の発信地であり拠点です。
 パウロやバルナバがこのアンテオケ教会の基礎を築いたのです。
ですから、イグナティオスの手紙に記されている次の記述は非常に重要なものです。
イグナティオスの手紙9:1
それでもし旧い生き方で暮らしていた人々が希望の新しさのもとに至り、もはや(ユダヤ教)の安息日(土曜日)を守らず、むしろ主の日(日曜日。キリストは日曜日に復活した)を守って生きるなら―主の日に私たちの生が、彼を通しまた彼の死を通して、立ち現われたのです。これを否定する人達もいますが。しかし私たちはこの疑義を通じて信仰を得たのであり、そしてだからこそ私たちの唯一の師イエス・キリストの弟子とされるために、忍耐しているのです。
 ここには、すでに日曜日の主日礼拝を行うことへの決心が、キリスト教徒であることのアイデンティティであったことがわかります。
 もちろん、エルサレム教会はユダヤ人教会だったので土曜日に礼拝を行っていたことでしょう。
 しかし、アンテオケ教会は異邦人とユダヤ人の双方がいました。
 そのとき、すでに土曜礼拝ではなく、日曜礼拝を行っていたのです。
 異邦人伝道の本拠地であったアンテオケ教会がすでに日曜日の礼拝に対してここまでの決心を語っているのですから、ローマ・カトリックが土曜礼拝を日曜礼拝に変えてしまったなどというトンデモ話は通用しません。


初期キリスト教会とローマ司教

 初期キリスト教会の2大学派としてアレクサンドリア(アレクサンドリア学派)とアンティオキア(アンティオキア学派)があります。
 アレクサンドリアではクレメンスが「ディダケー」を用いており、アンティオキアではすでにイグナティオスが日曜礼拝に対する堅い決心をしているのであれば、初期キリスト教会ではすでに広く一般に日曜礼拝を行っていたことは疑いようがありません。
 これは、まだローマ司教が政治的な力をもたず、「教皇」を名乗らず、位階制が明確に定まっていない時代です。公会議は東ローマで行われ、神学論議は東の方で盛んでした。
 そんな中で西のローマ司教が「教皇」を名乗ったのは、教皇レオの時代で、在位440年以降です。この頃はフン族アッティラがローマを荒らしまわった時です。守ってくれる貴族たちも逃げ、教皇(ポンティフィクス・マキシムス)として担ぎ上げられたレオが、無手にあっての交渉でフン族のローマ侵入を必死に防いでいる状態でした。
 590年、大聖グレゴリウスと呼ばれる教皇グレゴリウスの時代になって、ようやく政治的にも芽がではじめたといえるかもしれません。でも、ランゴバルト族の侵入、飢饉、河川の氾濫、ペストの流行といった中で、無防備のまま交渉によって蛮族と渡りあうのが精一杯でした。
 これだけ情報の伝達技術が高度化した今日にあってもなお、コンスタンティヌス帝の回心より、ローマ司教が何か政治的支配権をもってキリスト教教義を変えたといったという間違いが、根強く残っているというのは、実に奇妙なことです。


新約聖書より

 さらに新約聖書の中においても、すでに日曜日の礼拝が行われていたことが分かります。
使徒20:7
 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。(新改訳)
週の初めの日というのは、もちろん日曜日です。
Ⅰコリント16:2
 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。(新改訳)
 日曜日には収入に応じて手元に献金を蓄えておくように伝えています。
ここでも日曜日における集まりがあったことを前提としてパウロが話していることがわかります。