週の真ん中ストレート(11)良い左、ダメな左ー田口 望

写真:絵画フランス革命「テニスコートの誓い」(Wikipedia より)

田口望
田口望

 

 

 

田口 望
大東キリストチャペル 教役者
大阪聖書学院 常勤講師
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 論説委員

左は全部悪いのか?いや、わたしこそが左だ

 私は本誌の週の真ん中ストレートにおいて、度々日本共産党の危険性について指摘し、その本質は、キリスト教と似て非なるものであり、「キリスト教の異端」「フォイエルバッハ急進派」と呼んでも差し支えないとまで申し上げました。
しかし、それは、私が右翼であるとか、現政権を支持していることを意味することではありません。また政治的に左の考えを持つこと自体がキリスト教倫理において罪だと言っているわけでもありません。むしろ、私自身のキリスト者としてのあり様をいくから披歴するならば、私こそが、左なのです。

 軽度の知的障害が疑われる生活困窮者が私の教会を訪ねてこれば、その人と市役所まで同行し、書類を代筆し、生活保護のお手伝いをし住居の保証人にまでなったことがあります。子どもの貧困に関心をもって、教会堂を解放して月に2回子ども食堂を行っています。また、日本基督教団内のいわゆる社会派とされる方々とも交流を隔月に1度はもっています。なんといっても、私の妻に至っては公立学校の教諭(右翼陣営からすこぶる評判の悪い日教組)です。左の思考全般をキリスト教倫理に反する考えだなどといったならば、早晩、我が家は崩壊してしまいます。

暴力的な資本主義がこのままではいけないことは誰の目にもあきらか

トマ・ピケティ著「21世紀の資本」
トマ・ピケティ著「21世紀の資本」

 私、個人としてはイデオロギーの対決が終焉しソ連崩壊後、ひとり勝ち状態になってしまっている資本主義に限界を感じ、国家をも凌駕するグローバリズムに恐怖すら覚えています。現代社会は異常なまでに富が偏重してしまっています。世界のお金持ち上から数えた8人の持つ資産の合計と、世界の総人口の半分にあたる35億人の貧乏人の資産の合計が同じになるほど、持つ者と、持たざる者の格差は広がっています。

 数年前にわが国でも流行した経済学者ピケティを持ち出すまでもなく、だれが見てもこんなの異常に決まっています。資本主義には限界が来てしまっており、何らかの是正措置を取らなければ、ますます格差は拡大し、世界は「たった一人の金持ちと残り100億人の貧乏人」というところまで格差は極大化するでしょう。
ですから、私は、自由よりも平等を志向し、富の再分配を考えることは決して悪いことではない。むしろ、聖書の中の多くの言葉からも、キリスト教倫理からみてもそれは良いことでしょう。平等のために今の資本主義経済に何かしらの修正を加えるべきと考えている私は、その意味においては左なのです。

そもそも左って何なのか?

(マクシミリアン・ロべスピエール1790年頃)
(マクシミリアン・ロべスピエール1790年頃

 そもそも何を持って、左翼(サヨク)と呼ばれるのでしょう。
歴史を紐解けば、フランス革命のとき、国民公会で、王様を支持する人(王党派)が議場の右側に座り、逆に王制廃止を訴える人(共和派)ジャコバン派が議長からみて左側に陣取ったのが左翼の語源とされています。フランス革命は絶対王政の時におきたわけで、王党派より、共和派の方がより大きな社会変革をもとめ、王党派より共和派の方がより平等な社会を目指した訳ですから、現在でも左派とは「より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層」をさします。
もっとも、フランス革命期のジャコバン派はその後、過激派し、収拾がつかなくなりロベスピエールによる恐怖政治に走って失敗に終わります。そして、この時に「恐怖政治」がテロリズムの語源にもなるのですが…何はともあれ、左であること自体わるいことではありません。

良い左、よくない左

 私は非難し、「キリスト教倫理的にもあり得ない!」といって警鐘を鳴らしているのは、左翼思想全般をなんでもかんでも攻撃しているわけではありません。それは極めて限定的なものです。左派・左翼とされる政治思想のうち、国家の体制を丸ごと変えて工場や農場を公営化してしまおうという「社会主義」と呼ばれる政治思想に限っています。その中でもすべての社会主義に反対しているわけではなくて、さらにその社会主義という政治思想の内、収入源である生産手段を公営化するだけでは飽き足らず、最終的には個々人の財産をも平等に分配しようという思想、「共産主義」と呼ばれる政治思想に限っています。さらに、共産主義のすべてが反キリスト教的だと断じているわけではありません。
共産主義とよばれる政治思想のうち、
共産主義社会の実現のためには資本家に支配された今の体制を打破する必要がありその為には時には暴力を伴った労働者階級の革命が必然であり、また、そのためには、祈りによってキリスト教の神による救済を待望することなどは究極的には革命による共産主義社会実現にとってマイナスだと考える、「マルクス主義(科学的社会主義)」と呼ばれる思想に限って私は危険だと再三再四もうしあげているのです。そして、この政治思想がキリスト教倫理に悖(もと)り、前世紀、何千万人もの人を死に追いやり、人類史上もっともキリスト教を迫害した思想なのです。

聖書の中の左にみえる思想

 資本主義の行き過ぎを所得税に累進課税にし、福祉を充実されることで所得の再分配によって、改良しようという修正資本主義は私の本懐とするところです。
キリスト者の中にはイエス・キリストはルカ福音書等で度々救貧について語っていることからイエス・キリストを「空想的社会主義者」の一人とする者と定義する方もいます。これは私の考えとは違いますが、キリスト教に反するとか、キリスト教倫理に反するとまで申し上げるつもりはありません。
また、新約聖書の使徒言行録の2章44~46節には今から2000年前のキリスト教会の草創期においては信徒は個人財産をすべて寄託し、それを貧しい信徒に分け与えていたことを示唆する記述があります。それをもって、「原始キリスト教共産主義」といって理想形とする者もいます。これも共産主義と名前がついているが、いわいる反キリスト教的なマルクス主義とは一線を画するものなので、直ちに反対するものではありません。わたしは共産党、共産主義といって脊髄反射のように反対しているわけではないのです。

違いの判らない人々

 昔、コーヒーのテレビコマーシャルで「違いの分かる男」というキャッチがはやりました。(こんなこと話題に出せば世代がばれてしまうか・・・)
しかしながら、日本のキリスト教界において社会、政治問題に口を出さずにはおれない、いわゆる左の牧師、神父、活動家の方々は、私に言わせれば、「違いの判らない人」にしかみえません。キリスト教倫理的に許容されうる左の思想と、キリスト者として最も忌避すべきマルクス主義の思想の違いを峻別できていないようです。
彼らの一部は自らを聖書に出てくる預言者と同定し、キリスト教界の左のオピニオンリーダーのつもりのようだが、どうも左の政治思想のイロハも知らないようである。知っていて活動しているのであれば、なお恐ろしい、それはハーメルンの笛吹き男のようなものだから…彼らは日本のキリスト教徒をどこに導こうとしているでしょうか?

● 続く —> 「週の真ん中ストレート(12)共産党の日仏比較」

田口望