福音派とは何か?-栗生 稔‐

SALTY編集委員 栗生 稔

何かと話題にのぼる「福音派」

このSALTYのサイトを訪れる読者の皆さんは、キリスト教にそれなりに関心をもたれているだろうし、「キリスト教福音派」という言葉をニュースで聞いたことがあるでしょう。今年はアメリカ大統領選挙の年で「キリスト教福音派」の動向が選挙情勢を左右するといわれていますし、また、最近では「リオのカーニバル」が例年に比べて下火だなとおもったら、リオデジャネイロの市長がキリスト教福音派で、裸に近い格好で夜通し踊ることが退廃的だとしてカーニバルへの公金支出を取りやめたことがニュースになっていました。

このような、何かと話題に上る「福音派」とは一体何なのでしょう?

捉えがたき福音派

福音派に身をおく、私としては、我が国において福音派が話題になることがありながらも、なかなか福音派に対する理解は進んでいないと受け取っています。その理由としては、福音派の定義が混乱していることがまず挙げられます。混乱する理由としては、政治的に、歴史的に、主観的に、客観的に、学術的に、尺度が違うという点と、それに加えて日本の福音派自身がこの定義をあいまいにしてきたがために、ある種のねじれが起きているという点があります。

私が言わんとすることの話を進める前に、この論説を読んでくださる方の大多数は福音派ではない、キリスト教徒でもない、日本語を理解する日本人でしょうから、「日本人の宗教」を一例にあげたいと思います。たとえば、ある外国人が客観的に日本人のほとんどは仏式で葬儀をすることを見て取って、そこから「日本人の大半は仏教徒である」と定義することもできるでしょう。また、主観的に日本人が葬儀をする段階になって「うちの家は何宗だっけ?真言宗?浄土宗?」なんて会話をするくらいですから、「日本人は自覚的には無宗教である」と定義することもできるでしょう。はたまた、宗教や哲学が道徳心を形成しているという学問的な見地から日本人をみれば、「殺人や窃盗に罪悪感を抱く以上、日本人は生粋の無神論無宗教者ではなく、何かしらの宗教心をもっていると言えるので、日本人は神道と仏教と集団心理で形成された『日本教』なるものを信じている」と定義することもできるでしょう。以上のように、物差しが違えば結論が変わってきてしまうのです。ましてや「宗教心」という、目に見えない心の中のことですからなおのことでしょう。

メイチェンスケール

さて、話を本題に戻します。「尺度が十人十色だから捉えようがない」といっていたらいつまでたっても理解は深まりませんし、キリスト教福音派がなにかしらまとまりのある「派」である以上、何であって、何でないのかをある程度類型化しなければなりません。そこで本稿ではJ・G・メイチェンを原点におく考え方を提示いたします。「キリスト教福音派」の定義として穏当で、歴史的にも賛同を得られる有力な物差しの一つとされているものです。

J・G・メイチェンは20世紀初頭の米国で活躍した牧師・神学者です。当時の教会では、18世紀から19世紀初頭にかけて欧州で成立した近代神学・自由主義神学が広く受容されていました。当時の欧州は、産業革命がおこり、第一次世界大戦までは100年ほど大きな戦争がなかった時代でした。時代の風潮として、昨日より今日、今日より明日が良くなると信じられ、人間理性が至高の存在とされた時代です。伝統はすべからく旧弊とみなされ、悪とみなされた時代です。こうした時代背景の下、教会の権威、聖書の権威などは人間理性によって合理的に解釈されるべきとし、聖書の中の奇跡などを否定する近代神学・自由主義神学が受け容れられていきました。(近代神学・自由主義神学の細かい定義を話すとまた話がながくなるのでここでは割愛します)。J・G・メイチェンはそれら近代神学に異議を唱え、「キリスト教とは何か」という本を書き、近代神学・自由主義神学はもはやキリスト教にあらず、聖書の権威を重んじる伝統的な信仰こそキリスト教と呼ばれるべきである、と主張したのです。そして、そのためにもともと所属していたカルヴァン派の教派を割って出て、近代神学の影響を排除した神学校を設立しました。

同様な動きがプロテスタントの他の教派に波及します。「伝統的な解釈からどんどん乖離し、自分たちが信じていたものがどんどん否定され、私たちも不安に覚えていました。でも時代の流れだし、偉い先生がおっしゃることだから、仕方がないのかと悶々としていたけども、メイチェン博士よくぞ言ってくれました。やっぱり、近代神学おかしいですよね。本来のキリスト教からかけ離れてますよね」というふうに、メイチェンの動きに追随し、聖書の権威を重んじて伝統的な聖書理解に回帰しようとする流れが顕著になりました。これらの流れを総称して「福音派」と呼ぶ考え方です。メイチェンの動き、考え方を「福音派」の原点として定義し、そこから俯瞰してキリスト教界の近現代史を理解するというのは、歴史学的にも支持される説得力のあるものの見方です。そして、このメイチェンが創立に携わった教派、米国正統長老教会は政治的には明確に反共のスタンスにたちます。そう、私が宗教的にたまたま福音派に身を置き、かつ、政治的にたまたま反共の立場に身を置いているのではなくて、福音派であるなら、反共であることを要請されるのは、福音派の定義から当然のことであり、歴史的にも学問的にも支持されることなのです。

欧米政治上最大の対立軸「キリスト教対共産主義」

先に述べた近代神学が隆盛を極めた時代にリンクして、政治的にも新たな潮流がおこりました。マルクス主義、共産主義です。これは伝統的なキリスト教的世界観を破壊し、キリスト教の神を排除した上で貧富の差などの経済問題、政治問題を解決する新たな世界秩序を作ろうという考え方です。欧米の近代政治史の一番の対立軸は「キリスト教的世界観 対 共産主義的世界観」なのです。この大本、この大局観を絶対に読み誤ってはいけません。欧米で「保守」といえば、その伝統的なキリスト教的な世界観、倫理観、道徳観を守ろうとすることであり、逆に欧米で左翼、リベラルといえばそのキリスト教的な世界観を打ち破る、破壊しようすることなのです。

マルクスは本当に「宗教はアヘンだ」といったのか?

特に、マルクス共産主義は歴史的にもその発展段階においても、反キリスト教的でした。マルクス自身が彼の著書の中でいった「宗教はアヘンだ」という言葉からも明らかです。ちなみに最近、宗教者へのウケを狙ってか、日本共産党の不破前議長や志位委員長あたりから、「この『宗教はアヘンだ』という言葉が独り歩きしていますが、全くのデタラメであり、マルクスは宗教の意義を肯定的に認めていた」等の言説がでています。が、その言説こそが全くのデタラメです。皆さん注意しましょう。宗教界が共産主義を最も警戒する理由のひとつに、「マルクスが『宗教はアヘンだ』といったから」というのがありますが、この主張は、マルクス当人が書いた「ヘーゲル法哲学批判序説」にでてきます。そして、同著をよめばわかりますが、マルクスは宗教を徹頭徹尾憎んでおり、特にキリスト教、ドイツのプロテスタント宗教界への当てこすりが酷いです。「宗教はアヘンだ」は、自らの思想をキリスト教を超える一大思想にしてやろうとする誇大妄想に満ちた文脈の中で書かれているのです。

キリスト教福音派は、福音派が持つ伝統的なキリスト教的な世界観を破壊しようとする「マルクス主義、共産主義」が反キリスト教的であるゆえにおのずと反共になります。自明のことなのです。キリスト教の立場を容認し、その世界観が強まることを容認するマルクス共産主義はこの世に存在しませんし、また逆に容共(共産主義を容認する)の立場のキリスト教福音派もその定義からして存在しません。まさにありえないのです。それは2で割り切れない整数が奇数の定義なのに、2の倍数の中に奇数を探すのと同じほどに。

日本における福音派のねじれ現象

ところがです。そのありえないことが、日本の福音派で起きています。プロテスタントの牧師が、日本共産党に出入りしたり、日本共産党の街宣車にのって弁舌をふるうなどという、冗談にもならない、メイチェンが存命ならば卒倒するような悲しい出来事が起きてしまっています。以前に私がこのホームページで解説したように日本の福音派のナショナルセンターと呼べるものはJEA日本福音同盟ですが、本来なら設立時に、定款・総則に「政治的には反共の立場をとる」つまり「政治的に反キリスト教の立場をとるものには反対する」と明記しておけばよかったのです。」しかし、それはなされませんでした。通常、どのような団体にも団体の会則の第一条あるいは第二条など、頭の部分に、どういう目的を持ったどういう団体であるかを自らで定義づけしておくものですが、宗教的にどうかを定義づけしていても、それが政治的にどうかまで定義づけることをしませんでした。

私はこれが日本のキリスト教界、福音派に共産主義がはびこる原因を作った第一のミスとみています。もちろん、そうしなかったのは日本の歴史的な背景もあったのでしょう。日本では共産主義にキリスト教が弾圧された経験がなく、むしろ、戦前戦中にキリスト教主義に基づかない保守勢力によって、キリスト者は共産主義者とともに弾圧された歴史があります。これは政治的な保守主義というのが、絶対的な機軸をもっているのではなくて、対他的関係によって成立するからです。西洋政治史においては反キリスト教を掲げる共産主義に対抗する意味になるでしょうし、貿易においては極端なグローバリストに対して特定の地域や国家を保護することを主張することが保守主義になります。何に対して何を守るのかという、相対的な定義づけによるのです。欧米はもともとキリスト教が多数派の社会ですから、現状維持の保守勢力がキリスト教勢力であり、日本のようにキリスト教が少数派の社会では、キリスト教の伸長を快く思わない現状維持派が保守勢力になりがちなのです。しかし、それはあくまで相対的なものであり、共産主義とキリスト教のように根本的、決定的な対立ではありません。にもかかわらず、JEAをはじめとする福音派は、2000年の日本伝道会議で採択された沖縄宣言の中で、国家主義(保守主義)の台頭をまるでキリスト教に対する普遍的な脅威のように明文化してしまいました。これが第2のミスです。

組織でもなんでも定義化するときに、原則を明記せず例外を原則のように明記したらどうなりますか?

3歳の子どもに、

「鳥(鳥類)とは、ダチョウやペンギンのような生き物の仲間のことを指すんだよ」といい

「獣(哺乳類)とは、コウモリやムササビのような生き物を指すんだよ」といって育てられれば、その子は鳥類と哺乳類を正しく見分けられるでしょうか?おそらく、空を飛べない生き物をトリ、空を飛べない生き物をケモノだと間違えて覚えてしまいはしないでしょうか?

そういう恐ろしいことを長年放置してしまったのが日本の福音派です。反共であるはずの福音派のリーダーが共産党の街宣車にのって演説してもそれを正当化し、自浄能力の働かない組織ができてしまったのです。福音派の原点J・G・メイチェンが今の時代にいきていたら、卒倒し、歯ぎしりするような、アベコベな福音主義にあらざる福音主義団体の一丁あがりです。

世界の福音派との違いを示す事例2つ

下に2つのリンクを貼っておきます。一つはメイチェンが設立にかかわった米国正統長老教会の1945年5月18日の総会資料です。この中で教会は近代神学と並んで共産主義を警戒するようにと書かれています。1945年5月ですよ。この一週間前にベルリンは米国の友軍であるソ連軍によって占領され降伏しました。一方でまだ日本はまだ降伏しておらず、第二次世界大戦は、欧州では一応の終結を見たもののアジアでは継続中という状態です。こうした状況の中で、米国正統長老教会は共産主義に非常に強い警戒感を示す一方、ナショナリズムはそれが高じて全体主義に陥った場合は危険であるとするものの、ナショナリズム自体への警戒は示していません。この当時の世界は共産主義独裁国家の悲哀をまだ知りません。しかし、そうした中でも米国正統長老教会は、友軍であるソ連の政治体制であった共産主義に警戒するように訴えました。他方で、ナショナリズムが高じた日本が米国と戦争中であるにもかかわらず、ナショナリズムについてはそれ自体を警戒すべきとは言わず、全体主義まで極端に陥ったナショナリズムが問題なのだとしています。現在のJEAは、共産主義に対する警戒を一切文書化せず、ナショナリズムに関してだけは十把一絡げに教会が警戒すべきものとして文書化してしまっています。まったく逆ですね。

1945年5月米国正統長老教会議事録 共産主義批判はP60くらいから

https://opcgaminutes.org/…/uploads/2018/04/1945-GA-12.pdf

もう一つのリンクは、JEA日本福音同盟が協力関係を結んでいるWEA世界福音同

レオン・モリス
レオン・モリス

盟のホームページになります。福音派の定義として邦訳書が数多く出版されている福音派の重鎮レオン・モリス博士言葉が紹介されています。福音派が昨今社会運動をするようになったのは、それが本質なのではなくて、あくまでキリストの十字架に魅せられてのことであり、地上のあらゆるユートピア思想と一線を画すること、福音主義というのは突き詰めれば、右の独裁政権にも左の独裁政権にも煙たがられるし、そういった政治運動に入れ込むのではなく、むしろ悲観的でどこか興ざめしているものだし、イエスキリストの十字架にこそ魅せられているものだといっています。

世界福音同盟 レオン・モリス博士によるの福音派の定義

https://worldea.org/en/who-we-are/who-are-evangelicals/

熱心に政治運動をして日本共産党の街宣車にのって共産主義者と共闘・連帯している牧師にこの福音派の定義を読ませてあげたい。あなたは福音派ではありませんと・・・。