写真:time.comから
明石清正
SALTY論説委員
カルバリーチャペル・ロゴス東京 牧師
ロゴス・ミニストリー 代表
トランプ大統領の就任式の翌日、1月21日に、米国聖公会ワシントン教区主座聖堂(ワシントン国民大聖堂)で行われた、国家祈祷会(あるいは、国民のための祈りA Service of Prayer for The Nation)が行われました。大統領の前で、米国聖公会ワシントン教区のマリアン・バディ(The Right Rev. Mariann Budde)主教が行った説教の内容が、感動的であったという反響が大きかった一方で、大きな問題を孕んでいるとして批判も多く出ています。私は後者でした。
執り成しより、政治的訴えを優先させた説教
テモテ第一2章によれば、上に立てられた人たちのために、祈り、願い、執り成すことが命じられています。それは、たとえ自分と政治信条が異なる人であっても、神に立てられた人であるゆえ(ロマ13:1)、敬うことが命じられています。当時は、専制的な皇帝であり、迫害を加える政治権力者であったのにも拘らず、使徒たちは手紙で教会にそう奨励していたのです。
しかし、当主教は、大統領選における争点になっているものを、「神の名」によって以下のように懇願しています。
「大統領閣下、最後に懇願させてください。何百万人もの人々があなたを信頼しています。そして、昨日、あなたが国民に語ったように、あなたは愛に満ちた神の摂理を感じておられるはずです。私たちの神の名において、今、恐怖を感じている自国の国民に慈愛を施してくださるよう、お願いいたします。
民主党、共和党、無所属の家庭には、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーの子どもたちがおり、中には命の危険すら感じている子どもたちもいます。私たちの農作物を収穫し、オフィスビルを清掃し、養鶏場や食肉加工工場で働き、レストランで食事をした後の食器を洗い、病院で夜勤をこなす人々の中には、市民権を持たないか、あるいは適切な書類を所持していない人がいるかもしれません。しかし、移民の大多数は犯罪者ではありません。彼らは税金を支払い、良き隣人でもあります。彼らは私たちの教会やモスク、シナゴーグ、グルドワーラ、寺院の忠実な信徒でもあります。
大統領閣下、どうか私たちのコミュニティで、親が連れ去られてしまうのではないかと恐れている子どもたちに対して慈愛の心を持ってください。そして、自国での戦地や迫害から逃れてきた人々に対して、この国で思いやりと歓迎の意を見出せるように支えてください。私たちの神は、私たちがよそ者に慈しみを向けるべきであると教えています。なぜなら、かつて私たちは皆、この土地ではよそ者だったからです。神が私たちに、すべての人間の尊厳を尊重し、愛をもって互いに真実を語り、互いに、そして神とともに謙虚に歩む強さと勇気をお与えくださいますように。すべての人々のため、この国と世界のすべての人々のために。
アーメン」
(西原 廉太氏のフェイスブックから引用)
彼女が、そのような意見を大統領に持つことは全くの自由であり、発言して良いと思います。けれども、牧者の端くれとして、聖書を教える者としての所感を申し上げます。「説教壇は神聖な場」です。神ご自身の聖なることばを執り次ぐところであり、どんなことがあっても、自分の意見はなんとしてでも退け、(言ったとしても、即座に自分の意見であると補足しないといけません)、預かったみことばを伝えることが、みこころです。神への恐れがあります。説教者は、神の名によって語っていると思っているところが、いつの間にか、自分の意見や思いになってしまっていくという、危険との隣り合わせです。他人事ではありません。
今日、バディ主教に限らず、自分の意見や信条をみことばを利用して語っている場合が、よくあると思います。そこには、大きな問題を孕んでいます。第一に、神の栄光を見えなくさせます。第二に、教会にいのちをなくします。第三に、混乱をもたらします。政治や党派性のある話は、性質上、権力闘争的な要素から免れません。ゆえに、人々の魂が神とつながる、霊の深みを乱すことになります。
「移民」ではなく「不法移民」
バディ主教の語っている内容には、巧妙なあいまいさがあります。それは、「不法移民」を一般的な合法移民の中に入れて語っていることです。「市民権を持たないか、あるいは適切な書類を所持していない人がいるかもしれません。しかし、移民の大多数は犯罪者ではありません。」と言っていますが、「適切な書類を所持していない」のであれば、不法移民です。
トランプ政権が、強制送還に着手しているのは不法移民です。しかも犯罪者です。彼は大統領選時に、何度も何度も、合法移民を歓迎していることを話しています。ところが、マスコミではその境目があいまいにされ、移民排斥を主張しているのかごとく報じられていました。
主教の説教を、聖書によって反論している以下の記事から、一部、翻訳引用します。
Woke bishop tries to lecture Trump about LGBT agenda, immigration — but the Bible fires back
「移民に対して非常に寛大であるようにという神の命令は、イスラエルに対して与えられたものである(例えば、レビ記19:33-34)。 だからといって、移民や社会的弱者を憐れみ、配慮することが神の知恵ではないという意味ではない。 それどころか、クリスチャンは歴史的にそのような人々に対して最も寛大であった。
しかし、神がそのような命令を米国のような近代国家に与えたわけではないということである。 賢明な命令ではあるが、その歴史的背景は尊重されなければならない。 さらに使徒パウロは、「神が定めた権威のほかに権威はない」(ローマ13:1)ので、「統治する権威」に服従するようクリスチャンに勧めている。 この場合、米国は移民法を含む法治国家である。 しかも、不法移民の大多数は、米国に到着してからさらなる犯罪を犯した凶悪犯罪者ではないが、米国に不法に居住するという性質上、犯罪性が伴う。」
不法滞在していた、日本人クリスチャン
私がアメリカに住んでいた時は、90年代です。状況は大きく変わっていると思いますが、友人のアメリカ人クリスチャン(日本のことを愛し、後に宣教師に)が、ぼそっとこう言いました。
「日本人の中で、クリスチャンと言っているのに、不法滞在(ビザの期限切れ)の人がいる。証しになっていない。」
そうなのです。その人は別に、日本に帰国しても、生命が脅かされることはないです。法を遵守することによって、世に対して証しを立てることは、神からの命令です。それなのに、不法に滞在している人がいれば、一時的に、家に泊めるとか、そういった憐れみはあっていいでしょう。しかし、強く、日本に帰国することを勧めるのが、教会の役目ではないでしょうか?
不法滞在の強制送還は、どの国でもやっています。日本でも、最近、難民制度を利用して長く滞在している人々に対して制限するように、法律の改正を行いました。そういった人々を教会の人々が憐れみをもって接することはあっても、なるべく法を尊ぶようにアドバイスすることも必要になるでしょう。
憐れみは、公正とか義に相反するものではありません。公正や義があって、それでも憐れみを示すという順番です。神は秩序の神であり、混乱の神ではありません。国家も、そのしもべとして立てられています(ロマ13:1)。
小児性愛者の犠牲による同性愛指向
次に、LGBTQの当事者に憐れみをと言っている部分があります。「ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーの子どもたちがおり、中には命の危険すら感じている子どもたちもいます」と言っています。このことを背景にして、ホランド・デーヴィス氏(カルバリーチャペル・サンクレメンテの牧師)は、マタイ7章にある偽教師を引用し、断罪しました。
デーヴィス氏が、なぜそこまで強く断言をしているのか?といいますと、彼とその妻は、長いこと、社会的弱者のためにいろいろな働きをしてきたからです。その一つが、LGBTQの人たちへの働きかけです。彼の経験からは、「小児性愛者によって被害を受けた子たちの多くが、望まぬ形で同性愛指向を持っている」ということです。
主教は、「トランスジェンダーの子どもたちが、恐れている」と言っていますが、なぜ、この裏にある深い問題に正義を訴えないのか?と訴えています。親から性的嫌がらせを受け、グルーミングを受けているのだと言っています。「私たちにとって、政治的違いではなく、生と死に関わることなのです」と言っています。その小さき子たちの命のことを指しています。
義のない「憐れみ」は、最も小さき者への無慈悲となる
今回の説教は、「一致」がテーマでした、しかし、一致を唱えながらかえって両極に分断を引き起こしています。なぜか?不法移民にしても、LGBTQにしても、その中にある「悪」を容認、いや促進していくからです。そこで、社会的弱者にも数えられていない、「声なき声」が潰されているからです。
不法移民が犯罪を犯して、例えば、白人の若い子がムスリム不法移民にレイプされても、それを表に出すことを当局が敢えてしないということが、欧米、特に欧州で頻繁に起こっています。そして、LGBTQのカテゴリーに入っている人々の中にある犯罪も、表沙汰にされないのです。
日本では最近、ようやく、同性愛による性犯罪が大きな話題になりました。ジャニーズ問題です。レイプやグルーミングは、男性が女性にすることが多いですが、それが発覚するのは、圧倒的に女性が被害者のほうが多いです。「男女差別」の問題として、相談しやすいし、言いやすい社会的文脈があります(それでも、大変な、血のにじみ出るような勇気が必要ですが)。しかし男性が性被害者になると、圧倒的に言いにくくなります。
いわゆる「少数派」「社会的弱者」が「罪」を犯す時に、「強者 対 弱者」という枠組みで物事を見ると、全く被害を訴えられない、「声なき声」を大勢、生み出します。そして、それを表で訴えらえない強い圧力を受けます。いわゆるサイレント・マジョリティーです。
それに対して、福音は、弱者も強者も、神の前に、申し開きをしなければいけない存在なのだと教えています。そして、差別なく、神のキリストが、その罪を十字架で負ってくださったと教えています。三日目にイエスがよみがえり、希望を与えました。罪を悔い改め、この方を信じる者は救われます。ここに、神の義と憐れみが両立し、平和と一致が与えられるのです。
右派ポピュリズムの世界的潮流
社会的弱者が罪を犯す時、「強者・弱者」だけで物事を見ると、社会全体に強い圧力がかかります。それを打破すべく、否を唱えているのが、いわゆるトランプ大統領のような、世界各地での右派ポピュリストと呼ばれる政治の動きでしょう。ここで彼らの言動や発言が激しかったり、過激に聞こえたりします。そこに粗を探すのは、実に容易でしょう。しかし、こうした、構造的に作り出されている悪を打破するための「過程」の言葉だと、冷静に見なければいけないと私は思っています。
正しい方による憐れみ
キリスト者として、教会として、何を言うことができるか?神をあがめることです。聖書の神は、義なる方、聖なる方、公正な方、そして憐れみに満ちておられる方です。このご性質に反することは、間違っています。義や公正なき憐れみは、憐れみと呼びません。それは悪であり、悪の容認です。善は善、悪は悪としないといけません。
その中で初めて、憐れみの手を指し伸ばすことができます。キリスト教会はそれが誕生してから、弱い人たちに手を差し伸べる第一人者であり続けました。まさに、イエス・キリストのお姿です。正しい方が、憐れみを示されたのです。
正しさを捨てることはありませんでした。姦淫の現場で捕らえられた女に、「罪のない人が、石を投げなさい」と言われて、石を投げるに値する罪を犯しているとみなされました。そして、彼女には「わたしも、さばかない。これから決して罪を犯してはならない。」と言われました。
参考記事:「「寛容」という名の「非寛容」」