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SALTY創刊のごあいさつ -後藤献児朗-

SALTY創刊にあたり

後藤献児朗
日本キリスト者オピニオンサイト SALTY 
代表
有限会社サーブ介護センター 代表取締役


 
戦後、急速に発展した日本社会。その中で生きる私たちキリスト者は、聖書信仰に基づき、神から「地の塩・世の光」として生きる使命を与えられていますが、多様化複雑化した情報により、何が正しく何が間違っているのかを主体的に考え、判断する力が弱められています。溢れかえる情報の中で溺れそうになっている時、私たちキリスト者のあるべき姿は、「具体的な道筋」を示すことよりも、溺れそうになっている者たち同士が手を取り合い、支え合って行かねばならないのです。

 あのタイタニックが、今まさに海に沈もうとする時、船上の楽団たちが自身の命よりも、動揺した乗客を落ち着かせようと、讃美歌を奏で死の淵に立っていた乗客たちの心に寄り添ったように、私たちキリスト者はそうありたいものです。キリスト者の中にも様々な価値観があります。当然のことです。しかしその価値観を「絶対視し、聖書のみ言葉を用いて正当化する」動きは、キリスト者の中だけではなく、社会の中においても混乱を招くこととなります。
 キリスト者の中にも「様々な考え方がある」と言うことを知って頂くことを目的とし、キリスト者有志によってオピニオンサイトを創刊するに至りました。

私たちが考えることが「神の御心であるか否か?」は神にしかわかりません。只々、皆様と共に神の御心を探し求めて参りたいと思います。
様々な立場にあるキリスト者の皆さんの、様々な角度から、時には鋭く時に温かく、そして時には淡々と語る、そんな「キリスト者の闊達(かったつ)な言論空間」を目指します。


 皆様の温かい祈りとご支援をよろしくお願いいたします。

『心を尽くして主により頼め。
自分の悟りに頼るな。
あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。
主があなたの進む道をまっすぐにされる。』
箴言3章5~6節

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「日本キリスト者オピニオンサイトSALTY」創刊にあたって-西岡力-

人間に過ぎない者たちが塩気を失わないようにもがくこと

西岡力
日本キリスト者オピニオンサイトSALTY  主筆
麗澤大学  客員教授
救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)会長
東京基督教大学  非常勤講師

 私事から話を始めることを許して欲しい。私は1981年12月に基督聖協団練馬教会で小笠原孝牧師から洗礼を受けた。イエス・キリストを救い主として受け入れ、キリスト者として生きてきて38年目になった。その中で26年間、私は日本で唯一の学生教員職員が100%キリスト者である東京基督教大学神学部で教鞭を取っていた。

 率直に話すと、私は日本のキリスト教団体のあり方にどこか溶け込めず、距離を置いてきた。私の周りにいた多くの牧師、神学者、キリスト教団体専従者らは人間的に尊敬できるよい人が大多数だった。ところが、政治の話をすると、私の考えとまったく異なる考えを持っている人がやはり大多数だった。
信仰と政治は次元が違うのだから、私の考えが多くの日本人キリスト者リーダーらと異なっていることは仕方がないと自分を慰め、なるべくキリスト者とは政治の話をしないようにしてきた。キリスト教メディアの論調にもとても同意できなかったので、購読を止めた。

 しかし、ある教団の理事会が私の専門分野である慰安婦問題について、たいへん失礼な(そのように私は感じた)質問状を繰り返し送ってきた。当該問題に40年以上取り組んできた私の研究成果を尊重しない、その態度に付き合いきれないと感じた。幸い、私は非キリスト教社会で一定の評価を受けており、不愉快なことを言ってくるキリスト教関係者と距離を置いても生きていける。私が所属する教会は私の研究を否定することはなく、反対に祈りで支援してくれている。そこで、職場をキリスト教関係ではないところに変えた。

 ところが、私が抱いた違和感、不快感と同質のものを感じている日本のキリスト者が相当数いることを知るようになった。ある人は、「政治的立場が違うキリスト教関係者に、自分と意見が近い西岡教授も神学大学の教授として勤務していると反論していたが、それができなくなって残念だ」と私に語った。
私が知り合うことになったそのような日本のキリスト者は、キリスト教を信じる者であれば政治的問題についてこう考えるべきという決めつけに精神的にとても苦しめられていた。そのため、所属教会を変わった人もいた。もしかすると、教会に行かなくなった方もいたかも知れないと心配になる。

 ここで、少し原理的なことを書きたい。同じキリスト者でも現実の政治問題について意見が一致しないことはよくある。あるいは、一致しないことの方が通常だということだ。私は、聖書は誤りのない神の言葉であり、信仰と生活の唯一の規範であるという立場に立っている。いわゆる福音主義だ。

 1990年、米国のジョージ・ブッシュ大統領はクェートを侵略したイラクに対する軍事攻撃を決断した。その前日に、ビリー・グラハム牧師をホワイトハウスに呼び、祈祷を受けた。大多数の米国の教会は戦争を支持した。一方、日本のプロテスタント教会の多数の牧師らは米国の軍事攻撃に反対した。キリスト新聞、クリスチャン新聞も米国の行動に反対する牧師らの動きを大きく報じた。

 私はこの現象を目撃しながら、ビリー・グラハム牧師や米国の教会が突然異端になったのか、あるいは、日本の多数の牧師らが突然異端になったのかと考えた。どちらとも正しくない。その事実を認めるなら、同じキリスト教信仰に立っていても現実の政治問題について意見が対立することがあるという認識を持つ以外にない。

 これを信仰的にどのように理解すべきなのか。私は神の完全性と人間の不完全性という観点を想わざるを得ない。言い方を変えると、私たちは人間に過ぎないものであって、神だけがご存じの真理のすべてを知ることはできない。

 私がいつも座右の銘にしている聖書の御言葉がある。詩篇8篇と9篇だ。9篇19節では、「主よ立ち上がってください。人間が勝ち誇らないために、国々が御前で裁かれるために。主よ、彼らに恐れを起こさせてください。己が人間に過ぎないことを。国々に思い出させてください。」と言う。我々は人間に過ぎない。聖書の人間観は、神と人間は隔絶する、我々は人間に過ぎないものだとされている。

 しかし、一方で詩篇8篇3〜6節において「あなたの指の業なる天を見、整えられた月と星を見て思います。人とは何ものなのでしょう、あなたがこれらを顧みられるとは。あなたは人を神よりいくらか劣る者とし、これに栄冠と誉れの冠をかぶらせました。あなたは御手の多くの業を人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」とされる。
人に過ぎない者に神は祝福を与え、万物をその足の下に置かれたというのだ。この地上で私たちは「神の国とその義をまず第一に求めなさい」と言われている。「求めなさい」と言われていることに私は大変教えられている。「実現しなさい」とは言っていない。人間の力で「神の義」を100%実現することはできない。

 しかし、聖書は「社会と関わるな」とは言っていない。私は学生に「それぞれが、神にあって祈りつつ情報を集め、事実が何なのかを調べて意見を出す。間違っていたら修正する」と教えてきた。

たとえば拉致問題についてキリスト者としてどう考えるべきかという問いに対してクリスチャン学者である私に聞けば答は出るのか。私はそうは思わない。私の語ることは私個人の答である。それぞれが自分の答えを考えなければならない。そして、ただ自分は人間に過ぎない者だと思って毎週教会に行って全能の神に祈るべきだ。
そういう観点からすると、今の日本の教会がしている政治運動の中では、ある一つの立場が正しいということを余りにもナイーブに思ってしまって、自分が人間に過ぎないのだということを忘れてはいないかと強く思う。

 率直な表現をするなら、そこに足りないのは敬虔さだ。全知全能の神の前に立つとき、自分は人間に過ぎない卑しいものであって間違いを犯しやすい弱い存在だと分かる。常に神を意識していれば敬虔になれる。それが足りないから、他の意見を持つキリスト者の存在を尊重できないのではないか。

 私は以上のような問題意識を持って、「日本キリスト者オピニオンサイトSALTY」の創設に加わり主筆に就任した。人間に過ぎない者たちが塩気を失わないようにもがきながら、意見を交わしていきたい。

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「日本キリスト者オピニオンサイトーSALTY」の目指すところ ー 井草晋一

柔和な主イエスにならう平和を求めて

井草晋一
日本キリスト者オピニオンサイトSALTY 編集長
日本メノナイトブレザレン教団 牧師
ピヨ バイブル ミニストリーズ 代表
Piyo ePub Communications 代表

 皆様の日々のお働きの上に、神様の祝福と平安がありますよう、心よりお祈りいたします。

「SALTY」の創刊にあたり、キリスト者としての多様な見解を表明することのできる「オピニオンサイト」の創立を願うに至った経緯と、一人のキリスト者としての自己紹介を兼ねて「SALTY」に期待することを述べさせていただきたいと思います。

 ここ4〜5年のキリスト教会(教界)の動き(福音派と言われる教会や信仰者の一部も含めて)の中で、主イエス様の教えの一節、「平和をつくる者は幸いです。」や「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」を、聖書の文脈から切り離して、自らの政治的信条や行動、時の政府の諸政策への反対を正当化するために用いる傾向が見受けられました。
これは、キリストの真実な弟子として、正しいアプローチなのだろうか?、と思わされました。

 「平和」を主張しながら、激しい憤りや違法な行動、他者の見解や尊厳などに意に返さないような人々の動きに、共感したり賛同を表明する一部のキリスト者や団体が、あたかもキリスト教会の全体のようなイメージで、テレビや新聞などの一般のメディアに取り上げられていました。また、キリスト教会のメディアにも同様に取り上げられているのを目にしました。
もしかするとこのような状況の中では、私たちの家庭や地域、学校や職場などで接する多くの人々に誤った先入観を与えてしまうのではないか?
キリスト教会(教界)といっても、個々のキリスト者それぞれに、政治的見解、支持政党、憲法問題、原子力や自然エネルギーに関する諸政策、国防問題や、外交政策、経済・社会政策などに関しては多様な考えや見解があり、このことを表明する「場」が必要なのではないだろうか?
教会は、このような多様な視点や見解を持つ人々が、誰でも自由に心おきなく出入りできる「神の家族」なのではないか?
教会は、救い主イエス・キリストの十字架の贖い(身代わりの死と復活による救い)を受けた人々、それを知りたい、求めたいと思う人々が「喜んで集える場所」だということを、多くの人々に知っていただくことが必要なのではないか?

 このように考えていた中に、志を同じくする者たちが、この2〜3年の間に「社会問題を考えるキリスト者」として不思議な形で集められて来ました。そして、満を持して2018年4月1日に、「日本キリスト者オピニオンサイトーSALTY」はスタートいたします。

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 私は、歴史的平和教会(フレンド派(クエーカー)、メノナイト、ブレザレン)のメノナイト教会の一つ、「メノナイトブレザレン教会」に属しています。
 大学一年の春、1973年3月11日に初めて石橋キリスト教会の礼拝に出席しました。そこで牧師の語る「救い主イエス・キリストは、あなたの罪を全てご存知です。けれどもあなたの罪を赦し受け入れてくださるために、あなたを『友よ』とを招いてくださっておられるのです。」というメッセージを聞いたのです。
メッセージの最後に牧師が「皆様の中で、イエス・キリストを罪からの救い主として信じたい、と願う方はありますか。」と促された時、心を激しく揺さぶられた私は、涙ながらに悔い改め、祈りの中で右手を上げて信仰の表明をいたしました。学生時代、社会人としての4年間、そして神学校での3年の合計10年間にわたって、有田優(ありた まさる)牧師から信仰の導きと薫陶を受けました。

 神学生の時、私どもの教団の「福音聖書神学校」の校長の ハリー・フリーゼン先生がメノナイト教会の信仰の特徴に関する授業の中で、「キリストの弟子であることの究極的な帰結が、『無抵抗主義』である。」と語ってくださったことが、今でも忘れることができません。

 平和へのアプローチには、色々な選択肢があろうかとは思いますが、「平和をつくる」とは、キリストが招かれたように、「<遣わされた場で>自分の命を捨ててキリストに従っていくこと」であると感じています。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はない。」(イエス・キリストの言葉)

 私は、日本の武士道や文化(〜道)の精神、そして、自衛官や海上保安官、警察官、消防官を始めとして、社会の様々な分野で、人々の安全や命、生活のために、日夜、命をかけてその職責を果たされておられる方々の姿とその決意を思う時、キリストが願われた如く「キリストの心」「キリストのように生きる」という意味での、共通点、また、共感を覚えるものです。

 この 「日本キリスト者オピニオンサイトーSALTY」において、「愛をもって真理を語り」「尊敬をもって互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい」との神の御(み)教えを心に、真実で建徳的な意見交換をしていきたいものです。
そして、日本人キリスト者として、また、このような趣旨に共感を覚えられる皆様と共に、来るべき「神の国」を待ち望みながら、お互いに「平和(シャローム)に生きる者」としていただけるなら、幸いだと思わされます。

2016年1月27日  井草晋一
(facebook メッセージ・一分間テレホンメッセージ)

『平和をつくる者は幸いです』<7>

「平和」、すなわちヘブル語のシャローム、ギリシャに訳されたエイレーネーは、戦争や争いのない状態だけを示す言葉ではありません。「物質的・肉体的な事柄」を表し、「関係」や「道徳的な意味」を表し、「幸福の状態」、「正しい関係」、「善の状態」を表す範囲の広い言葉です。

罪と悪と反逆によって断絶していた神との関係、破壊されていた人間相互の関係は、キリストの十字架の贖いによって、正しく清い愛に満ちた本来あるべき姿に回復されました。

今、主イエスを信じ、平和の君に倣って、健全で、一緒で、健やかな世界をつくろうではありませんか。

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」
(マタイの福音書5章9節)