未だ米国に支配されている日本 – 中絶や同性婚から見る ~ 明石清正 ~

 

明石清正
SALTY論説委員
カルバリーチャペル・ロゴス東京 牧師
ロゴス・ミニストリー 代表

 今、米国社会で中絶の賛否が大きな話題となっています。「(米国の)連邦最高裁は2021年12月から、南部ミシシッピ州が導入した「中絶制限法」の合憲性をめぐって審理を続けている。この中で同州は女性に中絶の権利を認めた1973年の「ロー対ウェイド判決」を見直すよう求めていた。米政治サイトのポリティコが2日、同判決を覆す最高裁の多数派意見の草稿を入手したと報じた。」(日経5月4日「中絶制限、米最高裁草稿リークで激震 大統領は反対」)

 日本に生きるキリスト者にとって、同性婚や中絶の問題は、とっても複雑な思いになり、難しいと感じています。中絶のことは、日本では政争にもならない問題ですが、なぜこのように大きく報じられるのか?これは、キリスト者でない方であっても、大いに関係する問題であり、日本社会に生きる難しさを感じます。なるべく、整理してお話ししていきたいと思います。

日本人の知る同性婚や中絶は、主に米国発

 ひとえに、日本国がいかに米国の影響下にいるかを、まざまざと見せつけられる出来事なのです。

 第一に、同性婚が今、世界の潮流であるように思われていますが、世界を見渡せば、西欧の世俗社会の運動にしか過ぎないものだということです。

 今、ロシアがウクライナを侵攻し、東欧諸国は猛烈に反攻していますが、同性愛については、両者とも反対の立場です。東方教会の影響があるからです。中東の東方教会も反対の立場です。イスラム圏は言わずもがなです。

 けれども、西方教会(カトリックやプロテスタント)も元々、保守的な価値観を持っており、世俗勢力によって圧倒されているだけです。その証拠に、アフリカ諸国でプロテスタントが圧倒的に強い国でも、同性婚を認めていません。アジア諸国も、同性婚賛成は少数派です。それにも拘らず、日本においては同性婚が、世界の潮流であるかのように見られます。それは、米国で起こっていることがそのまま受け入れられているということがあります。

中絶や同性婚の過酷な現実

 第二に、中絶や同性婚ほど、表と裏が乖離している実情はないと思います。米国では女性の選択の権利とか言われて、中絶の合法化がなされていますが、どれほどの女性がこのことで傷ついていることでしょうか?母体に与えられた命は、母親はそれは一人の命であることは、良く知っています。それを根こそぎ取るのが中絶です。権利とか言っていますが、そんな生易しい問題ではありません。しかし、表向きはきれいにしているだけなのです。

 同性婚も、異性愛の結婚よりもはるかに離婚率が高いです。また同性愛者は、異性愛者よりも、複数の人と性の相手としており、またエイズに罹患する確率も高くなっています。なぜなら、結婚は契約(誓約)に基づいているものなのに、「愛し合っているのだから」という感情が先行してしまっているからではないでしょうか?

 しかし、日本はある意味で、ここは上手に対処していました。中絶がどれほどむごいものかは、現場が良く知っている(母親も医療従事者も)。だから、一定の「恥」がそこにはあり、だから静かにしておく、伏せておくということがあります。そして同性愛者も日本の中では、ずっとサブカルチャーとして生き続けており、社会生活、市民生活を円滑に送りたいという思いがある。それで日本は、結婚制度とは異なる、「パートナーシップ制度」を設けて補っている。

西欧社会にある理想と現実の乖離

 しかし、西欧諸国は違います。「権利」として騒ぎ出すのです。一つの思想の流れとして動いています。つまり、男女の平等や少数派の権利というところから始まり、ついに男女の区別こそが差別、少数派という立場こそが差別という、絶対平等主義の思想があります。

 これでは社会も秩序も、すべて取り壊してしまいます。トイレの男女の区別、お風呂の男女の区別まで壊しかねない。しかし、米国の影響がそのまま日本に入って来るので、日本にあって、現場における実情を踏まえた制度でさえが壊れそうになっている。西欧社会ほど、理想主義と現実が乖離していく二重基準を持っているか知れません。日本は、こうした弊害に影響されることなく、調整しながら、バランスを保っていこうとする社会が保たれていくことを、切に願います。

聖書的とは限らないキリスト教社会

 第三に、やっかいなのは、これがキリスト教と深くかかわっていること。日本に生きるキリスト者にとって、自分たちの信仰の中で、母の胎内の子は生きていて、赤ん坊は神の賜物であり、結婚は男女のもので、その子は二人の一心同体の表れであると見ています。しかし、欧米社会はそれを法制化して、それにそぐわない人々を排除してきた歴史があります。その反動として、今は、信仰の立場として、同性婚に反対、中絶に反対と言っている人々が迫害されています。

 米国で大統領選にまで争点になる生命尊重の立場は、日本においては、保守やリベラルに関係なく、人道的な慈善活動として受け入れられています。望まない妊娠をしている若い女性が、安心して出産できる体制を作っている病院や助産院が、カトリック、プロテスタントのどちらにもあります。テレビでもしばしば報道されます。しかし米国では、この生命尊重を言うとその人は右派だとして、政治的立場として二分してしまうのです。

(しかし、日本国以上に、米社会では圧倒的に、養子縁組の制度が定着しており、また、若い女の子たちを守り、赤ちゃんを守る教会の活動は広範囲にあります。しかしマスコミでは、それが伝えられない。ホームレスを助けている活動と同じように、あまりにも定着しているので、報道する価値もないと思っているのでしょう。しかし、これこそが真っ当な生命尊重運動だと思います。)

 聖書的にはどうか?というと、ローマ時代、赤子のゴミ捨て場がありました。今は技術がありますから、子宮にいる間に同じことをしているのですが、当時は生まれてきたら捨てることで処分するのです。そこに、やってきて赤ん坊を救出していたのがキリスト者たちです。これが生命尊重の始まりであり、今も教会の中に息づいているのです。どちらが聖書的か?というと、米国の政治運動よりも、むしろ日本の若いお母さんに対する働きかけなのです。政治的立場とは関係ない、生命尊重の立場です。

信仰としての生命尊重と同性婚反対

 日本にいると、欧米社会がキリスト教の影響がある分、とばっちりを受けるというか、本来の聖書的キリスト教から離れたところでの議論が、自分たちにも降りかかってくるというのが、本音でしょうか?政治的になりたくないですが、信仰者として、生命尊重や倫理の立場は保っていきたいと思っています。