映画「ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師」を観て ~ 明石清正 ~

明石清正
SALTY論説委員
カルバリーチャペル・ロゴス東京 牧師
ロゴス・ミニストリー 代表

私は、日本での上映前に、既に二度、本映画を視聴しました。一つは、試写を、関係者の方から勧められました。ぜひ鑑賞の感想を書いてほしいと頼まれました。実は、留まっていました。忙しかったのですが、実は、もう一つの思いがあります。それは、「あまりにも、現代に通じる」そして、「この自分の身に迫って来る」ということです。

© 2024 Crow’s Nest Productions Limited

あまりにも、現代的、個人的なメッセージ

もう一つ観た機会は、ドバイから東京に飛ぶエミレーツ社の飛行機の中においてです。イスラエルからドバイに飛び、乗り換えました。

24年と25年、私はイスラエルに行き、23年10月7日にハマスによる大虐殺を受けた、イスラエルの人々を、主イエスにあって慰めに行くために、連帯旅行に、行きました。そこで、ユダヤ人たち自身が、ホロコーストを生々しく想起するおぞましい殺戮現場を、見ました。生還を果たした方も会ってくださいました。しかし、世界はむしろ、イスラエルを非難し、世界中のユダヤ人が冷たい視線を向けられ、数々の反ユダヤ主義の憎悪行為が噴き出しました。

2024年5月 Kfar Azaにて

そんな中で、私は、キリスト者として、その信仰告白のゆえに、イスラエルと共に立つことを、初めから公に示しました。このようにソーシャルメディアだけでなく、イスラエルの公的機関のイベントにも参加しました。イスラエルの方々から、ユダヤ人から、「祈るだけでなく、声に出してほしい」という言葉を聞いていたからです。

けれども、世界の、そしてこの日本でもキリスト教会は、「ここでイスラエルを擁護するのか?」と言われ、神学的に云々とも言われ、それはまさに、ボンヘッファーの告白教会が、帝国教会や沈黙する教会から受けた仕打ちと重なるのです。

映画では、ナチスによる聖書のアーリア化について、多くが語られました。脱ユダヤ化をし、それと置き換えて、アーリア人、キリストではなく総統崇拝に変えました。

今や、パレスチナ当局は、イエスはパレスチナ人であったとし、パレスチナ人は先住の民であり、ユダヤ人がその歴史を奪ったとする、パレスチナ優越主義に基づいた置換神学を宣伝していますが、当時の妥協した教会と、どこが違うのでしょうか?ハマス、いや、パレスチナ・アラブ人の界隈では、ヒトラーの「我が闘争」は、普通に売られているのです。

教会はキリストがかしら、神のみことばのみ

告白教会の彼らは、教会においてキリストだけがかしらであり、人間はここに入り込む余地はないということ。そして、神のみことばだけが権威であり、人のことばには、決して譲らないことを、説教壇で、親衛隊がいることが分かりながら、大胆に語りました。

日本の教会の指導者たちには、戦時中の教会が、ご真影を掲げさせられ、また君が代が賛美歌にさしはさまれたことを語る人々が多いです。もちろん、このことはそのまま当てはまります。けれども、現代において、その説教壇で、「聖書が神のことば」であり、「そのまま」語ることよりも、自分の思いが、差しはさまれていることはないでしょうか?

そして、神のみことばに反することが、社会の規範、そして国の規範になっていく時に、そのまま取り入れて、矛盾を感じないということはないでしょうか?これは、ナチス政権下だけでなく、キリスト教会における絶え間ない試練です。キリストのみがかしらであり、私たちが宣べ伝え、教えるのは、神のみことばだけです。

主のなさることと、行動の狭間で

ボンヘッファーのしたこと、最後のヒトラー暗殺計画については、私は、とても複雑な思いがします。それは、彼が絞首刑にされて二週間後には、囚人たちが解放され、間もなくしてヒトラーは自殺したからです。ダビデのことを思い出します、それは彼はサウルに手を出さなかった。しかし、サウルは主の手に落ちました。主がさばかれ、主が殺されることのほうが、良いのではないか?ということです。

しかし、彼が捕らえに来た親衛隊に行った言葉には、悩むほど考えさせられます。子供を轢こうとしている車があったら、全員で運転手を止めるだろう、と答えていることです。

私は、身近で、義憤にかられることが時々あります。虐められている人や、危険なことをしようとしている人がいても、だれも見向きもしてないで平静を装っている時です。ある時、中高生の男の子たちがプラットフォームでふざけていて、何かを線路に落として、拾おうとしていました。私は、かなり遠くにいましたが、大声で、だめだ!と叫びました。自分たちが乗ろうとしている電車が間もなく来るのに、どうして声を出さないのか!と苛立たしくなる時もありました。

行いのない信仰は死んでいると、ヤコブは手紙の中で言いました。ボンヘッファーは、目に見える実社会の中で、信仰を行動に起こすことを進めています。いろいろ、思わされます。

きれいに語るキリスト者 vs. 汚くなるけど行動するキリスト者

しかし、キリスト教会には、癌みたいなものがあります。それは、何か、信仰によって先頭に立っている時、また、御霊が強く働かれて、リバイバルのような信仰復興が起こっている時、必ずと言ってよいほど、そのことで神をほめたたえたり、自分自身に学ぶのではなく、冷えた批評をする人々がいることです。

箴言14:4 牛がいなければ飼葉桶はきれいだが、豊かな収穫は牛の力による。」とあります。飼い葉桶が牛によって汚くなるのですが、それによって、豊かな収穫が臨みます。同じように、主が人々を用いて、働かれたら、そこには一種の汚さが残ります。何か、神学的に間違っていることがあるかもしれない。その人は、完全ではないし、欠点が見えてくる。多少、極端なことが起こるなど。

しかし、「きれいに」語ることよりも、汚れてもいいから、動いている人にこそ、神を喜ばせる実を結ばせているのです。これは、聖書の人物においても、その後の、主に用いられた人々にしても、一貫して、例外なしに、起こっている原則です。

私の信仰は、ジーザス・ムーブメントとも呼ばれる、カルバリーチャペルから影響を強く受けています。そこで、いわゆる静的な神学と呼んでよいものは、信じていません。動いている、生きている神学を、目で見る形になっているのを信じています。ボンヘッファーも、ドイツの神学に凝り固まった教会ではなく、ニューヨークのハーレムにあった、ゴスペル(黒人霊歌)によって、生きた信仰に出会います。ここの面でも、通じるものがありました。

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Chuck Smith (left-background) and Lonnie Frisbee (right-background), conducting a mass baptism at the at Pirate’s Cove, which is part of the Corona del Mar State Beach.

ヒトラーは、反キリストの霊に動かされた男

そして最後に、もう一つ。ヒトラーは、反キリストの霊が働いている、一つの型だということです。反キリスト、あるいは獣、不法の人とも呼ばれていますが、聖書は、キリストが現れる前に、偽者が現われ世界をだますことを、預言しています。

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それが、ダニエル7章の幻、小さな角が、目をもって、口をもって大言壮語して大きくなり、世界を支配するところに現れています。ヒトラーは、当時、小物だと言われていました。しかし、どんどん力を持っていきました。そしてドイツ全体をひっくり返し、自分自身が総統になります。小さな角が大きくなり、十本のうちに三本を倒し、世界を征服するという流れに、そっくりなのです。そして、ダニエル11章には、自分自身を神としていくということも、書いてあり、宗教も呑み込み、自分がかしらとなっていく姿にも、ヒトラーに酷似しているのです。

そして、反キリストは、ダニエル書の聖徒たち、すなわち残されたユダヤ人にも迫害を加え、マタイ24章での荒らす忌まわしい者も、ユダヤ人への大迫害を主イエスが預言され、黙示録12章にも、イスラエルを滅ぼそうとしている悪魔の姿が出てきます。ヘブル人の男の子をナイル川に投げ入れることをファラオが命じた、あの反ユダヤ主義も、ヒトラーと実に酷似しているのです。

しかも、独軍は、北アフリカにまで攻めていきました。中東の周辺にまで押し寄せてきました。聖書の舞台であり、かつてのローマ帝国の一部です。しかし、大きな違いがあります。それは、当時、イスラエルと都エルサレムは、英国委任統治領であり、聖書が描くように、イスラエルにユダヤ人が安心して住んでいるのではないのです。

しかし、ホロコースト以後、イスラエルが建国し、かつエルサレムがイスラエルに奪還されました。しかし肝心の神殿の丘は、イスラム教の管轄下にあります。

こうやって、ヒトラーは反キリストではないものの、その霊によって動かされた人物であることは確かです。初代教会から、皇帝ネロが反キリストではないかと思われ、ヒトラーが反キリストだとみなした当時のキリスト者たちがいたとも、聞いています。しかし、反キリスト自身ではないですが、その霊が明らかに働いているのは、ヒトラーにおいて明らかだったと思います。

死んで、初めて生きる

こういったことで、ボンヘッファーの事を知るのは、今の時代に、もろ語っているメッセージがあります。最後に、彼から信仰の先輩として学ぶのは、「死後のいのち」です。彼が、敢えてドイツに戻り、死ぬことも覚悟して、その後に、よみがえりがあることを信じました。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」(黙示2章10節)

自由を与える真理を伝えるために、自分がこうなっても構わないという覚悟ができて、初めて真理を伝える自由が得られます。自分に死ぬという、絶え間ない決断です。聖書をそのまま教えている時も、神が罪とされていることが、国が、十年後に法制化し、「こんなことを言ったら、録画している動画を基に、誰かが自分を告訴しても、おかしくない。」と思うことがあります。けれども、「いいや、罰金を払っても。牢屋に行っても。」と心で決めて、それで初めて、そのまんま、語ることができます。

死ぬことによって、初めて自由があり、いのちがあるのです。

参考になった、映画鑑賞後の動画: