クリスマスメッセージ イエス様が飼い葉桶で寝かされたということ

イエス様が飼葉桶で寝かされたということ

クリスマスのこの時季、多くの牧師は、語る者と聞く者とのあいだにある「聖書の知識のムラ」に頭を悩ませます。

というのも、邦訳聖書は旧約聖書がおよそ1500ページ、新約聖書がおよそ500ページ、合わせて約2000ページあります。語る側としては、本当はこの2000ページにわたる物語を、できるだけ満遍なくお伝えしたいのです。

ところが、イエス・キリストの誕生に直接かかわる記事は、マタイによる福音書にわずか3ページ、ルカによる福音書に6ページ、合わせても10ページほどしかありません。2000ページのうち10ページ、つまり全体の200分の1だけが「クリスマス物語」なのです。

もし私たちがページ数に比例してメッセージを語るなら、週に一度、年間50回説教したとして、クリスマスメッセージは4年に1回でよい計算になります。ところが現実には、教会では毎年12月になれば必ずクリスマスメッセージが求められ、年間50回のうち4〜5回、つまり10回に1回はクリスマスの話をしている、というのが実情です。

聞く側も同じです。中には「去年のクリスマス以来、一年ぶりに教会に来ました」という方もおられるでしょう。その方にとって、一年前に聞いたのもクリスマスメッセージ、今日聞くのもクリスマスメッセージ。聖書の200分の199の物語はほとんど知らないのに、クリスマスのエピソードだけは妙に詳しくなっている、そんなことが起こり得ます。

もしかすると、語る側は「もうクリスマスの話はこすりにこすって、語ることがない」と感じ、聞く側は「クリスマスの話なら耳にタコができるほど聞いた」と感じている――そんな状態かもしれません。

それでもこの紙面で、私が語るのもやはりクリスマスメッセージです。しかし、聖書という不思議な書物は、同じ物語を何度読んでも、そこから新しい光を与えてくれると信じています。

1.ページェントに現れた「本当のクリスマス」

導入に、クリスマスのページェント(降誕劇)にまつわる一つの話をご紹介します。ディナ・ドナヒューという人がまとめたクリスマス短編集の中に “Trouble at the Inn(宿屋での困った出来事)” というお話があります。

ある田舎町の教会でクリスマス・ページェントが行われました。宿屋の主人の役に選ばれたのは、学習がゆっくりで、みんなから少し心配されていた少年ウォーリーでした。セリフはとても簡単です。

マリアとヨセフが扉をたたき、
「トントントン、宿屋さん、どうか一晩泊めてください」
とお願いすると、宿屋の主人役のウォーリーが、
「どこの部屋もいっぱいですよ。向こうの宿屋に行ってください」
と断る――それだけです。練習のときは、彼も何とかそのセリフをこなしていました。

ところが本番で、思いがけないことが起こります。台本どおりに一度はきっぱりと断ったウォーリーでしたが、しょんぼりと背を向けて去っていこうとするマリアとヨセフの姿を見て、急にかわいそうになったのです。見る見る目に涙をため、震える声でこう叫んでしまいました。

“You can have my room!(僕の部屋を使っていいよ!行かないで!)”

会場は一瞬、凍りついたように静まり返りました。けれどもやがて、人々は胸を熱くしながら、「あの年のページェントが、一番クリスマスらしいページェントだった」と語り継ぐようになったと言われます。

2.「ウォーリーが一人もいなかった」ベツレヘム

私は三人の子どもの父親ですが、三人とも帝王切開で生まれました。出産の日にちも時間もあらかじめ決まっていて、医師や看護師も整えられている。それでも、父親としては不安でたまりませんでした。母親である妻はなおさらだったと思います。

それを思うと、マリアとヨセフの不安はいかばかりだったでしょうか。予約もできない時代、身重の妻を連れての長旅の末、やっと着いたベツレヘムで「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ2:7)と告げられる。親戚もいたはずの町で、どの家の戸も閉ざされていたのです。

イエスさまが飼い葉桶に寝かされた、ということは、あの町の宿屋に一人も「ウォーリー」がいなかった、ということです。もしも宿の主人のうち誰か一人でも、
「You can have my room.(私たちは馬小屋で寝るから、あなたがたが部屋をお使いなさい)」
と言ってくれていたら、救い主は飼い葉桶に寝かされることはなかったでしょう。

ローマ皇帝アウグストは住民登録を命じましたが、妊婦や病人に対する配慮は何一つありませんでした。上にたつ為政者から、町の一人ひとりに至るまで、「自分のことで精いっぱい。ほかの人のために自分の場所を空ける余裕なんてない」という社会でした。

現代でも、世界のどこかで国家のリーダーや大統領が来日するときには、最高級のホテルが用意され、警備が敷かれ、最高のおもてなしがなされます。本来なら、世界の造り主でありまことの王であるお方こそ、そのような待遇を受けるにふさわしいはずです。

しかし実際に起こったのは逆でした。神の御子イエスは、誰からも歓迎されず、家畜小屋で、飼い葉桶をゆりかごの代わりにして生まれたのです。そこに、この世界の自己中心と冷たさ、そして私たち一人ひとりの罪の姿があらわになっています。

3.飼い葉桶から十字架へ ― 私たちの闇のために

聖書は、イエスさまが「布にくるまれて」飼い葉桶に寝かされたと記します(ルカ2:7)。

また、後日イエス様を拝みにきた占星術の学者たちが持ってきたプレゼントの中に没薬があったことを記しています。(マタイ2:11)。ヨハネによる福音書の19章39節には、イエスさまが十字架で死なれたあと、ニコデモが没薬とアロエを混ぜた香料を大量に持ってきて、イエスの遺体を布で包んだとあります。

布にくるまれてお生まれになり、没薬がささげられたイエス様。同様に布にくるまれて葬られた没薬の香に包まれたイエスさま。そのお姿は、初めから「私たちの罪のためにいのちを捨てるために来られた方」であることを静かに物語っています。飼い葉桶は、やがて向かう十字架と墓を、遠くから指し示しているとも言えるでしょう。

クリスマスは、かわいらしい赤ちゃんの物語で終わるための日ではありません。むしろ、神が私たちの心の一番暗いところ、誰にも見せたくない罪や傷や孤独を根本から救うために、死さえもいとわずに来てくださった――そのことを思い起こす日です。

イエスさまは、私たちの闇から目をそらさず、そこに降りてきてくださいました。私たちのために、ご自分の「部屋」を、いのちそのものを差し出してくださったお方です。

4.私たちの応答 ― 「You can have my room」

では、そんなイエスさまに対して、私たちはどのように応答するでしょうか。

ベツレヘムの町には、一人のウォーリーもいませんでした。しかし、このクリスマスメッセージを呼んでおられる読者の中には、「You can have my room」と言うことのできる人が起こされるかもしれません。

「イエスさま、私の心の真ん中を、どうぞあなたが用いてください。
私の時間も、持ち物も、人生も、あなたのために開きます。」

そう告白する人こそ、クリスマスの本当の受け手です。そして、そのように心を開いた人を通して、今度は私たちが、困っている人、居場所のない人に向かって、「You can have my room」と言えるように変えられていきます。

このあと皆さんがページェントをご覧になるとき、あるいはこれから何度もクリスマス物語を耳にするとき、どうか思い出してください。飼い葉桶におられたイエスさまは、あなたの闇を負い、あなたに新しいいのちを与えるために来てくださったお方だということを。そして今、あなたの心の戸をたたきながら、静かにこう語りかけておられるのです。

「あなたの部屋に、入ってもよいですか。」

その招きに、「イエスさま、どうぞ、You can have my room」とお応えすることができますように。