明石清正
SALTY論説委員
カルバリーチャペル・ロゴス東京 牧師
ロゴス・ミニストリー 代表
日本の福音派において、性的少数派の理解について、相次いで異なる団体が立ち上げられました。(クリスチャン新聞の記事)その中で、ドリームパーティー(DreamParty)が、「第三極」として対話を重視する目的で立ち上がりましたが、そのホームページの悔い改めの言葉を読んだ後に、関係者やその周囲の方々に個人的に読ませていただきました。その文章をソルティーにも掲載いたします。
文中にもありますが、これはドリームパティ―の方々の働きを批判するものではなく、むしろ同意しており、その一歩前に進んだ働きにとても感謝しています。しかし、これは教会と同性愛の問題に留まらない、福音の本質を問わないといけない内容なのではないか?という提起として書かせていただきました。我がソルティーは、政治的・社会的話題を主に取り扱っていますが、根底には同じ「キリスト者の謙遜」への問いかけがあります。
福音派から第三の極として立ち上がったDreamParty
その悔い改めは、パンドラの箱ではないのか?
私は、悔い改めの声明の内容に同意です。けれどもなぜか、素直に賛同しますという思いが湧いてきませんでした。なぜか?といいますと、自分のこれまで自分の中で抑えていた、日本の「福音派」を称する人々の態度に対する疑念が、一気に心から雪崩れるようにでてきたからです。自分も福音派信者だと思って、交わって行こうとしても一種の壁を感じ、その中には入れない排他的なものを抱いていました。それを、この声明は、言葉によって言い表しているからです。
同性愛者の人々に対する悔い改めに終わらない、パンドラの箱のような悔い改めです。いろいろな話題に対して、「聖書的に正しくあろうとしながら、結局、「当事者の存在が無いかのように」無視して、正否を論じる」という過ちを、至る所でしているからではないか?と思いました。
私は神学的には、福音主義だと思います。聖書は誤りなき、神のことばだと信じています。けれども、どうしても福音主義を標榜する人たちと足並みをそろえることができませんでした。果たして、肝心の「福音」を理解しているのか?と首をかしげることが、多くありました。それは、私が育った聖書教育の環境によるものなのでしょうか?分かりませんが、背景をご説明します。
私が、アメリカで聖書と教会の働きについて学んでいた時、学友の9割は、元麻薬常習者でした。移民の一世の人たちも多くいましたが、タイからの兄弟は、麻薬三角地帯におり、家族で殺し合いをしていました。軍隊にいた人たちも多くいました。いわば底辺の人たちです。ある人は、人生の半分以上を牢屋で過ごしました。ある人は、数回離婚しており、最後に付き合った女性と共にクリスチャンになりましたが、前の妻が自分の目の前で自殺をしました。
こうした中で、神が救ってくださいました。その喜びが強烈にあり、一人ひとりが、へりくだっていました。ギリシア語は、アルファベットを覚えるのも大変な様子でしたが、福音宣教者としての資格、つまり、「キリスト・イエスは、罪人を救うために来てくださった。」という真理のことばを語る備えが出来ていました。
日本に帰国してからの衝撃
しかし日本に戻って来て、その福音の理解が、「福音派」と呼ばれている人々と、果たして同じなのか?と戸惑うことが多くありました。
日本に戻って来て、アメリカでは同時多発テロが起こりました。一週間も経たないうちに、なぜか米国がテロの責任者であるかのような論調がキリスト教の世界から起こり、なんと、米国がテロ国家であるとの論説が、キリスト教の新聞や雑誌に載りました。ある論者は、なぜかイスラエルが悪いとする主張を。ある雑誌は、自作自演の陰謀論の記事も書いていました。
アメリカの国のあり方や、教会とのつながりについて論評していいと思います。けれども、まだ恐ろしい惨事の中にいる人々がまだ多くいるのに、その中でキリスト者にも犠牲者がいるだろうし、遺族も多くおり、多くの教会が救援活動をしている時に、そんなことを良くも言えたものだと、怒りと悲しみで、体が震えた覚えがあります。
正否を判断しているのですが、そこに「当事者の存在」が欠けているのです。ここが怒りの原因です。東日本大震災の後に、多くの教会が救援活動をしているのに、「東北地方は偶像礼拝が多いから、そのような惨事になったのだ。」とした韓国人牧師の発言がありましたが、韓国内外で、批判がありました。日本の教会は、同じ過ちを犯していたのに、何ら悪びれることはありませんでした。
私は、イスラエルやユダヤ人については、関心をもってずっと眺めてきました。先ほど話した学友や教会の中に、ユダヤ系の兄弟が普通にいました。ワシントンDCのホロコースト記念館に行き、衝撃を受けました。こうした経緯から、イスラエルにも何度となく足を運び、ずっとニュースを追っています。実際にユダヤ人に人道支援をしている団体、またイエスを信じるユダヤ人たちを助ける団体の人たちとも友好、協力関係を結んでいます。
日本では、キリスト教会では、「ディスペンセーション神学」の枠組で、イスラエルをああだ、こうだ議論しているのですが、欧米では、世界がまるで違います。彼らにとってのユダヤ人は「肌感覚」なのです。「目の前にいる友人であり、隣人」なのです。そして、イスラエルは、「何世紀にも渡って、キリストの名によって迫害した教会社会の中で、自分たちの生存権を確保するために建てた国」です。終末論に関する神学の体系などではなく、現実の人々、現実の国を見ています。私もそういった見方です。その見方では、ディスペンセーション神学云々というのは、全く通用しない、神の生きている証しがあります。
そういった片鱗でも知っているのは、そうした、ユダヤ人への働きかけをしている団体です。団体の関係者は、生身のユダヤ人の友人を多く持っています。しかし、ある神学教師は、こともあろうに、そういった団体に対して、実際に会って調査することもなく、また、一次資料を得ることもなく、広報で出ている情報だけで判断している姿を見ました。私は内部の方々を知っていますから、聞いてみたら、一度も照会に来なかったとのことです。この人は学者のフリをしているだけだな、と思いました。
そして話は変わり、元自衛隊の牧師の友人がいます。彼は、現役自衛隊だった時に、自衛隊に属しているというだけで、罪を犯しているように、何度となく、いろいろな教会で言われました。イエス様も、聖霊も、百人隊長に信仰を与えられたのにもかかわらず!
また、元ヤクザの牧師さんが教えてくれましたが、刑務所に入ったことのある人が回心し、また牧師になる準備のため神学校に入ろうとしたら、前科があるということで断られました。イエス様は、取税人や罪人と食事をされたのにもかかわらず!こういった人たちは、福音書や使徒の働きを、一度でも読んだことがあるのでしょうか?
あるクリスチャンの学者が、その学術的主張が気に食わないとのことで、大学に、ある福音派牧師が圧力をかけました。大学はその圧力に屈し、ご本人は辞任しました。これ、学問の自由や人権を無視した行為ですね?考えの違いがあっても、キリスト者は福音にあって一致できるはずでは?
私には、韓国や中国のクリスチャンと交わりがありますが、韓国の教会の牧師さんは、日本の教会の人たちから実質、交わりや協力を何度も断られた経験があります。おそらく、「前例がない」とか「自分たちの枠組に当てはまらない」とか、いろいろな理由があるでしょう、でも、「ユダヤ人もギリシア人も、キリストにあって一つ」という、福音の真髄はどこに行ったのでしょうか?
福音を信じているはずなのに、「福音派」と言われる人々が「外の人」や「少数派」を受け入れない姿を、何度も何度も見てきた者としては、「同性愛者だけじゃないでしょ?謝るのは?福音そのものの理解が誤っていたことに対する悔い改めをまずしたら?」という、反応になってしまうのです。
同性愛者たちだけに限らない、悔い改めの対象
同性愛者の人たちに対して悔い改めている、いろいろな項目を、そういった人々に当てはめても、全部、そのまま通じます。「存在を否定する言動の悔い改め」については、「ユダヤ人」を代わりに入れてみてください。イスラエルやユダヤ人のことを、現実に存在する人々のようにして、「神学」してきましたか?キリスト教会は、まさに「神学」が、数多くのユダヤ人を差別し、追放し、強制改宗し、虐殺した実存があるのに・・。
「理想的家族像を過度に強調した悔い改め」については、「武器のない世界の理想」を過度に強調して、「武器を持っていなくても一方的に侵略してくる勢力はあると想定して、武器を取り、日本国を、国民を守ろうとしているクリスチャン」の存在を無視していませんか?
(ところで、福音派の教会が、なんと、独身者や離婚経験者に対する配慮が無かったことを今回知り、驚きました。私たち夫婦は子供がいませんし、教会の多くが独身、もしくは、片方だけが信者の人が大半です。子供がなければいけないのが「福音派」なのだとしたら、私は福音派ではないですね。)
などなど。同性愛者に限らず、いろいろな「外の人」「少数派」に当てはまります。
「福音主義」ではなく、パリサイ派的「律法主義」では?
文章の中で、これが問題の大きな原因だと思ったのが、次です。
「おそらくみなさんの、つまり、私たちの問題は、聖書を通して啓示された真理を、私たちが誤りなく理解できている、という前提にあるのでしょう。この場合、それぞれ真理を見出した者たちが、自分の正しさを証明し、他者の間違いを、これまた証明することに集中することになります。」
これはもはや「福音主義」ではありません。「律法主義」に近いもの、パリサイ派の理解なのではないでしょうか?
福音の真理とは、「神はすべての人を悔い改めに導こうと忍耐しておられる」ということです。「恵みによる救い」が、正しい聖書理解のはずです。社会に世界に、いろいろな人がいます。そのすべての人を愛しておられる。受け入れておられる、というのが福音の真理です。そして御霊の力で、人が変えられることを神は願っておられる。そこに主の栄光が現れるのではないでしょうか?
もうお分かりになったでしょう。この悔い改めの表明は、「パンドラの箱」のように見えるのです。保守派の人は、「新しい創造」を否定し、過去や古いもの、外見を見ます。(けれども、リベラルの人も問題で、「古いままでいいのだ」として、新しい創造を否定するのです。その、どちらも間違っているでしょう。)
結局は、「自分の理解の中で正しさを持とうとする」という、神の義ならず「自分の義」を物差しにする傾向は変わらないのではないでしょうか?「福音派」は結構。でも、福音は信じていますか?
以上ですが、そういったことで、ドリームパーティーの悔い改めの言葉には賛成です。でも、「同性愛の問題だけでなくて、いろいろなこと、そして福音をきちんと理解していないことへの悔い改めが必要なのでは?」と提言させていただきます。