「血肉に対する戦いではなく」論 −アリマタヤのヨセフ−

写真:ギリシャ正教会(カペナウム)

「血肉に対する戦いではなく」論

アリマタヤのヨセフ

終戦80周年の年です。
戦争やキリスト教弾圧について考える大事な節目でしょう。

「キリスト教弾圧記念集会」のような集会に行くと(あるいは動画等で見ると)感じることですが、戦前戦中迫害されたのはキリスト教だけのような妙な錯覚にとらわれます。例えばホーリネス教会だけが悲劇の主人公で、≪キリスト教VS天皇制&国家≫という構図だけで世の中が動いているような錯覚にはまり込み、他が見えなくなってしまいがちです。

しかし「カメラのズーム」を引いて見てみると、弾圧されたのは先ずは共産党でした(「治安維持法」というのは、そもそも共産党対策だったのです)。その法律が徐々に「拡大解釈」され、宗教もターゲットになって行ったのです。「大本教」の弾圧は規模も大きくかなりひどいものでした。「ひとの道教団」(PL教団)も「灯台社」(「エホバの証人」の前身)もやられました。そしてキリスト教は最後の方で、特に再臨を強調するホーリネス系やブラザレン系の教会が弾圧されたのです(他のキリスト教会は情けないことに「妥協」しています)。

こういった言い方はあまり適切ではないかもしれませんが、キリスト教の受けた弾圧は共産党や他の宗教と比べれば(規模から言ったら)「さほど大きくはなかった」のです。弾圧の「構造」は(これはどの時代のどの国でも同じですが)≪国家体制(日本では天皇中心の国家のあり方を「国体」と呼んでいました)を乱したり破壊しようとする(と見做された)動きに対して向けられる≫ というものなのです。この「構造」を知っておくことが大事でしょう。クリスチャンは、どのような迫害・弾圧に対してもそれらを甘んじて受ける強い覚悟を常に持つと共に、そういうものに徒(いたずら)に巻き込まれないようにするための「知恵」も、ここから得られることでしょう。

真の敵を見誤るな!

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(新約聖書:エペソ書6:12)

クリスチャンには攻撃が仕掛けられてきますが、気をつけなければならないのはその敵は「血肉」ではなく、真の敵はその背後にいる「悪霊」なのだということをここでは言っています。このことの理解は、極めて重要です。「血肉」というのは「人間」という意味でしょうが、そこに含意されているのは、「目に見える固物・具体的事象」だけに「敵を固定化」するのではなく、その背後にいる「真の敵を見誤るな」ということでしょう。この真の敵(悪魔)が手を変え品を変え、変幻自在にあらゆる事象を使って攻撃してきて、クリスチャンを貶(おとし)めようとするのですから。敵を見誤ると「ピントの外れた」、空を打つような空しい戦いにしかなりません。

今の日本のキリスト教界の大勢は、戦前戦中クリスチャンを弾圧してきた「国家主義」の否定、「天皇制」の否定、「軍国主義」の否定といったコンセンサスで、「声明」を出したり「運動」をしたりしています。戦争は「帝国主義の犯した罪」と考えますから、戦争で死んだ兵隊たちは「犬死」であったし、特攻隊員などは「狂気の自爆テロリスト」と位置付けるしかなくなります。「国のために死んでくれてありがとう」などという発想は見当たりません(こういった姿勢が日本宣教をダメにしていると言う識者もいます)。そして二度とあのような時代に戻さないための、いわば「予防運動」のような活動をしているわけです。「弾圧を受けないように予防運動をする」というのは、言ってみれば「保身主義」です。それだけをもって「キリスト者の戦い」のすべてだと思わない方が良いでしょう。

クリスチャンがキリスト教破壊に手を貸している?

いま憂うべきは「クリスチャンがそれとは自覚せずにキリスト教破壊活動に手を貸している」という事態ではないでしょうか。クリスチャンは「戦時下」「国家主義」「(戦前的)天皇制」だけに備えればよいのでしょうか。次はそれらとは違った敵の新たな攻撃が仕掛けられるでしょうし、それはもう起こっていると思います。戦前戦中の弾圧がファシスト国家主義から受けた「偶像崇拝への妥協を強いられる受難」だったとすれば、今度は「キリスト教破壊への加担」という悪魔の巧妙な謀略が仕掛けられていると思います。クリスチャンがキリスト教破壊に手を貸しているのですから、悪魔の高笑いが聞こえてきそうです。

「敵の固定化」は様々な「落とし穴」を生みます。例えば、国家・王制・国境否定(グローバリズム)といった主張をする「(無神論の)共産主義者とのクリスチャンの共闘」です(共産党の「赤旗」に記事を載せている牧師もいます)。「反戦平和」の主張(これも共産党の主張)も、皮肉にもそれが結果的に戦争を許容し拡大していくことも十分あり得るのです(「平和主義路線」の英国がヒットラーの暴走を生んだ)。「人権・平等・自由」を唱えるリベラリズムにクリスチャンが同調し、結果的にそれが伝統的家族を破壊し、健全な道徳を破壊し、聖書的結婚観を破壊し、最終的にはキリスト教の破壊をしていることになることも十分にあり得るのです(民主党政権下のリベラルなアメリカの悲惨な情況がそれでした)。

「保身主義」ではなく「(霊の)戦闘主義」

我々キリスト者の目的は、「迫害のない」世界を作ることではありません。残念ながら、今の時代は迫害を含めてサタン(悪魔)の攻撃がある時代です。もちろん迫害や弾圧に遭うことがないよう「どうぞお守りください」と祈っていくのは当然のことでしょう。しかしそれと同時に、いやそれ以上に、「敵の固定化」をせずに「真の敵」を冷静に見据えつつ、「どうぞ、なすべき(霊の)闘いを果敢に戦わせてください。そしてそのために力をお与えください」という姿勢と祈りが私たちクリスチャンには求められているのではないでしょうか。「神の武具」がそのために様々用意されているのです。大事なのは、「保身主義」ではなく「(霊の)戦闘主義」です。

「地獄への道は、善意で敷き詰められている」というあの名言をもじって言うならば「クリスチャンの証しの失敗への道は、単純な正義感と敵の固定化で敷き詰められている」となるでしょう。

 

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写真:ギリシャ正教会(カペナウム)
撮影・提供 額賀ひとみ

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