(アイキャッチ画像:米国務省のサイトから)
明石清正
SALTY論説委員
カルバリーチャペル・ロゴス東京 牧師
ロゴス・ミニストリー 代表
以下は、キリスト者のオピニオンサイト「ソルティー」の論説委員でもある、田口望牧師が、書かれた記事です。私も個人的に、同じ危惧を抱いています。
私も、彼と同じように、この投稿をするのは、とても勇気が要ります。同じように、教会で、牧師としての働きの中で、統一協会系の異端からの救済に、間接的に関わってきたからです。
おそらく、日本の多くの教会関係者は、安倍首相暗殺よりはるか以前に、(以前は状況がはるかに酷かったので)この問題に取り組み、また、元信者の方の多くが、キリストの恵みによって救われているので、一般社会以上に、私たち教会の人たちのほうが、この感情は根強く、強いでしょう。
全体主義の空気を感じる、今の民主主義国
けれども、言わなければいけないと思います。その最も大きな一つは、私自身が、信教の自由が制限されている国での宣教経験があることです。その国と、民主主義国家であるはずの国々が似通ってきている、という問題があるからです。欧米諸国で多く起こってきており、韓国でも起こっていることを耳にし始めています。
異端カルトではありません、保守的な、正統的な教会の牧師への介入です。正統的な教会の、名の知られた牧師たちが家宅捜査を受けたりしているのです。(下の記事を開けない方はこちらのリンクから)
宗教団体であっても、なくても、殺人傷害など、刑事的な犯罪については、国が差別なく対処すべきですが、その他のことについて世俗の「国」が関わることが、どれほど深刻なものか、伝えなければいけない責務があると思いました。
しかし、それは同時に、民主主義国家では、両極の政治的対立を生み、それに教会が巻き込まれるというリスクも冒すことになります。これも、発言するのがためらう大きな理由の一つです。
日本が、政教分離の原理の一線を越えた瞬間
日本政府は、これまで、過敏ではないかと思われるほど、戦時中の過ちを反省して、政教分離の原理を厳守してきました。例えば、警察関係のクリスチャンから、宗教関係については厳格に、どちらかに偏らないようにしている話を聞いたことがあります。
それは、徹底的に公の機関では無宗教でなければならないという圧力を自ら課すことになり、信教の自由以上に、個々人に対して無宗教が、公務員たちに圧しつけられていくことになっているのでは?と危惧するほどです。けれども、徹底的にやって来たことは評価できます。
公安についても同じです。オウム真理教の施設に突入するのを、公安はかなり慎重になり、あの地下鉄サリン事件に間に合わなかったのですが、相手が「宗教団体」だからです。特高時代に、とんでもない過ちをしているのを、痛いほどわかっているからです。
行政一般も同じです。コロナ渦、世界で教会に対して公の機関が厳しい制限を設けている中で、日本政府は、宗教団体には設けませんでした。
ところが、これほどまで気を付けていた政府が、いとも簡単に、信仰の内容のことにまで立ち入っていくような動きを見せた、そのきっかけが、「安倍首相の暗殺」です。
ホーリネス系の指導者の逮捕を喜んだ教会関係者たち
私は、戦時中の教会の姿勢を書いた本を読んだことがあります。それがあまりにも衝撃的で、その後の私の信仰観に影響を与えました。それは、教会が迫害されるのはなく、迫害する権力に積極的に教会が関わるということです。
弾圧されたホーリネスの団体は、自分たちの通ったことの証言を記録していますが、その本は、他の主要な教会が取った妥協的な態度を、取り扱っていました。そこで、ホーリネスの教会指導者が逮捕された時に、彼らは、「そういった極端な人たちが取り締まりを受けて、かえってありがたい」というよう言葉が引用されていました。
国が介入したことを、自分たちの信じた方と合わないことで、かえって喜ぶ・・。これが衝撃でありました。しかし、今、その傾向が、信教の自由が守られているとされる、民主主義の国々で起こっています。
宗教に免疫がない日本は、十把一絡げにする
日本も例外ではありません。解散命令に対して、教会関係者が同じような安堵を抱いています。私は強い危惧を抱きました。どうして、「明日は我が身」と案じないのか?
ホーリネスは正統な信仰で、統一協会は異端だという反論が聞こえてきそうですが、それは「内輪の論理」です。私たちにとって、教えは統一協会の教えは天と地が違うぐらい違うと思っても、世の中の人が見れば、表面的な部分しか見ませんから、同じようにしか見えません。例えば、礼拝の時の献金ですが、統一協会も「献金」のことで、社会問題を引き起こしました。
そして、統一協会が壺を売ったり、霊感商法などで訴えられたりしましたが、キリスト教会においては、民事だけでなく、刑事についても犯罪事件が起こってきました。また、正統派だと一応、看板を掲げている教会においても、カルト的性質が常態化しているところがあります。
それが、一度、統一協会のようにワイドショー化された時、何もかもが一緒くたにされて、私たちに矛先が向かうことは、十分にあり得るのです。そして、政府自体が便乗して、私たちにも矛先を向けることがあり得る、というのを、今回の解散命令請求で見たのです。
左巻きになっただけで、悔い改めていない日本の教会
戦前戦後、政治的潮流、その思想イデオロギーは、右から左に移りました。しかし、事の本質は、国家主義とか天皇制とか、あるいは戦争だとか、そういったものにはないのです。キリストを主とせず、他のものに依存しているところに、日本の教会の過ちがあります。
異端を、私たち「教会」は、見張り、警戒していきます。けれども、「国」がしていく時は、とても危険です。新約時代、当時のローマの総督や地方総督は、ユダヤ人たちの訴えに対して、「あなたがたの宗教についてのことならば、自分たちで裁くがよい」としました。
つまり、明らかに刑法に違反するならば、国は、その行為を厳正に取り締まればよいのであり、内心の自由に関わる教えや実践の内容に、政府が立ち入ってはならないのです。
共産主義国家も「信教の自由を守っている」と言う
分かりやすいのが、中国共産党政権です。これをまさにやっています。彼らは、宗教の自由を憲法に明記しているぐらい、表向きはしっかりしています。しかし、異端カルトを「邪教」と呼び、公共秩序に違反しているものを取り締まっています。結果的に、異端系のキリスト教団体は排除されます。けれども、これが本当に良いことなのでしょうか?
今は、見ての通り、正統的な教会も、まともに日曜日に集まって礼拝することができなくさせられているのです。
彼らは、家の教会、いや公認協会でさえ、自分たちが標的にいつでもなり得ることを知っていました。邪教の取り締まりを喜んでいる兄弟姉妹は、中国には、いません。
ところが、日本では「彼らはカルトで、我々はそうではない」と思って慢心したり、ましてや、「国が動いてくれて、せいせいしている」と思っている・・。これが、まずいのです。後々、我々がカルト扱いされて、政府の取り締まりを受けることを、是認していく道なのですから。
なぜなら、国には、私たちの信じている教えについて、それを見分ける判断能力がないからです。教会にこそ、主は、その権威を与えておられるのです。
コロナ渦における背信行為
ところで、すでに、日本の教会には数年前の汚点があります。自ら、自分たちの信仰の自由を放棄するようなことを、自発的に行っていく背信的行為です。
コロナ渦で、宗教団体は信教の自由で、集まることを禁じられませんでした。ところが、世間体を気にして、主に命じられる「集まる」ことを怠ったということを、平気でしていきました。(公衆衛生のためだという理由はあるでしょう。でも、私がこれまで見聞きした話では、圧倒的に一線を越え、長期間にわたって教会を閉鎖していました。)
であれば、国がその方向に事実、進んだ時に、かつて戦時中の日本の教会にように、”自ら進んで”、聖書、また教会がこれまで大事にしてきたものを、いとも簡単に捨てて行ってしまうのでは?ということです。
宗教の自由を求めた米国と、お上を信じる日本
米政府の国務省は、年次の「世界の宗教の自由」報告を出しており、日本については、23年に旧統一協会問題を取り上げています。これを見れば、私が懸念している内容と、また、SALTYが東京が8月、大阪で9月に取り上げた問題と、同じ主旨のことが書かれています。
人間を信じ、神を冒瀆する時代
聖書では終わりの日に、獣の国が世界でできると預言されています。それは、神を冒涜する、人間中心の国です。独裁体制にしろ、民主主義のポリコレ的な横暴にしろ、神を恐れず、自分でコントロールできるのだとする傲慢の罪を、サタンが煽っていると言ってよいでしょう。教会は巻き込まれてはいけません。キリストこそが主であり、王である信仰告白を、なんとしても堅持すべきです。
獣は神を冒瀆するために口を開いて、神の御名と神の幕屋、また天に住む者たちを冒瀆した。(黙示録13章6節)