矛先は「統一協会」だけではない ~明石清正~

 

明石清正
SALTY論説委員
カルバリーチャペル・ロゴス東京 牧師
ロゴス・ミニストリー 代表

演説中の、しかも選挙戦における凶弾

 安倍首相の暗殺から始まる一連の流れには、「統一協会がいかに悪であるか、それをつぶさなければいけない」という視点で論じているものが、かなりあります。私は初めから、「これは、とっても嫌なことが起こる・・」と思いました。

 言論の自由は、民主主義の根幹です。政治というものは権力闘争の性質を帯びているものですが、言論によって闘わせるというルールを設けることによって自由と社会秩序を担保するのが、近代の自由主義の基です。言論の自由を象徴する演説中に、しかも、民主主義の根幹でもある選挙活動において、どんな理由があれ暴力でそれを封じることは、断固として認められないものです。

 ですから世界の自由民主主義国は、暴力で政治的また宗教的主張をかなえようとするものを、テロリストとしてどんなことがあっても、妥協せず、対峙し、戦い、罰していきます。ところが、今回の暗殺テロの場合、日本国民の間にどんな理由があれ、容認的雰囲気が出てきたのが極めて深刻なことだと感じます。

 戦前、五・一五事件を契機に、政治家に対するテロが頻発しましたが、国民の同情をかえって買い、テロに対する容認的空気が醸成されていきました。そして、二・二六事件が起こり、日本の政治と経済は、軍による戦時統制下に入ります。

 そして、共産主義運動を主に取り締まるための治安維持法は、ついにキリスト教会にもその手が飛び、ホーリネス教会の指導者が捕らえられていきました。その時、他の教派は、彼らの教えや実践に同意できていなかったので、彼らが捕まってよかったという声まで出していたのです。けれども、ついに自分たちにまで火の粉が飛んできました。

 たった今、世界が、いろいろなところで、全体主義的な傾向を示している中で、以上、日本とその教会が戦前、辿った道とも重なって見えてしまいます。

「統一協会二世」ならず「宗教二世」を問題視

 「宗教二世」の問題が取りざたされていますが、「統一協会二世」「カルト二世」と言わず、宗教全般に対する信仰継承が問題視されていることを、見分けないといけないと思います。

 当然ながら、信仰の継承は「家庭」が中心になっています。聖書の教えは、子たちに主の教えをもって教育するものが根幹にあります。そして他宗教においても、伝統的な宗教においても同じであり、仏教の檀家制度で、自分は生まれた時から、どこの宗派に属しているかはっきりしていて、それを受け継いでいます。特異な事でも何でもないのです。

 そして、少なくともキリスト教においては、子が選ぶ自由があります。家庭の中でも、必ずしも子がその信仰を受け継いでいない場合があります。強制はしていません。

 違法性、反社会性のない限り、宗教の内容には関わらない・・。これが、戦後、欧米の憲法の流れを持っている日本国憲法の、信教の自由と政教分離の原理です。今回の騒ぎで、こうした当たり前の継承において、国家権力の介入が可能になるような方向性を持った法制化がなされているのです。

文部科学省:宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A

 教会や宣教団体に、遺志として自分の財産の大半を献げるということは、よくあることだと思います。けれども、遺族が訴えれば、その財産を奪い返すことができる余地ができてしまいます。財産権の侵害です。

 また、子を自分の信仰で教育していく時に、子の主観で、それを虐待だと訴えたら、親は何も教えられなります。国からの制裁を恐れることさえあるのです。

 信教の自由を制限している国を見てください。例えば中国、18歳未満に宗教を教えるのは禁止されています(建前で、実際は行っていることがもちろん多いですが)。今回の一連の動きは、世界的に見ても、信教の自由の制限の流れに沿ったものです。

統一協会叩きある、見えない罠

 ここまで論じますと、「統一協会を擁護しているのか?」という方がおられるもしれません。しかし、統一教会は悪事を行って来たことはあまりも明白です。このことは大前提で、むしろ、だからこそ「罠」があると思うのです。

 マスコミでは、「旧統一教会 被害者救済新法」と呼ばれていますが、今年、2023年1月5日に施行された名称は、「法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律」というものです。統一協会だけではなく、あらゆる宗教法人、いやすべての「法人」が当てはまり、法人でなくとも、様々な団体にも適用できる一般法だということです。

 数少ない、キリスト者の専門家も警鐘を鳴らしています。(例:「旧統一協会被害者救済新法を解説する 寄附の不当勧誘防止法 その意味と問題点」櫻井圀郎著

 我々は、キリスト者として過去の過ちを繰り返してはいけないのではないでしょうか?また、世界の教会で信教の自由がどのように制限されていっているのかを、もっと見回したほうがよいのではないでしょうか?