キリスト者個人として、自維連立の高市政権を支持する理由 ~ 明石清正 ~

(上の画像:自民党サイトから)

明石清正
SALTY論説委員
カルバリーチャペル・ロゴス東京 牧師
ロゴス・ミニストリー 代表

高市早苗さんが、自民党の総裁に選ばれ、その後、公明党が自民党から連立を離脱、その後、日本維新の会と連立し、国会で晴れて、新総理となられました。日本のキリスト者の間では、思想が右寄り過ぎるのでは?という意見もあれば、「保守的な価値観を歓迎する」という受けとめもあり、さまざまな反応があるようです。

私は、「自維連立」の高市政権を、一国民のみならず、一キリスト者としても、とても歓迎しています。その理由をお話しします。

国家神道側が教会を弾圧した歴史

日本のキリスト教の歴史で、国家神道側が教会を弾圧した時期がありました。大日本帝国憲法において、「安寧秩序を妨げず、臣民としての義務に背かない限り」という条件付きで、信教の自由が認められていました。

しかし、戦時下、共産党の取り締まりを念頭に入れた、治安維持法が施行され、拡大解釈がされて、キリスト教の教義である、キリストが王として再臨し、また、イスラエルが回復するということも含め、特高が教会に中にも忍び込み、教会指導者の一部が逮捕されました。

そんな経緯があるため、戦後の日本のキリスト教会は、国家神道の復古や、愛国心を涵養する教育など、戦前の国のあり方に対抗することこそが、信教の自由を守るものであるとする流れが出来上がりました。

神は、国を愛しておられる方

しかし、一国が異教の文化や伝統を背景にしていることが、私たちの信教の自由を脅かすものなのか?というの疑問が、私の心の中にずっとあり続けました。神は、どの国も民もこよなく愛しておられ、キリスト者も、自国や自国民を敬うからこそ、個々の魂も、キリストに導くことができるのではないか?と思うからです。

戦時中、確かに我が国は、超国家主義に傾き、キリスト教会が弾圧されたのですが、問題は、神道を背景にした日本の伝統や文化、また天皇制ではなく、「国が全体主義に傾かない」ということが、重要なのではないか?ということです。

仮に高市さんが、総理として靖国神社に参拝したとします。けれども、(その政治判断の是非は横に置いて)、少数派であるキリスト教会に、神社参拝が強要されない限り、問題はないはずです。

リベラルも信教の自由を脅かす

逆も真なりで、国家主義とは別のリベラルな価値観に基づく日本国の政策が、全体主義的になれば、少数派のキリスト教会の信条に抵触することも十分ありえます。そして今、その危険の方が大きいのでは?と感じることがあります。

例えば、LGBTQについての理解増進法は、自公連立政権が強行しようとしました。立憲案はさらに先鋭的な内容の法案を作成していました。けれども、国民・維新案が採用されて、かろうじて、親の裁量によって教育が強要されないという条件が、担保されました。

 

同性婚合法化の流れは、世界の潮流になっています。今や、日本の各政党も明確に反対を掲げているところは、わずかしかありません。内心の自由や宗教の自由によって、牧師が同性婚を執り行わない自由が、担保されるかどうか?が、とても重要になります。

民主主義≠自由主義

戦時中はファシズムに傾き、敗戦後、民主主義体制になったということで、民主主義がそのまま、私たちの信仰が脅かされないということであれば、それは間違いです。民主主義の課題の一つは、「多数派の採決が採用される」ことです。そこで、少数派、少数意見の人々が、その自由をどのように守られるのか?が非常に重要であり、それは、民主主義だけでは守られず、個々人の自由が、だれにも侵しえないという、神から与えられた天賦のものだとする考えが必要です。それを自由主義と言います。

「自由」は、聖書全体に貫くテーマ

その「自由」は、それこそキリスト教を背景にした考えであり、私たちは、聖書そのものが、神のかたちに造られた人が、自由意志を持っているということから始まっていることを知っています。なぜ、善悪の知識の木がエデンの園の真ん中に置かれているのか?それは、それを食べてしまうリスクがあっても、神のかたちが損なわれることがないように、選択が与えられているからに他なりません。事実、アダムは実を取って食べ、罪が世界に入りました。しかし、そのような大変なことが起こっても、神の愛が、キリストの十字架の死によって示され、自由意志があるからこそ、回復への道も広く、開かれているのです。

保守主義→自由主義

それゆえ、キリスト教を背景にした欧米社会では、「保守」というのは、むしろ、政府が個々人の生活に介入してこないことを守ることが至上命題であり、伝統的価値観とされています。米国の建国は、英国から国の介入を逃れたピリグリム・ファーザーズによって始まっています。「神」こそがそれぞれに自由を与えており、「人」の介入をなるべくなくすことが保守だとみなされます。

右にも左にもある全体主義

私は、先に引用した自由主義についての記事に対して、以下のようにXでポストしました。

キリスト者たちは、日本全体の中で、常に少数派でした。上に「我が国では、一度流れが決まると一気に全体に染まる傾向が強い」と書きましたが、しっかりと、少数派の自由も尊重される社会が大事だと考えています。

国民民主と維新が、「内心の自由」を掲げてきた

そこで、私は、新興的な保守政党である、国民民主と維新の会には注目してきました。先に挙げた例、LGBTに関わる理解増進法では、親の同意があっての子への教育という担保がされた法案を提出したわけですが、内心や思想の自由が大事であるという方針が、一貫して現れています。

改憲についても、同じです。どちらも自民党と同じく改憲を掲げていますが、例えば、緊急事態事項について、かつて緊急事態条項に関する憲法改正条文案を提起したことがあり、そこには、「内心の自由・信仰の自由・検閲の禁止・奴隷的拘束の禁止といった「絶対に制限してはならない人権」」が明記されています。

キリスト教系異端でも、政府が立ち入ってはいけない

私が先日、ちょっと刺激的な記事を書きました。異端カルトとみなされ、キリスト教会が救出にも関わって来た、一見、旧統一協会を擁護するかのような内容だからです。それも「信教の自由」ゆえなのです。

キリスト教会牧師として、最も言いたくないことを発言します。「異端カルト弾圧を『明日は我が身と思え』」 ~ 明石清正 ~

安倍首相暗殺後、テロを糾弾するのではなく、統一協会と自民党の癒着という、全く別問題が中心になった時に、「日本社会の自由が奪われる」と直感しました。案の定、一気にワイドショー化し、政府が民に迎合し、いわゆるポピュリズムに傾きました。

そこに出てきたのが、「宗教二世」に対する政府のガイドラインであったり、信仰の継承という根幹的な営みに政府が介入する文言が盛り込まれ、また、遺族が、信者が献金したものを取り返すことができる新しい法律を作成し、その中での解散請求だったのです。

矛先は「統一協会」だけではない ~明石清正~

左翼全体主義が教会を迫害

日本の教会は、真剣に考えなければいけないのは、戦時中の歴史が、「右翼」だったから弾圧されたのではなく、「全体主義」だったから弾圧されたのです。ですから、戦後、左翼であっても弾圧されうるのであり、世界を見れば、社会主義国による弾圧のほうが、圧倒的に多く、苛烈を極めるのです。神を認めないからです。

日本は、右から左へ全体主義が振り子のように揺れているともいえるのです。

政権担当能力を持つ自民と、構造的改革で自由を担保する維新

それゆえ、少数派である日本のキリスト者個人として、保守であり、かつ自由を大事にする政党が政権にいることは、歓迎することです。私は、従来の自民党政権が、信教の自由を侵害しようとする動きは、岸田政権になるまでは、目立つものとして、見ることがありませんでした。

顕著だったのは、コロナ渦による緊急事態宣言の時は、安倍首相が「私は国民を信じる」と言い、宗教団体には、他の施設には課していた制限を、一切、課さなかったのです。理由は、憲法第二十条に基づいた政教分離があるからです。

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

https://laws.e-gov.go.jp/law/321CONSTITUTION#Mp-Ch_3-At_20

当時、安倍政権中枢に近い政治家の方が、私個人に対して、「明石さんの教会では、三密を避けながら、礼拝を続けているのですか?」と尋ねられました。(ちなみに、ご本人は、篤い神道信者です。)いろいろな問題があっても、政権を担当する責任と能力は、しっかりしていると感じています。

そして、権力の集中による政府の非効率化こそが、国を弱くし、国民を苦しめると考えるのが、維新の会です。従来の、自民党による、なれ合いの政治、利益誘導型による弊害から、構造的な既得権を破壊する改革を掲げる、維新が、自民党内で、同じく保守改革を目指す高市早苗氏に協力し、事あらば与党内で対決してでも、それを決行しようとする意気込みは、歓迎するべきことかと思いました。

平穏な生活のため、福音のために、為政者を執り成す

日本の保守政党は、神道を背景にする伝統を大事にし、社会の秩序や治安を重んじているのですが、それがそのまま、キリスト教への脅威とはなりません。

むしろ、社会秩序や崩れ、治安が乱れてくるとと、人々の心がすさんで、排外主義に偏りやすくなり、またポピュリズムやカルト的指導者も出やすくなります。実に、安倍首相の暗殺を契機に、宗教を持つ親の子弟に宗教教育が監視されるガイドラインが造られたのです。また、現政権は、不法行為を行う外国人に厳しく法で裁くことを掲げていますが、それは誤って、合法的な外国人の活動を制限することになりかねませんが、逆に、真面目に日本社会で生きる、外国籍の方々を守ることにもつながります。

そして、キリスト教会に対しても同じなのです。米社会ではすでに、教会がテロ攻撃の対象の一つとなっていて、敷地内に警備員を置かなければいけなくなっている状況になっています。

日本は、キリスト教が入ってきて以来、長い歴史を見れば、迫害や弾圧を受けているほうが、もっともっと長いのです。今、信教の自由が守られていますが、奇跡なのです。日本の教会にリバイバル(信仰覚醒)が起こって、例えば、クリスチャンが人口の3%になったとしましょう。教会のごく一部が何か社会を乱すこと、違法行為を行って裁かれたとすれば、一気にキリスト教排撃という機運が起こっても、何もおかしくないのです。

このことをわきまえて、以下の、神のみことばを覚えたいと思います。

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。2 それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。3 そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。(Ⅰテモテ2:1-3)