聖書預言と世界情勢 ~ 明石清正 ~

明石清正
SALTY論説委員
カルバリーチャペル・ロゴス東京 牧師
ロゴス・ミニストリー 代表

私は、以前、「聖書預言の旅」という著作を出し、また、今は「聖書で読み解く世界情勢」というシリーズ(ユーチューブ「ゆうき牧師のバイブルライフコーチング」)を担当するなど、聖書預言と世界情勢との関わりについての発言を多くだしています。

その中で、世界で、イスラエルが関わる戦争が起こる度に最もストレスがたまるのが、「藁人形論法」です。

米イスラエル軍による、対イラン戦争については

私の場合、全然「通常運転」で、今回の戦争について、少し驚きはしました。しかし、1979年のイランのイスラム革命以後、半世紀近く、数々のテロ行為と周辺へのテロ拡散で、事実上の戦争状態にありました。その「結果」にしか過ぎないと思っていたので、今回、別に「聖書預言のここだ!」とか言って、話を持っていっていません。

むしろ、今後、何が起こるかを、祈り心で静観していました。

第一に、日本の環境が、情報が偏り、閉ざされている中で、日本の方々が、漠然とした不安と怒りから、憎しみという、悪魔からのものに影響されるのではないか?という意味で、聖書が警告している終わりの兆候というものは、警戒しました。(マタイ24章9-14節参照)

第二に、イランの人々、こと地下教会の兄弟姉妹は、20年以上も前から関心を持っていました。これからどうなるかな?ということで、祈っていました。このことを知らない人たちが、日本の教会で大半であることに気づき、驚いていますし、未だ関心を寄せようともしないことには、深い悲しみを覚えています。

Inside the Revolution(革命の内幕)

A Time to Betray (裏切る時)

自分の知っている空間と、一般の日本の教会のそれとが、かなりずれていることに対する、強い戸惑いが続いています。

それから、やっと、第三に、イスラエルのことを思いました。今回は、この三番目に来ています。主がおられるから・・という、ちょっと安心した思いがあります。また、現地の方々からの声を、私はどのお茶の間の専門家や解説者と称する人々よりも大事にしているので、そこにあるレジリエンス(持久力)を体感します。

急に、すべてを知っている解説者に

むしろ、戦争が起こると、騒がしくしているのは、普段は、執り成しの祈りとか、関わりとか持っていない人々です。急に、すべてを知っているかのような解説者になっていきます。

今回は、イスラエルだけでなくドバイも被害を受けていますが、ドバイも私にとっては中継地として親しみを感じています。そこの在住の日本人も、「マスコミやSNSは騒ぎすぎ」と不満をもらしていました(動画)。

驚いた二つのこと

その中でも驚いたことはあります。それは、エステル記のプリムをお祝いしている祭りの時節に、まさにイスラエルへの死を40年以上唱えていた指導者たち、それをテロ拡散で実行し、核兵器を持って実行しようとしていた者たちが、滅ぼされたことです。まるで、ハマンのようだと思いました。

また、今回のAI兵器技術、ドローン攻撃など、かつては近未来のSFとして見ていた世界が、まさに現実のものとして実戦で用いられたこと。まるで違う世界に突入しているという、衝撃は受けています。(動画)それを、主はどのように見つめておられるのか・・ということに、思いを潜めています。

聖書預言は「流れ」で読む

聖書の預言は、底流あるいは潮流みたいなもので、新聞の見出しを表面的に継ぎ接ぎするものではないです。「今の世界にいきなり持ち込むな」という意見がありますが、逆に「はるか将来に追い出すものでない」のです。山の上で小川となっているものが、どんどん大きな川になっていくような「流れ」として、「今」に関わってきます。

そして預言は、他の形式で書かれている聖書の言葉と同じように、教訓でもあり、実践すべき教えでもあり、神への畏怖を抱かせ礼拝へと導くものであり、神から命じられていることを行う動機になります。

平時から読み、心備えをする

聖書全体の四分の一ぐらいを占めていますから、めちゃくちゃ大事です。私は、創世記から黙示録まで通して2回以上教えています。預言書も、一節漏らさず教えました。カルバリーチャペルの仲間は、みな同じこと、やっています。

だから、終わりの日とか、聖書預言に書かれていることは、むしろ、平時においてしっかりと見つめ、用意するものだというのが定着しています。私、よくわかるんですが、黙示録を聖書講解で教えても、ユーチューブで、再生回数あがりません!はっきり言って、興味ないんだなって実感しています。

センセーショナルに語ったり、大げさに語ってはいけないという声を聞きますが、神学議論の中の対象でもないんです。自分の静かな信仰の営みの中に混ざっている、重要な栄養素の一つみたいなものです。キリスト者としての召しに従うのに欠かせない希望です。

戦争になって騒いでいるのは、どちらか?

以前、私は、終末論の考え方が違う方々に招かれて、聖書預言における現代イスラエルの地位について、自分の見解を話しました。すると、非常に喜んでくださり、「ほとんど違いがありません!」と一人は、叫んでおられました。☺

なのに、戦争が起こると、同じ招いた人々から、とげみたいな言葉が飛び交います。正義は?平和は?と問い詰めながら、平和的とは思えない姿になっていきます。

外で起こっていること以上に、それを見ている自分の心を、ちょっと点検した方がいいのではないか?というのが、自分も含めていますが、思っていることです。

ユダヤ・ヘイトに次いで起こっている「福音派ヘイト」

ここ数日、はっきりしてきたのは、ユダヤ・ヘイトだけでなく、福音派ヘイトが起こっていることです。国際政治学者や言論人が、明らかにヘイトをまき散らしているのを、目の当たりにしました。トランプ大統領が按手されて祈っているのを、カルトであるとか、狂信者であるとか、宗教戦争であるとか言っています。

これ、オバマ大統領など、歴代の大統領がやって来た、伝統的なものです。宗教的無知からだと思いますが、専門家と称する人々が、キリスト者であれば、あまりにも当たり前の光景を、狂信的行為とみなしているのです。

煽っているのはどちらか?を、考えてみた方がいいです。