「日本キリスト者オピニオンサイトSALTY」創刊にあたって-西岡力-

人間に過ぎない者たちが塩気を失わないようにもがくこと
日本キリスト者オピニオンサイトSALTY  主筆
麗澤大学  客員教授
救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)会長
東京基督教大学  非常勤講師

 私事から話を始めることを許して欲しい。私は1981年12月に基督聖協団練馬教会で小笠原孝牧師から洗礼を受けた。イエス・キリストを救い主として受け入れ、キリスト者として生きてきて38年目になった。その中で26年間、私は東京基督教大学神学部で教鞭を取っていた。

 率直に話すと、私は日本のキリスト教団体のあり方にどこか溶け込めず、距離を置いてきた。私の周りにいた多くの牧師、神学者、キリスト教団体専従者らは人間的に尊敬できるよい人が大多数だった。ところが、政治の話をすると、私の考えとまったく異なる考えを持っている人がやはり大多数だった。
信仰と政治は次元が違うのだから、私の考えが多くの日本人キリスト者リーダーらと異なっていることは仕方がないと自分を慰め、なるべくキリスト者とは政治の話をしないようにしてきた。キリスト教メディアの論調にもとても同意できなかったので、購読を止めた。

 しかし、ある教団の理事会が私の専門分野である慰安婦問題について、たいへん失礼な(そのように私は感じた)質問状を繰り返し送ってきた。当該問題に40年以上取り組んできた私の研究成果を尊重しない、その態度に付き合いきれないと感じた。幸い、私は非キリスト教社会で一定の評価を受けており、不愉快なことを言ってくるキリスト教関係者と距離を置いても生きていける。私が所属する教会は私の研究を否定することはなく、反対に祈りで支援してくれている。そこで、職場をキリスト教関係ではないところに変えた。

 ところが、私が抱いた違和感、不快感と同質のものを感じている日本のキリスト者が相当数いることを知るようになった。ある人は、「政治的立場が違うキリスト教関係者に、自分と意見が近い西岡教授も神学大学の教授として勤務していると反論していたが、それができなくなって残念だ」と私に語った。
私が知り合うことになったそのような日本のキリスト者は、キリスト教を信じる者であれば政治的問題についてこう考えるべきという決めつけに精神的にとても苦しめられていた。そのため、所属教会を変わった人もいた。もしかすると、教会に行かなくなった方もいたかも知れないと心配になる。

 ここで、少し原理的なことを書きたい。同じキリスト者でも現実の政治問題について意見が一致しないことはよくある。あるいは、一致しないことの方が通常だということだ。私は、聖書は誤りのない神の言葉であり、信仰と生活の唯一の規範であるという立場に立っている。いわゆる福音主義だ。

 1990年、米国のジョージ・ブッシュ大統領はクェートを侵略したイラクに対する軍事攻撃を決断した。その前日に、ビリー・グラハム牧師をホワイトハウスに呼び、祈祷を受けた。大多数の米国の教会は戦争を支持した。一方、日本のプロテスタント教会の多数の牧師らは米国の軍事攻撃に反対した。キリスト新聞、クリスチャン新聞も米国の行動に反対する牧師らの動きを大きく報じた。
私はこの現象を目撃しながら、ビリー・グラハム牧師や米国の教会が突然異端になったのか、あるいは、日本の多数の牧師らが突然異端になったのかと考えた。どちらとも正しくない。その事実を認めるなら、同じキリスト教信仰に立っていても現実の政治問題について意見が対立することがあるという認識を持つ以外にない。

 これを信仰的にどのように理解すべきなのか。私は神の完全性と人間の不完全性という観点を想わざるを得ない。言い方を変えると、私たちは人間に過ぎないものであって、神だけがご存じの真理のすべてを知ることはできない。

 私がいつも座右の銘にしている聖書の御言葉がある。詩篇8篇と9篇だ。9篇19節では、「主よ立ち上がってください。人間が勝ち誇らないために、国々が御前で裁かれるために。主よ、彼らに恐れを起こさせてください。己が人間に過ぎないことを。国々に思い出させてください。」と言う。我々は人間に過ぎない。聖書の人間観は、神と人間は隔絶する、我々は人間に過ぎないものだとされている。

 しかし、一方で詩篇8篇3〜6節において「あなたの指の業なる天を見、整えられた月と星を見て思います。人とは何ものなのでしょう、あなたがこれらを顧みられるとは。あなたは人を神よりいくらか劣る者とし、これに栄冠と誉れの冠をかぶらせました。あなたは御手の多くの業を人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」とされる。人に過ぎない者に神は祝福を与え、万物をその足の下に置かれたというのだ。
この地上で私たちは「神の国とその義をまず第一に求めなさい」と言われている。「求めなさい」と言われていることに私は大変教えられている。「実現しなさい」とは言っていない。人間の力で「神の義」を100%実現することはできない。

 しかし、聖書は「社会と関わるな」とは言っていない。私は学生に「それぞれが、神にあって祈りつつ情報を集め、事実が何なのかを調べて意見を出す。間違っていたら修正する」と教えてきた。

 たとえば拉致問題についてキリスト者としてどう考えるべきかという問いに対してクリスチャン学者である私に聞けば答は出るのか。私はそうは思わない。私の語ることは私個人の答である。それぞれが自分の答えを考えなければならない。そして、ただ自分は人間に過ぎない者だと思って毎週教会に行って全能の神に祈るべきだ。

 そういう観点からすると、今の日本の教会がしている政治運動の中では、ある一つの立場が正しいということを余りにもナイーブに思ってしまって、自分が人間に過ぎないのだということを忘れてはいないかと強く思う。
率直な表現をするなら、そこに足りないのは敬虔さだ。全知全能の神の前に立つとき、自分は人間に過ぎない卑しいものであって間違いを犯しやすい弱い存在だと分かる。常に神を意識していれば敬虔になれる。それが足りないから、他の意見を持つキリスト者の存在を尊重できないのではないか。

 私は以上のような問題意識を持って、「日本キリスト者オピニオンサイトSALTY」の創設に加わり主筆に就任した。人間に過ぎない者たちが塩気を失わないようにもがきながら、意見を交わしていきたい。