中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
主の羊クリスチャン教会牧師
日本キリスト者オピニオンサイト−SALTY− 論説委員
<積極的な外交の展開>
安倍総理が、亡き父・晋太郎氏(1991年没)の地盤を引き継ぎ代議士になったのは、1993年、総理が38歳の時でした。その政治センスが磨かれたのは、父・晋太郎氏が生前に外務大臣の要職にあるとき、秘書官として働いた経験が大きいようです。当時の中曽根康弘元首相は在任中の4期にわたって晋太郎氏を外務大臣として起用しました。その期間は3年8ヵ月に及びます。安倍総理は、3年間勤めた神戸製鋼を退社したのち、1982年から晋太郎氏に同行し、20回ほどの外遊に出ています。
誰もが多くの場合、最初の経験が後の経験の基礎をつくります。今日の安倍政権が外交に強い理由は、ここにあるのかもしれません。
日本を取り巻く国際状況は、単純な一国平和主義を許してはくれません。国内事情に足踏みし続けることも許してくれません。日々急速に変化する国家間のパワーバランスの中で、日本も形を変えつつ自国の安全保障を見出さねばならなくなりました。積極的な外交による国際秩序を建設するのでなくして、日本も本当の意味での「平和」を維持することが許されない時代になったのでした。化学兵器や大量破壊兵器が誕生し、それらが拡散されつつある現在、今もし国際秩序が打ち立てられねば、近い将来、人類は存続すらもが不可能なことになることでしょう。日本のリーダーはどの時代にもまして世界を見なければならなくなったのです。
<安全保障と世界の「平和」>
国家には、自国民の生命と財産を守る義務があります。もしここで「平和主義」を不変のイデオロギーとしてしまうならば、自国民が殺されて生命と財産を奪われても戦わず、無抵抗でさえあれば国家は「平和主義」を守ったことになってしまいます。しかし、国民の「平和」を犠牲にしてでも、「平和主義」のイデオロギーを守る国家なんてものは、本末転倒です。「平和」を守るということにあっては、一国平和主義のイデオロギーは、実に愚かなのです。本当の意味で国際社会を見据えての政治を考え議論し、他国との協力のもとに日本の安全保障のみならず世界の秩序と「平和」を築いていかねばなりません。そのような背景にあって、安倍総理は「積極的平和主義」を打ち出しました。
第2次安倍政権が発足してまもなく、2013年2月22日、米CSIS(Center for Strategic and International Studie:戦略国際問題研究所)での政策スピーチにおいて、「何を、日本はなし続けねばならないか」について、安倍総理は「変わらず胸中に」ありつづけた「3つの課題」を伝えました。
1、ルールのプロモーターとしての主導的な地位
2、グローバルコモンズの守護者
3、志を同じくする一円の民主主義各国との同盟
つまり、これは「貿易、投資、知的財産権、労働や環境を律するルール」のみならず、人権、貧困、病、地球温暖化などもろもろも含めて、国際的な法の支配をつくるために価値観を共にする国々と協力した体制をつくっていこうというものです。このスピーチにおいて、安倍総理はアジア・太平洋の平和と繁栄について、以下のように語りました。
「アジアが復興を遂げつつある時ぞ今、日本はわれわれに胸中のルールと価値を増進し、コモンズを守り、地域の栄えゆく国々と歩みをともにして伸びていくため、より一層の責任を負わねばならないのです。」
「日米両国が地域と世界により一層の法の支配、より多くの民主主義、そして安全をもたらすことができるよう、さらには貧困を減らすため、日本は強くあり続けなくてはなりません。それが、第一の点です。
そこで、わたしは、防衛計画大綱の見直しに着手しました・・・・。」
<幼い頃の記憶>
安倍総理はまだ幼い頃の記憶として、祖父の岸信介氏が現職の総理大臣であったときの会話を『美しい国』にて紹介しています。
私は祖父に
「アンポってなあに」
と聞いた。
すると祖父が
「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約なんだ。なんでみんな反対するのかわからないよ」
そう答えたのをかすかに覚えている。
この会話は、いわゆる「60年安保闘争」の真っただ中での話です。 世代が移って、再び安倍政権において「平和安全法制(平和安全法制関連2法)」は集団的自衛権の問題として、大きな争点となりました。
第二次安倍政権発足当初2013年2月から「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が再開され、大きな議論となっていました。
その背景には、おそらく祖父の岸信介氏との思い出があったのでしょう。岸信介氏よりその精神を受け継ぐ意味でも、安倍総理を突き動かしていた確信があったのだと思われます。
「なんでみんな反対するのかわからないよ」という祖父・岸信介氏の言葉は、幼少より安倍総理の心の中で何度も何度も繰り返し自問されてきたはずです。
<岸信介 日米安保改定>
第二次大戦後、1951年にサンフランシスコ講和条約によって、ようやく日本は国際的にも独立を認められました。しかし、日本の安全保障については、かなり大きな問題を含んでいたのです。それがサンフランシスコ講和条約と同時に結ばれた日米安全保障条約(以下「安保条約」)です。当時の岸信介総理はこれをできるかぎり対等なものへと改正しようとしたのでした。この安保条約の問題点を安倍総理自身の言葉で挙げるならば、以下の通りです。
・米国が日本を守るというはっきりした防衛義務を定めた条項がなかった。
・アメリカは、日本に自由に基地をつくれることになっていた。
・日本に内乱が起きたときは、米軍が出動できることになっていた。
・アメリカ人が日本国内で犯罪を犯しても、日本には裁判権がない。
・この条約の期限は、無期限になっていた。
日本は、これほどまで隷属的な条約を受け入れていたのでした。岸信介総理が、こんなトンデモナイ条約を対等に近い条約に変えて、独立国家としてのあり方を持ちたいと願ったとして、何の不思議でもありません。岸信介総理の判断は、政治家としてあまりにも当然のものであるし、現実的なあり方でした。
以上のような祖父の姿を通して、安倍総理は以下のようにその確信に至る道を記しています。先の集団的自衛権をめぐる安保改正論議において、安倍総理は祖父・岸信介氏を幾度となく自分に重ねたことでしょう。
「祖父は、幼いころからわたしの目には、国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。間違っているのは、安保反対を叫ぶかれらのほうではないか。長じるにしたがって、わたしは、そう思うようになった。」(『美しい国』p.24.)