トップの絵:William Brassey Hole (1900s)
金井 望(カナイノゾム)
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 論説委員
【前回】日本葬送宣教論 (2) 大きく変わる日本の葬送 −金井望−
第2節 地域共同体と檀家制度の成立と崩壊
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イエスが町の門に近づくと、見よ、ある母親の一人息子が死んで、担ぎ出されるところであつた。その母親は寡婦であり、その町の大勢の人々が、彼女に付き添っていた。すると主は彼女を見て、深く憐れみ、彼女に言った、「泣きなさるな」。そして近寄って行き、棺に触れた。すると棺を担いでいた者たちは立ち止まった。そこでイエスは言った、「若者よ、私はあなたに言う、起き上がりなさい」。すると、死者は起き上がって、語り出した。イエスは彼をその母に渡した。(ルカ7:12-15 私訳)
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「家」と「村」
江戸時代から明治30年代まで日本では、次のような葬送儀礼が一般的であった(斎藤美奈子著『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書、2006年、p.4参照)。
(1) 湯灌(ゆかん):自宅で遺体を洗い清める。
(2) 通夜(つや):遺族が遺体に一晩付き添う。
(3) 自宅での葬式:遺体を棺に納めて、焼香し、庭先で人々と別れをして出棺する。
(4) 野辺送り:近親者が白装束で棺を運び、会葬者一同が葬列をつくって檀那寺に向かう。死者と共にご飯あるいは米、餅を運ぶ(葬儀においてお供えされる米を香典と言った)。
(5) 寺での葬式:僧侶が読経をする。
(6) 埋葬:墓穴に棺を埋める(江戸時代は大部分が土葬であった。明治29年の火葬率は27パーセントであった)。
写真出典:昭和3年、三笠市本郷町の葬儀の野辺送り前、出立ちの様子(北海道博物館協会学芸職員部会ウェブサイト)
このような伝統の諸要素が変化しつつ、「葬式仏教」は存続してきた。しかし今日、地方圏では、地域住民の少子高齢化と若年層の大都市圏への流出などによって、伝統的な血縁共同体である「家」と地縁共同体である「村」が次々と瓦解している。いわゆる「限界集落」「地方消滅」の危機である。大都市圏においても特に、古い団地で少子高齢化が著しく進行しており、「無縁社会」「地域消滅」の危機に瀕している。1960年代の高度成長期以降、「社縁」による会葬も盛んであったが、長寿化によって今やそれも衰退している。それゆえ、日本の葬送が急激に変化するのは、必然である。
そもそも「家」や「村」とは、どのような共同体だったのだろうか。〈日本において「家」と呼ばれてきたものは、家長(旧民法上の表現では「戸主」)の支配権によって統率された家長の直系親族から成り、嗣子(家督相続者)によって家長権が継承されていくことによって世代をこえて連続していく制度体〉である(富永健一著『近代化の理論(近代化における西洋と東洋)』講談社学術文庫、1996年、p.278引用)。
〈日本の家は古代いらい一貫して、一子のみが嗣子として家督を相続するのが原則であって、家産は分割されることがなく、嗣子以外の傍系親(次三男など)は独立しなければならない〉 こととされていた。(同上、p.279引用)
「家」は、家族、住宅、家財、家業のための生産手段や、先祖代々埋葬されてきた墓などを含む共同体である。家長は祖先祭祀の中心的役割を担った。
この家制度は、1896(明治29)年から1898(明治31)年にかけて制定された旧民法によって、法制化された。戦後改革によって1947(昭和22)年、民法は改訂され、法制上では家制度は消滅した。しかし、その後も「戸籍」「住民票」「世帯主」などいろいろな形で実質的に家制度は残存してきたのである。
古来、日本において「村」と呼ばれてきたものは、今日「集落」または「部落」と呼ばれる村落共同体である。明治維新(1868年以降)当時、我が国では人口の9割が農村に住み、農業人口が全人口の8割を超えていた。都市人口は1割に満たなかったのである。
神奈備の里/稲渕(明日香村) 写真出典:地域環境資源センター 農村環境部ウェブサイト
日本書紀の神代上にこういう一文がある。
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一書曰、天神謂伊弉諾尊・伊弉冉尊曰「有豐葦原千五百秋瑞穗之地、宜汝往脩之
【現代訳】一書にいう。天(あま)つ神がイザナギノミコトとイザナミノミコトにこう仰せになった、「葦がいっぱい生えている、豊かに稲穂が実る国がある。お前たちが行って治めなさい」。
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ヤマト王権は水田稲作を国家運営の基礎としていた。それは「新嘗祭(にいなめさい)」「大嘗祭(だいじょうさい)」等の稲作儀礼として今日にまで伝えられている。灌漑稲作は集約的な労働を必要とする。農業用水の整備には、村落が一体となって行う共同労働が要請された。
写真出典:日本史はくぶつかん
江戸時代には村ごとに検地によって定められた村高が定められており、年貢は村高に応じた連帯責任によって上納された。各村に割り当てられた山林原野は村落共同体で総有した土地、すなわち入会地(いりあいち)とされた。山林では薪炭・用材・肥料用の落葉を採取し、原野では、まぐさや屋根を葺くカヤなどを採取した。山林原野も村落の一体的な管理を必要としていた。
村では冠婚葬祭や家屋の改築などにおける相互扶助が、当然の慣習となっていた。各村が持つ氏神すなわち鎮守は、このような村落共同体の一体性を象徴するものであった。村の住民はすべて神社の氏子である。
加えて1635年、江戸幕府が諸藩に「五人組」の結成と領民の寺請を命じたため、日本中のすべての家が仏教寺院の檀家とされた。「檀家」という言葉は鎌倉時代にすでに存在していたが、仏教寺院が「家」と結びついたのは応仁の乱(1467~1477年)以降である。戦国時代に日本列島の全域で荘園制度が崩壊して、自治的な村や町が形成された。それが檀家制度の背景にある。寺請制度(檀家制度)は、転びキリシタンを寺院に所属させる制度として、1614年頃から臼杵藩など一部の地方で始まったものである。