SALTY 論説委員 金井 望
年末の26日に藤本満師が「『聖書信仰とその諸問題』への応答1」という連載ものの記事を山﨑ランサム和彦師のブログで発表されました。これは、日本の福音派の聖書学徒には、必読の重要なエッセイです。
『聖書信仰とその諸問題』への応答1(藤本満師) | 鏡を通して ―Through a Glass―
『聖書信仰とその諸問題』への応答2(藤本満師) | 鏡を通して ―Through a Glass―
藤本師が『聖書信仰 −−その歴史と可能性』を上梓されたのは 2015年11月です。それに先立って2014年11月に行われた日本福音主義神学会の全国神学研究会議で藤本師は「聖書信仰 ―その「近代主義」を超えて」という発題を行っておられ、学会誌『福音主義神学』46号(2015年発行)に同名の論文が収録されています。
『聖書信仰 −−その歴史と可能性』が出版されてからすぐに、藤本師は、この著書の内容をわかりやすく説いた記事を、山﨑師のブログで発表されました。
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その1) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その2) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その3) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その4) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その6) | 鏡を通して ―Through a Glass―
聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その7) | 鏡を通して ―Through a Glass―
藤本師は「無謬か無誤か」という不毛な聖書論論争を終結させるために問題提起をしておられるのだ、と筆者は理解しました。その背景にあるのは、『新聖書注解』(1970年〜1977年、いのちのことば社)が刊行された頃に起こった聖書論論争とその傷です。
問題の焦点は「聖書の記述には歴史的また科学的に誤りが有り得るか」であり、近代的な聖書批評学をどのように評価して用いるか、ということでした。榊原康夫師や村瀬俊夫師などは、それを「有り得る」とする「無謬論」に立ち、聖書批評学を用いることに積極的でした。しかし、津村俊夫師などは歴史や科学の分野においても聖書に誤りはないとする「無誤論」を堅持し、聖書批評学を用いることに慎重な立場でした。
■福音主義神学第9号(1978年)
榊原康夫「五書解釈をめぐって」
津村俊夫「旧約批評学と榊原論文」
津村俊夫「福音主義の聖書解釈──その方法論の確立をめざして」
村瀬俊夫「聖書論論争をめぐる視点からの個人的所見」
1978年に米国で保守的福音派が発した「シカゴ声明」が、日本の福音派における「無誤性」=「聖書信仰」という大勢を決しました。
その結果、村瀬俊夫師は日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)の機関誌『聖書信仰』の編集委員長から降板することとなられました。ところが当の米国では、アカデミズムを尊重して、無謬論を容認する「新福音派」が大勢を占めるようになり、今日では「新」が取れて「福音派」と呼ばれるに至っています。
藤本師はこのような日本の福音派の狭量さを反省しているのですが、聖書宣教会の教師会は『聖書信仰とその諸問題』で藤本師に反論し、聖書の「無誤性」を堅持すべきだと主張しています。
この問題について筆者の見解を以下、簡単に記します。
【1】日本基督教団信仰告白
日本のプロテスタントで最大の教団である日本基督教団の「信仰告白」は、自分たちの信仰を次のように表現しています。
我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。
神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業(みわざ)を成就(じゃうじゅ)したまふ。教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。
我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン。(1954年10月26日第8回教団総会制定)
【2】日本福音同盟(JEA)信仰基準
日本で「福音派」を自覚する教会のおよそ半数が加盟している日本福音同盟(JEA)の規約第3条(信仰基準)には、以下のように記されています。
第3条 (信仰基準)
本同盟の信仰基準は次の通りである。
1.聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。
2.神はすべての造り主であり、唯一で三位一体のまことの生ける神である。
3.キリストはまことの神、まことの人であり、処女マリヤより生まれ、人間の罪のために十字架につけられて死に、全能の神の力によって復活し、神の栄光の御座にあってすべてを支配しておられる。
4.キリストによる救いは罪の束縛と死の力からの解放であり、信じるものは義とされ、聖霊によって新生し、きよめられ、栄化される。
5.教会はすべての信者が聖霊によって一つとされたキリストのからだであり、公同にして普遍である。
6.キリストは世界のさばき主としてふたたび来られる。キリストを信じた者は永遠の生命に、キリストを信じない者は永遠の刑罰に定められる。(本規約の発効は 1986年6月10日とする)
【3】聖書の無謬性と無誤性
聖書観に関する両者の微妙な違いに気づかれたでしょうか。
[日基教団]聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
[JEA]聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。
(1) どちらも「聖書は神の言葉である」と告白しています。
(2) どちらも聖書が信仰と生活の規範であると告白しています。
(3) 前者は、聖書は神と救いについて完全な知識を与えるものであり、信仰と生活の規範として聖書は誤りが無い、と告白しています(聖書の無謬性)。
(4) 後者は、聖書のすべてにおいて誤りが無い、と告白しています(聖書の無誤性)。
しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだか知っており、また幼い時から聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを、知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(第二テモテ3:14-17)
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。(マタイ5:18)
【4】日本プロテスタント聖書信仰同盟 (JPC) 信仰基準
日本プロテスタント聖書信仰同盟 (JPC) の「信仰基準」には、次のように記されています。
一 (聖書)
私たちは、旧新約六六巻が、十全霊感による誤りのない神のみことばであり、救い主である主イエス・キリストを示し、信仰と生活の唯一の基準であることを信じる。
日本プロテスタント聖書信仰同盟 (JPC) が1987年2月5日に出した「聖書の権威に関する宣言」には、以下のように記されています。
JPCの信仰基準は「旧新約聖書六十六巻が、十全霊感による誤りない神のみことばである」と告白しています。この告白はJPCの生命線であり、一歩も後退させることはできません。 この「誤りのない」という言葉が何を意味しているかという点をめぐって多くの論争がなされてきましたが、JPCとして、この「誤りのない」をどう理解しているかを明らかにしたいと思います。
I 「誤りのない」とは、聖書が神のみことばであり、それが主張しているすべての点で絶対的権威を持っていることを告白した神学的表現である。
II この「誤りのない」ということは、人間の理性や学問によって検証することができると考えて告白しているものではない。人間理性は、聖書の権威を十分に弁証し、立証し尽くせるものではない。聖書の権威を私たちに究極的に確信させるものは聖霊の内的なあかしである。
III 「誤りのない」という表現において、聖書の内容を信仰的・教理的領域と歴史的・科学的領域とにあえて分け、その一方の領域においてのみ誤りがないことを主張するという立場をとらない。
聖書の理解においてこのように二つの領域に分けることはもともと不可能なことである。聖書はその書かれた目的にそって理解されるなら、それが主張しているすべての事柄において誤りがない。
IV 「誤りのない」ということが不可謬性(Infallibility)を意味するのか無誤性(Inerrancy)を意味するのかという点は、それらの用語の理解にかかっている。
ある人たちは不可謬性を「教理や信仰の領域でのみ真理である」と解釈する。もし不可謬性をそのような意味に解するなら、第III項に照らして、その意味での「不可謬性」の使用は適切ではない。ある人たちは無誤性を「誤りがないことが検証されうる」と解釈する。無誤性をそのように解釈するなら、第II項に照らして、その意味での「無誤性」の使用は適切ではない。従ってこれらの用語を使用するときは注意深く定義してから使うようにすべきである。
V 「誤りのない」という確信と主張は、聖書の正しい解釈を前提とするだけではなく、その解釈と適用への努力をも要請する。
この確信と主張は、聖書の統一性と真理性に堅く立ち厳密な歴史的・文法的解釈をほどこす責任、さらにその今日的意味をも明らかにする責任を私たちに課するものである。
もしこの責任をなおざりにし、その努力を怠るなら、「聖書は誤りのない神のことばである」との信仰告白は有名無実になり、空文化するであろう。
【5】自由主義・新正統主義・福音主義・根本主義
「聖書は救いと信仰と生活についての誤り無き基準の書である」ということに、根本主義者、福音主義者、新正統主義者はみな賛成しています(聖書の無謬性:Biblical infallibility)。しかし、「聖書は歴史的にも科学的にも誤りが無い」という聖書の無誤性(Biblical inerrancy)については、意見や立場が分かれます。その歴史的事情を以下、単純化して説明してみます。
19世紀から20世紀にかけて欧米のキリスト教世界では、合理主義・科学信仰・進化論によってキリスト教の基本的な信条を否定した自由主義神学(Liberal theology, Theological liberalism)が猛威を振るいました。これに対抗して生まれた「根本主義」(Fundamentalism)の運動は、キリスト教の根本的な信条を守ろうとするものでした。
しかし今日では一般的に、聖書の無誤性を主張して、進化論に反対し、創造科学とディスペンセーション主義を説くプロテスタント保守派を「ファンダメンタリズム」(根本主義、原理主義)と呼ぶ場合が多いようです。根本主義には、分離主義と反知性主義の傾向があると言われます。聖書宣教会の先生方はアカデミズムにおいて超一流であられ、創造科学は支持しておられないでしょうから、いわゆるファンダメンタリストではないでしょう。
根本主義者も福音主義者も新正統主義者も、キリスト教の基本的な信条を信じ、告白しています。しかし、「聖書は歴史的にも科学的にも誤りが無い」という根本主義の主張(無誤性)に、新正統主義(Neo-orthodoxy)は反対します。新正統主義は自由主義と共通する聖書批評学を重視しているからです。
今日の福音主義(Evangelicalism)は根本主義をルーツとしますが、アカデミズムを重視しており、「聖書の記述には歴史的また科学的な誤りが有り得る」と考える福音主義者もいます。聖書の「無誤性」の主張は、新正統主義者や自由主義者、非キリスト教徒との対話や交流の妨げとなり、今日の福音派を窒息状態に陥らせています。
旧新約聖書66巻はすべて、神の霊的な導きを受けた人たちが、書き記した歴史的文書です。神の言葉は、歴史的文化的な制約条件のある人間の中に受肉して、その人を通して語られ、口で伝えられ、記されて、聖書となりました。言われるがままに記者がタイプライターを打ったり、神がかりになってお筆先を記した、というようなことではありません。
聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきではないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。(第二ペテロ1:20-21)
また、私たちの主の寛容は救いのためであると思いなさい。このことは、私たちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。(第二ペテロ3:15-16)
宗教改革の指導者であったマルティン・ルターやジャン・カルヴァンの聖書論は、どうだったでしょうか。以下にルターの教説を引用します。
「キリストは主であって、僕ではない。キリストは万軍の主、律法の主、あらゆるものの主である。聖書は、キリストに反する証しをたてることが許されず、キリストのために、またキリストとともに読まれるべきであり、解釈されるべきである。聖書は人をキリストとの関係に入れることができなければならない。そうでなければ、それはまことの聖書と考えられない」(WA39:47)
「聖書は書かれた神の言葉であって、いわゆる『文字の中に入れられた』ものであり、それはキリストがその人間性という衣に受肉した神の永遠のことばであるのと同じである。またキリストがながめられ、扱われたようなことがこの世においてキリストに起こるのと同じく、神の書かれたことばにもこのようなことがある。聖書は他の書物に比べると、書物ではなく虫である」(WA48:31)
「聖書は外見的な栄光をもたず、注目を引かず、美と飾りとをみな欠いている。だれがこのような神のことばに信仰を密着させようとするのか。あなたはほとんど想像することはできない。というのは、聖書は栄光もあるいは魅力ももたないからである。しかも信仰は、この神のことばから、どのような外的な美しさもない聖書の内的な力を媒介にしてくるのである。神のことばにわれわれの信頼を置くようにさせるのは、聖霊の内的な活動だけである」(WA16:82)
キリストを証しして人々を救うことが、聖書の最大の目的である。キリストを証して人々を救うからこそ、聖書は神の言葉だと言えるのであるーー。これがルターの主張です。また、聖書はそれ自身が神の言葉であることを証ししているーー。これがカルヴァンの主張です。すなわち彼らは、人間理性による聖書の権威の証明を、必要としなかったのです。聖書が神の言葉であることを今日の人々に証しするのは、聖書の著者たちを導いた聖霊ご自身です(聖霊による照明)。
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、私について証しをするものである。(ヨハネ5:39)
こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身について記してあることを、説き明かされた。(ルカ24:27)
私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する。(ルカ24:44)
しかし、助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起させる。(ヨハネ14:26)
しかし、真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくださる。(中略)御霊は私の栄光を現す。私のものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。(ヨハネ16:13,14)
神は御霊によってこれを私たちに啓示してくださった。(第一コリント2:10)
ルターとカルヴァンは「隠れたる神」を尊重し、人間の理性による探求の限界について警告しています。カルヴァンは、『キリスト教綱要』で二重予定について述べているところで、「隠れたる神」にたびたび言及し、踏み越えてはならない「柵」を設けています。人間の理性によって冒してはならない神秘(奥義)の領域があるのです(カルヴァン『キリスト教綱要』第3篇 第21章 旧版pp.187-188)。その「歯止め」を外した結果、近代の教会と世界はどのようなことになったでしょうか。我々は、人間理性の限界を自覚し、神の神秘と啓示に対する恐れを持つべきでしょう。
自由主義神学は近代的な科学を偏重して、「聖書の人言性」を強調し、歴史的信条を否定しました。「無誤性」を主張する「聖書信仰」はそれに対抗するために生まれたものですが、これも近代主義の遺物です。神の神秘を冒そうとした点では、進化論を支持するリベラリズムも、創造科学を作ったファンダメンタリズムも、同罪です。
旧新約66巻の聖書正典はすべて啓示の書であると同時に歴史の書であり、文学の書であり、信仰の書であり、神学の書です。そのような聖書の性格を理解して、それにふさわしいアプローチによって聖書を読み解いていかなければ、とんでもない勘違いがキリスト者・キリスト教会に生じます。そのアプローチにおいては根本主義者も福音主義者も新正統主義者も重なるところが多いので、共に聖書を研究することが可能です。
【6】神の言葉の神学
筆者自身のポリシーは「聖書の証言を信じる」というものです。聖書に書かれているイエス・キリストのみわざは、人類の歴史において起こった事実である、と私は信じています。聖書に記されたその力強い確かな証言のゆえに、私はイエス・キリストが私の救い主であることを確信して、心が安らぎ、喜びをもって、その証しをしています。
兄弟たちよ。私が以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、私の宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
私が最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたような私にも、現れたのである。(中略)
とにかく、私にせよ彼らにせよ、そのように、私たちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(第一コリント15:1-8,11)
聖書の中心的テーマは「イエス・キリストが成し遂げられた人類の罪の贖い」であり、また、「それによって開始され継続されている神の国の形成」です。新約聖書はこれを「福音」と呼びます。これを信じない人は「福音派」を自称できませんし、実際にそのような人はいないはずです。新正統主義の立場においても、これらは同じはずです。ですから、福音派だけでなく新正統主義に立つ主流派の人たちも本来の意味での「福音主義者」なのです。
聖書はすべて神の言葉である。そして、説教において聖書は生きた神の言葉となって、人々に啓示される。聖書は「キリストの生の声(viva vox Christi)の聖なる道具」である(ルター)ーー。新正統主義を代表する神学者カール・バルトが説いた「神の言葉の神学」は、このルターの神学に近いものです。ただし、バルトは近代的な聖書批評学に依存しているために、「聖書はすべて神の言葉である」と言うことができず、「聖書は神の啓示に関する証言である」と説いたのです。
彼らは互いに言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、私たちの心は内に燃えたではないか」(ルカ24:32)
【7】近代主義の呪縛から解かれるべき時代
今、私たちは、近代主義の呪縛から解かれるべき時代に、生きています。
筆者は基本的に進化論を支持していません。科学の学説は証明されるまでは仮説に過ぎず、進化論ーーと言っても多様ですがーーは未だ証明されていない部分がほとんどです。種の中で起こる小進化=環境適応はありますが、別の種への大進化は証明されていません。
現代においては、近代科学の前提である経験主義・合理主義の世界観や方法論が疑問視され、その限界を露呈しています。ですから、科学の有用性を認めて、使えるものは聖書学・神学に利用したら良いのですが、創世記1〜3章を科学的に説明しなければならない必要性は、無いのです。
現代の多元宇宙論においては、超自然的な神の存在と働きを信じ、超自然的な啓示を信じることは何ら問題となりません。むしろ創造主無しに宇宙や生命、DNAの存在を説明することは不可能とさえ言えます。
創造科学を支持する方々も、大進化を認める有神論的進化論を支持する方々も、同じ信仰を持つキリスト者である、と筆者は思っています。創造科学が正しいとしても、あるいは大進化があるとしても、そのような驚異的な創造を為された神をほめたたえることでしょう。
このような状況において我々キリスト教会が近代主義の呪縛から解かれるのは、当然であり、必要なことです。JEDP説や史的イエス論など、聖書のテクストを細かく切り分けた近代の聖書批評学は、今や崩壊しつつあります。ロルフ・レントルフが「パラダイムの変化、希望そして恐れ」(1993年)で述べているように、「現在ある最終的な形においてあるがままにテクストに真剣に取り組むこと」が求められているのです。
【8】「脱西欧近代」のキリスト教
このようなマクロな視点でのキリスト教の見直しが、日本人への伝道に非常に重要な意味を持っています。日本人には科学信仰が根強く残っていますが、今や日本人の世界観も大きく変わろうとしています。ところが、多くの人が聖書=キリスト教に答えを求めているのに、キリスト教会がそれに十分対応できていない現状があります。
もちろん我々のキリスト教信仰は、あらゆる人間の思想と活動を超えた神からの啓示に基づくものであり、時代の思潮に依拠するものではありません。けれども、ポストモダン的な変化は、世の人々への弁証において好機と言えるでしょう。
「宗教改革500年」(1517年ー2017年)という時代は「西欧近代」の世界的拡張の時代でもあります。現代のポストモダン的状況は、「脱西欧近代」という巨大なパラダイム転換の開始を意味します。
筆者はもともと経済や政治、エコロジーの視点から脱近代の問題に取り組んでいましたが、これはキリスト教の日本宣教においても本質的な問題に関係しているように思います。
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