上川島でザビエル帰天・46歳 −久保田典彦−

※ 写真:フランシスコ・ザビエル肖像(神戸市立博物館 蔵)

『キリシタン史からのメッセージ』
 高槻・Ucon:第36回 

 

 

 

━ 久保田 Ucon 典彦 ━

阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰

 

上川島でザビエル帰天・46歳

● 公式に 中国 ( 明 ) に入国する手立てが 無くなってしまったまま、ザビエルは、 “ 何とかして 中国に入国したい! ” という 強い思いをもって、密貿易地である 上川島 ( サンシャンとう ) に、1552年8月の終わり頃に 上陸しました。

  当時 この時期、ポルトガル人や 船乗り、その僕 ( しもべ ) たちが2千人ほど 住んでいて、ザビエルは、彼らのために、竹とむしろで 小さな聖堂を建て、司祭としての働きを 始めていきました。

  中国人の商人たちに、 “ 広東に渡りたい ” と話してみますが、誰も協力を約束しませんでした。

 “ もし、外国人を 中国に入国させる者に対しては、死刑の宣告がされていた ” のです。

 ● 一方、ザビエルの健康状態は よくなくて、マラッカ 出発前から弱ってきていたのですが、ここでも、3週間ほど、高熱を出して 寝込んでしまいます。

  入国の目途が立たないまま、時間が どんどん たっていきます。

 上川島で 密貿易が出来るのも、大陸から 冷たい風が吹き始める11月半ば頃 までのことです。

  “ 中国入国計画 ” を 急がせる必要が ありました。

  中国人の 一商人が、 “ 大量の 胡椒と引き換えに、広東の門までは 連れて行く ” ことを約束してくれました。

 小船で 大陸まで連れて行き、2・3日、自分の家に かくまった後、様子を見て、夜明けに こっそり、ザビエルと 荷物・本などを、広東の町の門前まで運ぶ ━━ という 計画でした。

 あとは、どうなるのか?
 捕まって 投獄 ・ 拷問 されるだけなのか、
 首都 ・ 北京行きの道が開けるのか、
 手引きした中国人は、無事でいられるのか、

 ━━ 計画は、危険に満ちたものでした。

● 中国人は、いったん 帰国して、準備して、再びやって来ることになっていたのですが、莫大な利益となる品を、報酬として与える約束になっていたのですが、時間が どんどん過ぎていくのに ・ ポルトガル人達も どんどん 引き上げて行ってしまうのに、約束の 最終期限の 11/19 になっても、とうとう、中国人の商人は、やって来ませんでした。

 ● たとえ、中国人の商人が やって来たとしても、行動に移せるような、ザビエルの健康状態では ありませんでした。

 11/21 高熱を出します。高熱に震えながら、浜辺に立って、中国人が やって来るのを待ちますが、説得して、小屋の中に連れて行き、 “ 瀉血 ”(しゃけつ ) します。

 意識不明状態になります。
 もう、何も 食べることが出来ません。

( ※ 瀉血 ━ 治療のために、患者の静脈から 血液を取り出すこと )

 11/24 熱が再び 高くなります。 瀉血 ➡ 意識不明。
      熱が下がらないので、下剤。
      熱は 続きます。 肺炎でした。
      数時間後、昏睡状態に。

 11/26 危険な状態が 続きます。

 12/1 ( 木 ) 熱が下がって、意識が戻り、少し話すことが出来ました。

 12/2 ( 金 ) ザビエルの臨終が近づいていることを感じ、ずっと そばで世話をしていた アントニオが、夜中じゅう、そばで 過ごすことにします。

 12/3 ( 土 ) 朝2時頃、呼吸が苦しくなります。

       ザビエルの 最期の言葉

     「 主よ、われ、御身に よりたのみたり。
       わが望みは、とこしえに むなしからまじ。」

            ( 感謝の賛歌 「 テ ・ デウム 」 の言葉 )

 

  1552年12月3日 ( 土 )

   フランシスコ ・ デ ・ ザビエル 帰天。 46歳。

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<上巻>        <下巻>
【 参考図書 】  「 聖フランシスコ ・ デ ・ サビエル書翰抄 」 ( 岩波文庫 )

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久保田 Ucon 典彦

阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰

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髙山右近やキリシタン達を通して、いっしょに考えていければと思います。