令和3年の決意、ノアから私が学んだ敬虔さ−西岡力−

 

 

 

 

西岡力
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY-  主筆
救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)会長

令和3年の決意、ノアから私が学んだ敬虔さ

 「なぜ、父なる神さまはこのようなことが起きることを許しておられるのか」

 キリスト教を信じるようになった後、多くの信者が心に抱く疑問だろう。少なくとも私は40年間の信仰生活で何回もこの疑問に直面して悩んだし、いまも悩んでいる。

 昨年6月に、40年以上前に愛する娘を北朝鮮によって拉致され、ずっと救出のための国民運動の先頭に立ってこられた横田滋さんが天に召された。愛するめぐみさんに会えないどころか、その消息さえ正確に分からないままで、だ。

2020-6/8 横田滋さんの葬儀。  横田拓也さん提供。

 滋さんは、「神がいるならなぜ拉致という不条理を許しているのだ、めぐみを帰してくれるならどの神さまでも拝みたい」とおっしゃり、頑なに妻の横田さんが信じているキリスト教を拒んでいた。
ところが、晩年になって言葉が満足に話せないほど、弱ってきた後、自分の意志で洗礼を受け、病床でお祈りをする日々を過ごされた。

その滋さんにめぐみさんを会わせることができなかった。安倍晋三首相(当時)も涙声で無念さを語っていたが、ずっと横田さんご夫妻とともにめぐみさんたち救出のために戦ってきた私も口惜しさと申し訳なさで、冒頭の疑問を神さまにぶつけるしかなかった。

 その中で今私は、10年以上前から教えられ続けている聖書の創世記6章から8章のみ言葉に心が止まり続けている。

主は人を滅ぼすことを決意する。その理由は「地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾く」ことだった。

〈主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」

しかし、ノアは主の心にかなっていた。〉(創世記 6:5〜8)

  ただ、主の心にかなっていたノアとその家族だけは滅ぼさなかった。ノアには小舟を作るように命じて洪水による地上の生き物全ての滅びから救ったのだ。

 主は大雨を降らせた。

〈こうして、地の上を動き回るすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群がるすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。

いのちの息を吹き込まれたもので、乾いた地の上にいたものは、みな死んだ。

こうして、主は地の上の生けるものすべてを、人をはじめ、動物、這うもの、空の鳥に至るまで消し去られた。それらは地から消し去られ、ただノアと、彼とともに箱舟にいたものたちだけが残った。〉(創世記 7:21, 22)

 「すべての人も死に絶えた」。まさに主が意図を持ってなさった人類消滅事業だった。もしこれを人間が行ったのであれば、現在の国際法が悪だとして強く糾弾するジェノサイド、大量虐殺だ。ジェノサイド条約ではジェノサイドを国民的、人種的、民族的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為だと定義している。

 死んで行っている人の中にはノアが親しかった親戚、友人知人が多数含まれていたはずだ。箱船の近くを流れ過ぎた死体もあったのではないか。雨が止んで地が乾くと、多くの人と動物の死体が姿を現し、死臭が全地に充満していたはずだ。

ノアは雨が降る前に主から「わたしが造ったすべての生けるものを大地の面から消し去る。」という言葉を聞いていた。箱船の中で生き残ったノアは、彼ら以外の全人類が溺れ死んでいっているとき、何を思ったか。

 恐ろしさで震えながら、「なぜ、父なる神さまはこのようなことが起きることを許しておられるのか」と心の底から叫んだのではないか。

 しかし、主はこの「なぜ」、にはお答えにならない。ただ、箱船から出なさいと命じられるだけだ。

〈神はノアに告げられた。

「あなたは、妻と、息子たちと、息子たちの妻たちとともに箱舟から出なさい。〉 (創世記 8:16)

 ノアはこの主のことばにしたがって箱船を出た。

〈そこでノアは、息子たち、彼の妻、息子たちの妻たちとともに外に出た。〉(8:16)

 そして最初に、主のために祭壇を築き、そこで家畜と鳥を焼いて主に献げた。

〈ノアは主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。〉(8:18)

ここで確認したいのは、主が命じられたには箱船から出ることだけで、祭壇や全焼のささげ物のことは命じていないということだ。ノアが自分の意志で行ったのだ。

ノアが一番知りたかっただろうことは知らされていない。なぜ、人類が滅ぼされ、なぜ、自分たち一家だけが残されたのか、ノアには明らかにされていない。

ノアは恐ろしさの中で、主のお考えには人である自分には分からないことがあるのだ、人の「なぜ」に主はお答えにならないのだということを、体験したのだ。そしてただ、頭を下げて、自分は人にしか過ぎないことを骨身にしみて実感したのだろう。そこには、自分は罪深い人間にしか過ぎないという実感があったのだ。
そのような、へりくだる、敬虔な姿勢にたったとき、人としてできることは、主に祭壇を築きささげ物を献げることだと、分かったのだろう。そして、そのささげ物は家畜と鳥を焼き尽くして献げるということが、教えられないのに悟ったのだろう。

主はささげ物を喜ばれた。

〈主は、その芳ばしい香りをかがれた〉  (8:21)

 そして、ご自分の心の中で、「なぜ」の答えを自問自答された上で、二度と大虐殺はしないと言われた。ただし、ノアには伝えていない。

〈そして、心の中で主はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。

この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」〉 (8:21,22)

 主は二度と大虐殺はしない理由を「人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ」と明らかにした。

 人間である私はここで「悪であるから滅ぼさない」という主の論理にすぐについて行けなかった。人間の論理ならば、たとえば「ノアが自分の罪を認めて全焼のささげ物を献げたから滅ぼさない」というはずだ。しかし、主のお考えは違う。

 大洪水前に全人類を滅ぼそうと決意された理由は

「地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾く」からだった。

 ここで滅ぼさないと決意された理由は

「人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ」った。

 この二つを比べると人は悪だという根本メッセージは同じだが、滅ぼす理由は「みな、いつも悪に傾く」だった。「全部悪だ」「いつも悪だ」という全否定だ。

 一方、滅ぼさない理由は「幼いときから悪である」だ。原罪だ。生まれつきの性質だ。しかし、そのことを悟って主の前にへりくだるなら、主の力で悪に傾かずに善をなすこともできる、とお考えになったのではないか。この解釈も人間にしか過ぎない私が行っているのだから、全く不十分で、主の御心をごく一部分を述べているのだろう。

 そのことを自覚しながらだが、コロナウイルスという全人類が制御できない災難に苦しんでいる今、私は、私たち人間は「幼いときから悪である」どうしようもない存在だが、だからこそ、そのことを知って十字架のイエスの前に跪くことができる。

私たちはこの地上で起きていることの全てを知ることはできない。わたしたちの「なぜ」という問いの大部分は答えをいただけない。しかし、新約時代の祭壇である十字架の前に跪き、謙遜を身につけるとき、なすべき良き行いをこの地上ですることができる。

 まず、謙遜、敬虔、不知の知が先で、その後に地上でなすべき使命がある、そのような姿勢で令和3年を生きていこうと決意している。