中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
日本基督神学院院長
SALTY-論説委員
・統一協会の合同統一協会の合同結婚式に行ってしまった23歳の娘さんが裸足で外に逃げ出した窓が、その時の様子をいかにもといった感じで露骨に想像させるので、私はこの窓が嫌いです。思えば、私はこの窓から娘さんが残した統一協会の記録ノートを母親から受け取ったのでした。「こんなもの要らないから。」と。
・その目の前には、前方には坂本弁護士一家の様子が映っていた公園があるのです。
・私が、カルト問題について関心を持つのは、駅を使う度に、このように繰り返し刺激を受けつづけているからなのかもしれません。
・また私自身も何だかんだで圧の強い牧師のいるキリスト教会をいくつか通ってきました。そのような自分の経験とカルト団体の様子がつながるからでもあります。
<統一協会関係でのお薦めブログ>
・私たちが当たり前に使っているインターネトですが、私が統一協会問題を初めて意識したときがWindows95その次の97と、ネット環境が一気に広まっていく時期と重なります。統一協会問題にアンテナを高くしていると、ネット上では統一協会の現役信者や脱会者などが自分の心情を吐露しているのが目に留まります。
・当時はまだ気軽に書けるブログ(Blog)はなく、掲示板やあえて自身で開設するホームページが主流でした。実生活の現場で言えないことが匿名性ゆえにネット上で語られているのです。現在では、FacebookやTwitterなどのSNSの高度化で、誰もが情報発信できる時代になり、情報が溢れています。しかし、当時は今と違い、煽りやフェイクでの世論誘導、視聴者数を競ったり、注目を集めようという要素がほとんどありません。むしろネットだから言える心情吐露が目的なので、そこで語られる人たちの語り口はどことなく素朴でした。
・私がよく見ていた掲示板もブログもほとんど廃止され、他のフォーマットに移ったり、そのまま消えてしまったりです。閉じられて見ることができないものが多くありました。とはいえ、いつの頃からか見ていたもので、残っているのが「ちゃぬの裏韓国日記」「いつも私の隣に献金FAX」です。自分の通ってきた道を実によく検証しています。皆さんが初めて見るには少し濃すぎる内容であるかもしれませんが。見てほしいのは脱会者の中には自らの経験を通して深く自省し洞察を研ぎ澄ます人たちが現れるということです。私の所属する東京キリスト教神学研究所の八木雄二所長はそのようなことをもって「哲学をする」と言います。彼らを見ていると、「哲学」とはもっと人格的なものであり、寛容と厳しさが同時に主観を鍛えるようなものなのだと教えられます。
脱会者がカルト被害を訴えその危険を言うのは当たり前でしょう。しかし、人によっては自分が被害者の立場つことをやめ、いまだ解決しない問題を抱えつつも、「人間とは何か」「人生とは何か」「生きるとは何か」を自分の経験と重ねて見出す人たちがいます。彼らのその洞察が全て正しいとは言いません。ただそこには、生きる上で綺麗ごとでは済まされない人間存在を等身大で受け入れる寛容があり、同時に人間であることゆえの限界や現実を睨みつけて決して目を逸らさない厳しさがあります。
< 宗形真紀子著『二十歳からの20年間』 >
・そのような哲学を実によく兼ね備えた本で、私が最も教えらるのは宗形真紀子著『二十歳からの20年間』です。統一協会問題を語る前に紹介しておきたい本です。著者の宗形真紀さんはカルトからの回復において、自分の心の動きをよく観察していて、カルト脱会者がいかに心を回復していけばよいかという点においても非常に参考になるものです。
著者の宗形さんは元オウム真理教から現在「ひかりの輪」に移り、聖地巡りをして日本の古来の神道や修験道に学んでいます。オウム真理教の教祖麻原彰晃への帰依や信仰はとっくに捨て、違う道を歩んで長く時が経っています。
・かつての教祖麻原は目が不自由であり、視界が閉ざされていました。その教えは内へ内へと閉ざされた世界へ向くものでした。しかし、宗形さんが癒されたのは目の前に広がる大自然に触れることを通してでした。
・興味深いことに、私が研究しているアッシジのフランシスコの霊性と同じ経過をたどります。
・古代よりキリスト教会においてはアウグスティヌスにならい、瞑想において内を見る傾向があります。人間の内には、神がご自身の似姿にかたどられて人をつくった神の像imagoがある(創世記1:26-27)からです。「内にある神の像imagoを見よ!」ということです。ところがフランシスコ会の霊性指導においては、「まず外を見なさい!」といいます。そして「自然に触れなさい!」といいます。会祖フランシスコ自身が大自然の中に飛び出し、花を見てその美しさを覚え、小鳥や魚に話しかけたからです。フランシスコは神が創造された大自然(被造物)を見て喜び、神を賛美したのでした。
・それをもって内側を見るのです。自分の内をただ見るだけならば、そこには罪にけがれた心が無限に広がっているのを見るだけになるでしょう。しかし、神の創造の美しさを体験して自分の内を向くとき、そこに自分もまた大自然と同じく神の被造物としてつくられた本来の神の創造の美しさを見ることになるのです。
・宗形さんはオウム事件の惨状を知ることで精神的にも混沌とする中、世間からは非難されつづける状況で、ある時自然の中で小川の流れに音楽が奏でられているのを聴きます。また目の前に現れた虹に感動します。自然を見て触れるときの素直な心の動きが大切に思えたのです。それが癒しへの道となっていきます。現在、宗形さんは聖地巡礼で多く自然に触れるのは、その原体験があるからなのでしょう。オウム時代には閉ざして見ていなかった世界をしっかりと見て、かつてとはまったく反対方向に歩むことで、人にとって何が必要で何が人を本当に生かすものであるかを学び確認しています。
大自然から現れた美しい虹のようなものから、何かを学び取ろうとするこの感覚は、とても自然なものではないかと感じられました。この自然にわき起こる素直な気持ちは、自然豊かな美しい日本に生きて来た日本人が、さまざまなものに神仏を感じながら生きてきたのと同じ気持ちなのではないかと思えました。これは、無理に思いこまなくては成り立たない宗教や信仰よりも、大切な感覚だと感じられ、それに比べて、人間だけの中から、誰か一人を選んで、神のようにその人のことだけを考えなければならない麻原のグルイズムは、ものすごく不自然なものだと感じられたのです。(『二十歳からの20年間』p201)
<カルト問題の難しさ>
しかしながら、やはり問題があります。これはカルト問題の厄介なところの一つです。「ひかりの輪」がまだ麻原信仰を捨てていないという公安報告があるのです。私の見ているところとは矛盾する情報です。そこで私は素直に判断保留にしています。一つに被害者遺族のことを考え、監視対象から外せないという公安調査庁の事情も考えられます。きっちりと見極めて報告できればと考えています。
・公安調査庁は監視団体として他に、オウム真理教の後継団体の「アレフ」、日本共産党、革マル派や中核派、極右グループなどもあげています。総じて言えることは、実態が見えなければ等身大が分からずに、いたずらに妄想が膨らんで不安や恐怖が掻き立てられるということです。
・現在、世間を騒がせている統一協会問題もそうです。情報源が偏っているので、真実が見えなくなって、いたずらに妄想が膨らんでいる状況です。ですから、カルト問題にあってはまず「解像度」が大切になります。どんな組織であるか見える状態がいいのです。また「等身大」の姿を知ることです。手元にある10円玉でも目の前に持ってくれば、本来の大きさが分からなくなってしまいます。問題にあってはその問題がいかなるものか分かるだけの「解像度」とその問題の「等身大」の姿を知ることが必要となります。一番良くないのは、情報がないことです。
そこで私は公安調査庁にはちゃんとした報告を入れつつも、今後「ひかりの輪」についてルポタージュして後々皆さんにお伝えしたいと考えています。
・その一環として、9月22日(木)、ロフト プラス ワンにて「ひかりの輪」の上祐史浩代表と宗教専門誌『宗教問題』の小川寛大編集長と私中川の3人での対談があります。ご視聴いただければ幸いです。
9月22日(木)
「統一教会、創価学会、オウム、幸福の科学、政治と宗教、宗教・カルトの専門家が大討論!」
【出演】
上祐史浩(元オウム幹部・ひかりの輪代表 )
小川寛大(宗教・政治ジャーナリスト、雑誌「宗教問題」編集長
中川晴久(キリスト教会牧師、異端・カルト研究者)
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/plusone/224032
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