※絵画(サムネイル)は、ポール・アレクサンダー・アルフレッド・リロイ作 『ハマンとモルデカイ』
田口 望
我孫子バプテスト教会牧師
信教の自由の観点から旧統一協会の解散命令請求に反対します
世界平和統一家庭連合(旧世界基督教統一神霊協会、以下「旧統一協会」という)に対する解散命令請求に関して、私は信教の自由の立場から反対します。こう表明すると、旧統一協会を擁護しているかのように誤解され、陰で「壺牧師」などと揶揄されるかもしれません。キリスト教メディアを含め、キリスト教界では「旧統一協会は解散すべし」と大合唱しており、その中で異を唱えることは、狭いキリスト教界のムラで干される危険を伴います。また、現代日本社会を覆う言いようのない「空気」に逆らうことになり、それは大きな恐怖であり、私にとって何の得にもなりません。(もちろん、旧統一協会から金品を受け取って反対を依頼されたわけではありません。)
しかし、私はキリスト教界に籍を置く一宗教者として、マルティン・ニーメラーの警句に触発され、矢も楯もたまらず、勇気を振り絞って異見を表明せざるを得ません。
ニーメラーの警句をご存じない方のために、引用しておきます。
ナチスが共産主義者を連れ去ったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員を連れ去ったとき、私は声をあげなかった。私は労働組合員ではなかったから。
彼らが私を連れ去ったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。
この警句を現代日本の状況に照らすなら、次のように映ります。
文部科学省が旧統一協会の宗教法人格を取り消そうとしたとき、私は声をあげなかった。私は旧統一協会の信者ではなかったから。
厚生労働省がエホバの証人の信仰のあり方に口出しをし始めたとき、私は声をあげなかった。私はエホバの証人の信者ではなかったから。
マスコミが宗教2世問題を取り上げ、宗教全般に対するヘイトを広めたとき、私は声をあげなかった。私の信仰は正統信仰であり、カルトではなかったから。
そして、彼らがキリスト教徒である私の信仰の内心を侵したとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。
だからこそ、私は声をあげるのです。
私の2つのアイデンティティ
もっとも、私は旧統一協会が「コンプライアンス宣言」以前に行ってきた高額献金問題を無視してよいとは考えていません。率直に申し上げれば、私は一般のクリスチャンや他の牧師以上に、二つの理由から旧統一協会に嫌悪感を抱いています。
第一に、私はある神学校で十年間、聖書教理学を教えてきました。これは「どこまでが正統か、どこからが異端か」を線引きする学問です。モルモン教、エホバの証人、旧統一協会などは長らく異端とされてきました。前二者は二千年前のナザレのイエスを救世主と告白しますが、その理解が正統派と異なるため、正統キリスト教から異端とされます。しかし、旧統一協会は、そもそも「誰がメシアか」と問えば、ナザレのイエスではなく文鮮明氏を指すのです。これは単に「キリストとはどのような方か」という理解の差にとどまらず、「救い主とは誰か」という根本的方向性そのものが違うため、正統的キリスト教の立場から、なお一層否といわねばなりません。
第二に、私の牧会に直接かかわる問題ですので詳述は避けますが、私が牧している(あるいは牧してきた)教会員の家族に旧統一協会の元信者がおり、そのことで深い苦しみと葛藤を抱えていました。私はその家庭を訪ね、和解のために祈り、苦しみに耳を傾けてきました。つまり、旧統一協会問題は私にとって、2022年の安倍元首相暗殺を契機に注目されるはるか以前から、現実の牧会の中で切実に関わってきた直接的な問題なのです。だからこそ、耳学問だけで「2世の声を聞け」「統一協会を擁護するな」と叫ぶにわか評論家の軽薄さに口を挟まれる筋合いはないと思っていますし、この問題に一日の長があるとおもっています。
以上、私のアイデンティティにかかわる2つの理由があるにも関わらず私はなおも信教の自由の観点から旧統一協会の解散命令に反対するのです。それほどまでに内心の自由は尊ばれるのです。
「統一協会解散に反対」と言えば、政治的には右派からも左派からも「解散すべし」の大合唱が聞こえてきます。本来、信教の自由を強く訴える左派からも、反対の声はほとんど聞こえません。オウム真理教の無差別テロ事件でさえ、左派の憲法学者や宗教者からは「信教の自由や結社の自由の観点から慎重にすべき」との声が多くありました。しかし、旧統一協会には「勝共連合」という関連団体があり、共産党に対抗する活動をしてきたため、左派は政治的イデオロギーから、統一協会解散を支持しています。その結果、統一協会は四面楚歌の状況にあるのです。
右派は、国家が自由権を制限してでも「怪しからん団体」を規制してよいと考えているため、統一協会を擁護しません。左派は本来、国家が自由権を侵す場合に反対すべきですが、従来の統一協会は共産主義に敵対してきたため、守る義理はないと見捨てています。
このような中で「統一協会解散反対」と言えば、私が右翼的立場から統一協会を擁護していると誤解されるかもしれません。しかし私は、キリスト者として政治的立場を超え、信教の自由を守る立場からこの意見を述べています。
聖書のエステル記には、ハマンという人物が登場します。彼は政敵モルデカイの信教の自由を奪い、磔刑に処そうとしましたが、結局は自らの墓穴を掘って、自らが作った刑場で処刑されました。私は、旧統一協会解散という前例がつくられるなら、声高に解散を叫ぶ社会派キリスト者こそ、現代のハマンになりかねないと考えています。
そこで私は、特に社会派・左派キリスト者に向けて、この問題が「他人事」ではなく「我が事」であることを理解してもらうため、近未来のシミュレーションを示します。
近未来シミュレーション203X年、教団に解散命令請求
自公連立政権は支持率低下に伴い、連立の組み換えを行いました。その中で、高齢化が進み集票力の低下した公明党は連立から外され、代わって自民党より右とされる保守党や参政党と連立政権が組まれました。こうして、宗教に一切忖度せず、かつての安倍晋三政権を凌駕する保守連立政権が誕生しました。さらに2030年代に入り、普天間基地返還と引き換えに、辺野古新基地の供用が迫る状況となりました。
政府は反基地運動が活発化するのを事前に防ぐため、比較的大規模なプロテスタント系宗教法人である「Nキリスト教団(以下、教団という)」の解散を宗教法人審議会にかけました。教団は「反基地運動のスケープゴートだ」として抗議キャンペーンを展開しましたが、政府は教団の複数の牧師が訪朝していることをマスコミにリークし、あたかも教団が中国や北朝鮮のスパイ、あるいは反社会的組織であるかのような印象操作を行いました。日本人口の0.8%に過ぎないキリスト教徒の声は世論を動かすことはできず、ニーメラーの警句のように、教団内で社会派運動に理解を示さない教会派は関心を示さず、教団以外のキリスト教関連団体も社会派を問題視、放逐されるべきと見なし、結果、教団解散は2026年の旧統一協会解散を前例として審査されることになりました。
やり玉に上がったのは、反基地運動に関わった牧師が2000年代および2010年代に逮捕された事例です。旧統一協会では民事上の不法行為が問題とされましたが、教団の場合は公務執行妨害罪に加えて刑法上の身体犯(傷害罪)も含まれ、悪質性に関してはより高いと判示されました。教団側は、個々の牧師の行き過ぎであり最後の逮捕から10年以上がたっているため継続性はないと反論しました。しかし、逮捕が複数回にわたり継続性が認められ、また、旧統一協会の事例でもコンプライアンス宣言から十年以上たっていても遡って過去の事案の継続性を認めた前例に従い裁判所は教団の主張を退けました。
また、組織性に関しても、教団は否定しましたが、統一協会の場合ですら、霊感商法に関与したのは一般信徒であり、幹部ではありませんでしたが、教団では逮捕者が教会の代表役員・幹部たる牧師であり、逮捕後も反省せず反基地運動を継続、他教区が当該逮捕を「不当逮捕だ!」と声明を発するなど、組織的に反社会的活動を行っていたことが明らかであると裁判所は判示し教団の主張を退けました。
以上のことから、教団の事例は2026に行われた旧統一協会の解散の前例と比較しても悪質性、継続性、組織性がいずれも高く解散が相当であると東京地裁は判示しました。この判示は東京高裁でも覆らず、203X年、Nキリスト教団は宗教法人法第81条に基づき解散が決定しました。
以上近未来シミュレーションおわり
まとめ
このようなシミュレーションを「荒唐無稽」と一笑に付す人もいるでしょう。そうです。杞憂であればそれに越したことはありません。しかし私は、右派や左派の政治的イデオロギーを超えて、日本のキリスト教界が21世紀のハマンにならないよう、また、ニーメラーの警句を真剣に考えるがゆえに、信教の自由のため敢えて一石を投じます。すなわち、旧統一協会の宗教法人解散命令請求に反対します。
さらに言い換えれば、これまでの宗教法人解散の基準を曖昧にし、悪質性・組織性・継続性といった いかようにも解釈できる「フリーハンド」を国家に与えてはならないのです。これは、信教の自由に関わる重要な前例となるからです。
※サムネイルはポール・アレクサンダー・アルフレッド・リロイ作『ハマンとモルデカイ』