トップの絵画:堀江優 作「原罪 ーWhat is this thou hast doneー」
SALTY 論説委員 金井 望
『新潮45』の「休刊」
9月25日に新潮社は、10月号をもって雑誌『新潮45』を休刊とすることを、同社のウェブサイトなどで発表しました。それが、8月号に掲載された杉田水脈議員の寄稿文「『LGBT』支援の度が過ぎる」と、それを擁護する10月号の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」に対して、猛烈な批判が起こったためであることは、明白です。どちらもSNSで炎上を起こし、新潮社の新刊本の販売をやめると宣言する書店が現れ、新潮社の出版物の執筆をやめるという作家や翻訳家などが出てきました。9月25日には新潮社の社屋前で抗議のデモまで行われました。
1982年4月の『新潮45+』創刊以来36年も続いてきたこの総合雑誌が、このような圧力によって休刊(事実上の廃刊?)に追い込まれたのは、残念です。「これは言論の自由の危機だ」という声もあります。
『新潮45』は廃刊すべきか?—「差別するな」の合唱では前に進まない
聖書の普遍的な真理
キリスト者の中にも、杉田論文と10月号の記事について厳しい批判をする人たちと賛意を示す人たちとがいます。キリスト者にもいろいろな立場があり、いろいろな意見があるのは当然ですが、大切なことは、何を基準として考え、判断するかでしょう。
「聖書はすべて、神の霊的な導きによって書かれた神の言葉であり、信仰と生活の基準である」と我々福音主義に立つキリスト者は信じています(第二テモテ3:16)。
人を媒介して真理を啓示し、それを伝えさせ、記させ、正典の成立を導かれた神である主は、旧約聖書の時代も新約聖書の時代も教会の時代も変わることがない同一のお方です。それゆえ聖書のテクストはすべて、それぞれの時と場に固有のメッセージを持つと共に、時と場に限定されない普遍的なメッセージを持っています。聖書そのものが、そのように自己証言しており、我々はそれを信じます(マタイ5:17-18)。
それゆえ我々は、聖書のそれぞれのテクストが語られ伝えられた時代的・地理的・文化的・神学的なコンテクストを考慮しつつ、聖書のメッセージをできる限り正確に理解することに努め、現代におけるその適用を真剣に考えるのです。
使徒パウロからコリントの信徒たちへ
では、「同性愛行為は罪か?」という問題について、今回は新約聖書の「コリント人への第一の手紙」6章 9-10節 のテクストから考察してみようと思います。
■新改訳2017
あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。(第一コリント6:9-10)
第一コリント6:9 Greek-English Interlinear
「男娼となる者」と「男色をする者」とは、どのような人たちであったのか。このパウロの警告は、現代に生きる我々において、どのように適用すべきか。これが問題となります。
「コリント人への第一の手紙」は、使徒パウロが第3回宣教旅行の途中、紀元後55年の初め頃にエペソで執筆したものと考えられます(使徒行伝19章、第一コリント16章)。パウロは第2回宣教旅行の途中、50年の秋から52年の春までコリントに滞在して、宣教活動を行い、教会を形成しました。その後、その教会に分裂が起こり、また、信徒たちの行いが乱れていることを知らされて、パウロはこの手紙を書き送ったのです。
この書簡では porneia(あらゆる種類の不法な性交渉による不品行)という語が5回(5:1, 5:1, 6:13, 6:18, 7:2)、pornos(性的に不品行な者)という語が4回(5:9, 5:10, 5:11, 6:9)、porné(売春婦)という語が2回(6:15, 6:16)、porneúō(性的な不品行を行う)という語が3回(6:18, 10:8, 10:8)繰り返して出てきます。それはコリントの信徒たちに顕著な罪でした。
旧コリント市にあった女神アプロディーテーの神殿には神殿娼婦が1000人以上もいました。国際港湾都市として栄えた「コリント」は「淫蕩」の代名詞となっていました。
霊的な問題
このような文脈において第一コリント6:9-10の悪徳表が存在します。
パウロは「性的な不品行(淫らな行い)」と「偶像崇拝」を同一視しています(6:9, 6:18)。すなわち「性的な不品行」を社会的な倫理の問題としてよりも、霊的な問題として扱っているのです。
15 あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。
16 それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
17 しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。
18 不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。(第一コリント6:15-18)
第一コリント6:9の malakos(男娼の者)と arsenokoites(男色をする者)は、このような文脈で出てくる語であることに注意する必要があります。
malakos と arsenokoites
■ malakos(男娼の者)(6:9)
この単語は形容詞であり、「柔らかい、柔和な、柔弱な、女々しい」という意味ですが、第一コリント6:9においては「同性愛の受け身となる唾棄すべき柔弱な奴」という意味であり(『ギリシア語新約聖書釈義事典』参照)、「異常な猥褻行為のために自分の体を提供する少年や男子」を指しています(Thayer’s Greek Lexicon 参照)。
■ arsenokoites(男色をする者)(6:9)
この単語は「少年または男性と淫らな行為をする者」という意味です(『ギリシア語新約聖書釈義事典』参照)。arsen は「男性の、雄の」という意味であり、koite には「寝床、同衾、性交、肉欲、精液」といった意味があります(岩隈直著『新約ギリシャ語辞典』参照)。
レオン・モリスによれば、「男娼の者」と「男色をする者」は、男性の同性愛行為をされる側とする側を示している、と考えられます。
主要な和訳の聖書は皆 malakos(6:9)を「男娼」と訳し、arsenokoites(6:9)を「男色をする者」と訳しています。『大辞林』によれば、「男娼」の意味は「男色を売るもの。陰間(かげま)」とされ、「男色」の意味は「① 男の同性愛。鶏姦。衆道(しゆどう)。だんしょく。② 男色を売る若衆。かげま」とされます。
しかし、英訳の聖書ではいろいろな訳語が見られます。
◇ King James Bible
nor effeminate, nor abusers of themselves with mankind,
◇ American Standard Version
nor effeminate, nor abusers of themselves with mankind
◇ New American Standard Bible
nor effeminate, nor homosexuals,
◇ New International Version
nor men who have sex with men
◇ English Standard Version
nor men who practice homosexuals
◇ Christian Standard Bible
or males who have sex with males,
◇ Good News Translation
or homosexual perverts
◇ Contemporary English Version
or is a pervert or behaves like a homosexual
◇ Holman Christian Standard Bible
or anyone practicing homosexuality,
◇ NET Bible
passive homosexual partners, practicing homosexuals,
◇ New Living Translation
or are male prostitutes, or practice homosexuality,
◇ International Standard Version
male prostitutes, homosexuals,
◇ World English Bible
nor male prostitutes, nor homosexuals,
King James Bible 等で使用されている「effeminate」は「〈男・男の態度が〉男らしくない,めめしい、柔弱な」(研究社『新英和中辞典』)という意味ですから、malakos の訳語として適切です。
さらに、NET(New English Translation)Bible は第一コリント6:9 のコンテクストを考慮して、明確に「同性愛行為の受け身となるパートナーたち」と「同性愛行為の実行者たち」を示しています。
NET(New English Translation)Bible
passive homosexual partners, practicing homosexuals,
ゲイの人たちは前者を「ネコ」「ウケ」、後者を「タチ」「セメ」と呼ぶようです。ただし、男性の同性愛行為は肛門性交とは限らず、股間を使用する場合があるようです。
受け身の男性同性愛行為者と攻め手の男性同性愛行為者
主要な和訳の聖書は皆 malakos(6:9)を「男娼」と訳しており、英訳聖書でも NLT, ISV, WEB が「male prostitutes」(男娼)と訳しています。紀元後1世紀中葉のコリントではアポロン神殿に職業的な男娼がいました。しかし、パウロがこの書簡で警告している対象は、コリント教会の信徒たちです。この悪徳表に挙げられている他の罪はいずれも、職業的に定義付けられたものではありません。よって、この malakos は職業的な「男娼」に限らず、もっと広く「男性の同性愛行為者」を指している、と考えられます。
第一コリント6:9 の「男娼となる者、男色をする者」と和訳されてきた部分は、「受け身の男性同性愛行為者、攻め手の男性同性愛行為者」と訳す方が正確でしょう。
この第一コリント6:9-10 のテクストを見ても、やはり同性愛行為が「罪」であることは否定できないと思います。ただし、聖書が教える「罪」にはいくつかの意味があります。根本的には「罪」とは、神が造られた創造の秩序から人間が外れている状態です。次に「罪」とは、神の意志に背こうとする人間の性質です。第三に「罪」とは、神の意志に反して人間が行う悪しき言動です。
性同一性障害の方々にこれを適用することは、適切ではないでしょう。また、自らの意志に反して同性愛行為の被害にあった場合は、その当人が罪意識を感じたり、自分を責めたりする必要はありません。