「その時に備えて」に備えて(7)君主が異教徒…だからなんだってんだ?!後編-田口望

田口望
田口望

 

 

 

 

田口 望
大東キリストチャペル 教役者
大阪聖書学院 常勤講師
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 論説委員

被支配階級に置かれた聖書の民(新約)

新約聖書の時代、ローマ帝国の皇帝は被支配階級である少数派のキリスト教徒を300年間に渡って断続的に迫害し続けるのですが、その迫害下でも徹底してローマの統治権を認め、反政府運動などをせずに徹底して臣従したのです。ただし、皇帝が自らを神として崇めよ、と皇帝礼拝を強いてきた時にはそれは偶像礼拝にあたるので敢然と拒否しています。
その「臣従」がいかほどのものであったのか…下の絵画は有名な「ネロの松明」です。ローマ皇帝の暴君ネロは首都コーマの大改造を計画し、そのために旧市街を更地にしたいと考え、ローマ大火を自作自演し、キリスト教徒をスケープゴートにして放火犯にでっち上げました。キリスト教徒は何も悪いことをしていないのに逮捕され、火刑に処せられました。この絵は右端でキリスト教徒が松明代わりに燃やされようとしている絵です。キリスト教徒はここまで弾圧されても、犯罪を犯さず、納税をし、反政府活動をするわけでもなくローマ帝国に従い続けます。いやむしろ、ローマ帝政下で「弾圧されるのにどうしてクリスチャンはこのように高潔に生きれるのか?」それが逆に異教徒の心を打つようになったのでしょう。逆にキリスト教に改宗するものが増えていったのです。4世紀にキリスト教が公認宗教とされる頃には帝国の半分以上が既にキリスト教徒になっていたともいわれます。

ヘンリクシェミツラウキ「ネロの松明」
ヘンリクシェミツラウキ「ネロの松明」

 

信者が支配階級か被支配階級かで神の取り扱いは明確に違う

神が政治の在り方に避難し、信者に覚醒を促すとき、それは信者たちが支配階級にある時です。自分たちが支配階級にもかかわらず自らの意思で進んで異教の神に与する行動をとった時は族長時代でも、エジプトから脱出後も、士師の時代も、王国時代も神様はその民(ユダヤ教徒、イスラエル人)に対して厳しく指弾されています。

以上のことからわかる聖書の原則は、聖書の神を信じる民(ユダヤ教徒、キリスト教徒)が被支配階級・あるいは少数派で、異教徒、異国人が政権の座についているときは、その異教の王、異教の政府に「反抗しろ」とは聖書は教えていないのです。もちろん、皇帝崇拝など信仰の根幹部分に政府が介入してきた時は頑なに退けるべきですが、原則的には時の政権に従うようにと聖書は教えているのです。むしろ、異教徒が支配するように見えても聖書の神の摂理があると教えています。(クリスチャンでない方にわかるように砕いた言い方をすれば、「地上の支配者が誰であろうと、一喜一憂することなく、変らない天命というのは別にあるのだから、どーんと大船に乗った気持で構えていましょう」と教えているのです。)これは、聖書の一節を切り取って自分勝手な解釈をしているのではなくて、創世記から、新約聖書に至るまで首尾一貫したラインです。

聖書は民の信仰のあり方を非難したり、また預言者がこの世の王に神に立ち返るように促しているのは、例えば王国時代のように、もともと聖書の神を礼拝する神政国家であったのにも関わらず、自らが支配階級であったにもかかわらず、その地位を投げうって、異教の神に下るようなことをした時です。

日本はキリスト教徒は支配的なキリスト教国といえるだろうか?

翻って、以上のような聖書原則を今の私たちに適応する場合はどうでしょうか、99%が非キリスト教徒の国であり、民主主義国家であり、多数決の原則が支配する国です。国家が教会に対して、戦前の日本のように宮城遥拝や、神社参拝を強制し、キリスト者の信仰の在り方にまで介入してきた時は敢然と拒否すべきですが、そうでなければ、原則「上に立つ権威に従うべきです」(新約聖書ローマ書13:1)。今の日本福音同盟社会委員会のリーフレットにあるように政教分離原則を振り回して逆に、国家の有様に反対し、憲法に明記されている天皇制の在り方まで注文を付けることは聖書は求めていないのです。後述しますが、むしろ、そのような注文を付けることの方が、聖書の原則に反して罪となりうることさえあるのです。

繰り返しになりますが、当該冊子は、罪でないものを罪だと言い、政治的な問題を信仰の問題と強弁し、聖書が信者に強いてないものを強要したり、逆に罪な行為を罪でないと唆したりしている可能性を多分に含んでいます。

宮城遥拝・・・(戦前、国家神道による統制が強まったとき、イスラム教徒がメッカに向かってお祈りするように、日本国民にも皇居にむかって拝礼することを国民に強制した時期がありました。これを宮城遥拝という)