田口 望
大東キリストチャペル 教役者
大阪聖書学院 常勤講師
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 論説委員
福音主義でもなければ立憲主義でもない人たち
『「その時に備えて」に備えて』はこのシリーズ内で案内していた順番を変えて今回もっともクリティークなことを論述しようと思います。すべては私の遅筆に起因します。ご容赦くださいませ。
そもそも福音派、エヴァンジェリカルと呼ばれる人たちの思考回路
この冊子は日本福音同盟(JEA ジャパン・エヴァンジェリカル・アライアンス)の社会委員会の名義でだされています。日本福音同盟のHPをみますと団体の目的には『「聖書信仰」を育む』とかいています。読者の中にはキリスト教徒ではない方もいらっしゃるでしょうから、クリスチャンの中の福音派=エヴァンジェリカルという人たちがどういう人たちで、また彼らが信奉する「聖書信仰」とは何かというのを少し説明しておこうと思います。
そして、そのキリスト教徒のうちの福音派(エヴァンジェリカル)、と呼ばれるクリスチャンは単に2000年前のイエスの誕生、十字架による死、復活を信じるだけでなく、聖書に書かれていることをそのまま信じるのです。もっといえば現代社会の諸課題も聖書に基準を求めるのです。
一例をあげてご説明しましょう。例えば生活していくうえで個人的な生活習慣である「喫煙」という課題も福音派は聖書信仰によって判断しようとします。
その中である福音派のクリスチャンは、聖書は私たちに「たばこを吸っていけない」とは明示的に教えてないので許容されるという人もいるだろうし、またある福音派のクリスチャンは、聖書は私たちに「自殺・自傷行為を禁じている」ので喫煙は健康を害する行為であるから、喫煙はしないという人もいるでしょう。ある課題に対して福音派の中で別の結論が出ることがあるにせよ、福音派のクリスチャンは、「聖書信仰」というものをもち、「聖書は私たちになんと教えているか」を物事の判断をする第一の物差しにするのです。
クリスチャンではない方、また福音派ではないクリスチャンからみればそれは窮屈な生き方に見えるかもしれません。しかし、「親がうるさく言うから」、「法律で禁止しされているから」、「みんながしているから」、「かっこいいから」、「欲求に素直でいたいから」…物事を判断するときに現代人がいろいろな物差しを使い、結果右往左往するなかで、聖書という確固たる書物を人生の羅針盤として生きる生き方は、価値観が多様化するなかで魅力的でカッコいい生き方のひとつであるとオススメしたいと思います。
聖書信仰の人間が皇室にとるべき本来の態度
しかし、この冊子、そうはなっていないのです。だからこそ、この冊子をこのまま出版してしまった方たちの思考回路は福音主義、聖書信仰というものとは別のイデオロギーに取りつかれてしまっているように私には見受けられるのです。
実は聖書は「為政者のために祈れ」(新約聖書テモテ書)や「上に立つ権威に従え、その権威は神様由来のものです」(新約聖書ローマ書13章1節)等と書いています。フツーに読めば、聖書は天皇制を廃止して反政府活動をしろ等とは書いていないのです。順当に聖書を解釈するなら、
以上。ちゃんちゃん、でこの話はおわることなのです。それが素朴な聖書信仰なのです。
ところがこの冊子はもはや福音主義者のロジックではないのです。左翼界隈の人が喜ぶようにその解釈をねじまげ、天皇制廃止などという真逆の結論を導き出そうとします。これでは曲学阿世との非難はまぬかれません。
「日本国憲法下では制度上、天皇に政治的権威はありませんから、天皇はローマ書第十三章の《権威》に含まれていませんし、公権力が天皇に権威があるように振舞っても、それに惑わされることもありません。」(同書 P24)
といって、天皇はローマ書13章の例外だと言って、天皇制に逆らうように教唆するのです。
つまり、この人たちは、聖書を解釈し自らに当てはめるうえで、天皇が事実上の立憲君主であるということよりも、日本国憲法にもとづいて、天皇は君主でもないし、聖書の言う権威に当たらないとするのです。「聖書信仰」ではなくて「日本国憲法信仰」なのです。聖書が第一の物差しなのではなくて、日本国憲法を物差しにしてしまっています。
この冊子はもはや憲法至上主義のロジックですらない
「日本福音同盟社会委員会」仰々しい名前がついているものですから、かなり憲法にお詳しいのかと思って、滅多なことをいうものではないと自重しつつずーっと社会委員会がだす文書を読んできました。その結果、それほど憲法学に精通されているというのではなく、かなり偏った方から偏った知識を吹きこまれているのではなかろうかと拝察いたします。結局のところ、キリスト教界の誰からも目立った批判をされないのでしないので、裸の王様になってしまっているのです。
(ごめんなさい。これは決して私が憲法を精通しているなどと豪語するつもりで申しているのではありません。日本はクリスチャンが少ないし、福音派のクリスチャンとなるともっと少ないし、その中で憲法に通じた上で社会問題に対して提言できる人間など指折り数えられるほどしかいないかもしれません。さらには、立派な経歴の先生方が一度出された提言に対して、「違うな~」と感じて異なった見解を表明できる人間など、そもそも皆無に等しいのです。かくいう私もとんでもない解釈をこの場で披歴してしまっているのかもしれません。しかし、照顧する機会がないまま、祭り上げられてしまう・・・これは日本のキリスト教界の限界、選手層の圧倒的な薄さに起因する構造的な問題なのです。)
この「天皇は政治上の権威ではない」という論は戦後間もない時代の憲法学の大家、芦部信喜東京大学教授(1923年- 1999年)の一学説に依拠したものにすぎないのです。芦部説によれば、国家元首は何かしらの制限された行政権を持つものをさすと定義し、天皇は憲法4条で政治的権能を有さないとされており、国家元首(Head of state)には当たらないという学説です。
しかし、これは憲法学会で多数説であっても唯一絶対の定説ではないのです。外交儀礼上天皇は国家元首として扱われます。また諸外国の駐日大使は就任時に信任状を天皇に対して奉呈します。日本国政府が元首でもない天皇を元首のように扱っているのではなくて、日本以外の世界中の国が天皇を国家元首、headとして、権威あるものとして扱っているのです。
この芦部先生は今も憲法学の大家であることに間違いありませんが、自衛隊すら違憲とされていた前世紀の学者です。司法試験を受けるとき、憲法学の論述試験で別段芦部説を採用せずとも、「天皇の行為が儀礼的なものに限られても天皇を権威ある国家元首である」として論述しても、もちろん試験は合格します。
お判りいただけますか、この冊子は聖書信仰と言いながらローマ書13章に従って天皇の権威を認めるのが嫌なのです。そこで、聖書に逆らうロジックを求め、日本国憲法で天皇に政治的実権がないことが規定されていることを根拠に、天皇をローマ書13章の権威の外として扱うロジックを生み出しました。しかし、日本国憲法は天皇が元首であることを肯定も否定もしていないのです。そこでさらに日本国憲法の解釈に関する一学説にすぎない芦部説を引っ張り出して、「天皇は政治上の権威がないから」ローマ書13章の権威ではないといっているのです。
この冊子は、聖書信仰ではなくて芦部信仰ではないか?
この冊子はスウェーデン国教会にまでケンカを売っている
また、芦部先生がおられた時と今とは時代背景が違います。日本国憲法が施行された当時、世界には日本の天皇のように政治的実権がほとんど制限された君主をいただく国家など存在しなかったのです。ところが、日本国憲法施行後、諸外国では憲法が改正され、日本のように政治的実権を持たない立憲君主制の国が出てきました。
スウェーデンがその例です。スウェーデン国王は政治的権能を天皇のように有さないばかりか、日本の天皇は国会が首班指名した者を首相に任命する権能を持っていますが、スウェーデン国王はその形式的な首相任命権能すら持ち合わせていません。天皇以上に政治的権能を持ち合わせていないのに国家元首、国の権威とされています。
この冊子は芦部説すら否定する
たとえば芦部氏は憲法7条以外の天皇の公的行為(宮中晩さん会や行事で「おことば」をのべること等)を行うことが憲法上許されるか否か、また可能であるとした場合憲法上どこを根拠とすべきかといった問題を扱う際、憲法1条に天皇は象徴だから象徴として公的な行為をすることが許されると説いているのです。
国民主権と、象徴天皇制が矛盾しているなどというどころか、憲法1条を根拠に象徴としての役割を積極的に認めているのです。
恐ろしくありませんか?この冊子は聖書に私たちを従わせようとしません。日本国憲法にも芦部説にも従わせようとはしません。
この冊子の著者のあたまのなかに「ぼくのかんがえたさいきょうのけんぽう」「ぼくのかんがえたりそうのせいじ」があって、それに私たちを従わせようとするのです。善悪の判断基準を神ではなくて自分勝手に作る・・・これこそ聖書が教えているアダムの罪です。(※ 聖書は最初の人アダムが神様の掟を守らず、エデンの園の中央の木の実を食べることで堕落したと教える。ちなみにこの園の中央の木は実はヘブル語でトーブ、ラーの実、良い悪いの実で、ものごとのよしあしをいちいち神様にお伺いをたてず、自分で判断基準を作って自分勝手に決めてしまうという寓意が含まれる。)
この冊子の支配原則は
「聖書」
なのです。
はっきり言います。この冊子の主張はもはや、福音主義でもなければ、立憲主義でもありません。本来ならば配布された福音主義諸教会に対してその誤りを認め、回収しなければならないほどの代物と私は考えます。