2019年「世界軍人クリスチャンの会『東アジア大会』」で行った聖書講演
2019年(令和元年)8月30日
西岡力
(麗澤大学客員教授・東京基督教大学前教授)
・SALTY 主筆
主にあって愛する軍人クリスチャンの皆様に
私は軍人ではありません。しかし、悪と戦う第一線にいらっしゃるここにいる自由世界の軍人自衛官クリスチャンの皆様を心から尊敬しています。私は30年近く、海上自衛隊幹部学校で朝鮮問題を講義してきました。
ここで、一人の日本人クリスチャンとして日本の自衛官クリスチャンの皆様に謝罪いたします。日本の教会の中には自衛隊を否定する考えが広がっていて皆様方がこの日本で主に仕えるときに妨げになっているためです。本当に申し訳ないと心から謝罪します。
さて、今日、皆様のために準備してきた聖書のメッセージを語ります。
聖書をまず朗読します。
聖書ルカ10章38〜42節 と ヨハネ12章1〜3節です。
ルカ10章38〜42節
38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
ヨハネ12章1〜3節
1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
私が聖書で最も好きな人物はマルタです。
ルカ10章をみましょう。ベタニヤに住むマルタは旅の途中のイエスを自宅に向かえました。
38節で〈さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。〉とある通りマルタはイエスを「喜んで家にお迎えした」のです。
ところが40節で、喜びが去り「気が落ち着か」なくなってしまいます。
どうしてマルタの喜びは去ったのか。言い換えると38節と40節の間にマルタに何が起きたのか。
39節を見ましょう。
39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
マルタには妹マリアと弟ラザロがいました。当時の習慣では、ユダヤ教の教えを学ぶのは男でした。ですからラザロもイエスの話しを聞いていたかもしれませんが、それにはマルタは反応していないのです。しかし、妹マリアが「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ことによりマルタの心から喜びが奪われます。
40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
この描写は一流の文学者でもなかなかできない、人間の内面の動きをじつに鋭くとらえたものだと感嘆します。
マルタは、イエス一行のためにいろいろともてなそうとしていました。足を洗う水、食事、飲み物、寝床の準備、翌日の朝ご飯、もしかしたら、汚れている衣類を夜の間に洗ってあげようと考えたかもしれません。大忙しです。そのとき、もてなしをせずイエスの足下に座ったままの妹をみて、怒りが爆発したのです。
「妹が私だけにおもてなしをさせている」なぜ、自分だけがしなければならないのかという、他人との比較による怒りです。「私だけ」が何かをさせられている、このような被害者意識です。
「私だけ」が何かをさせられているという思いが深くなったマルタは、イエスのもとに来て文句を言いました。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。」
「何ともお思いにならないでしょうか」というマルタの言葉は、クリスチャンになった後の私の叫びと重なります。
なぜ、このようなことが起きるのかと叫びたくなることが私の人生にはしばしばありました。クリスチャンになってそのような悩みがなくなるかと思うと大きな誤解です。むしろ、クリスチャンなると視野が広がるのでそのような叫びをよりしばしばするようになるというのが私の実感です。
つづけてマルタはイエスに求めます。
「私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
「私だけが何かをさせられている」というマルタの思いの裏には、私が一生懸命もてなしをしていることを認めてほしいという思いが潜んでいます。神に、あるいは人に認められたいという思いはみな持っているのではないでしょうか。
マルタはイエスを迎えて喜んで、もてなしをはじめました。イエスはいまもマルタの家にいてもてなしを受けてくださっています。それなのに、マルタの心から喜びが去り、「私だけがさせられている」とのおもいにとらわれ、それが「何とも思わないのですか」というイエスへの不満につながり、ついにはイエスに「何々してください」と要求するまでに至ります。
そのときイエスは答えていわれました。
41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
イエス様はマルタの心、そして、愛の業に励むときの「私だけがなにかをさせられている」という被害意識から「何とも思わないのですか」という主への怒りの叫びが発せられ「何々してください」と主に何か要求するにいたる人間の心の動きをよくご存じです。
イエスはやさしく答えます。
「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」
これは、マルタにおもてなしを止めてマリアと一緒に自分の話しを聞けという意味だったでしょうか。そうではないと私は思うようになりました。
イエスは「私だけが」という他人と比べての被害意識がマルタの叫びの根っこにあることを指摘されたのです。
大切なことは一つだという意味は、喜んで始めたもてなしの業をそのまま喜んで続けなさいと言うことです。
人と比べる必要はない、すべてを知る必要はない、いま与えられている業に励みなさい、あなたのことは私が一番よく知っている、というイエスの言葉に私には聞こえます。
「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
というそれにつづくイエスの言葉の意味は、マリアは今彼女がなすべきことをしている、彼女にとってそれが最善だということです。
イエスがマルタに命じたのは、マリアに関わるな、マリアのことで心を騒がせるな、原点に戻ってイエスを迎えた喜びを回復しなさいということだったのです。マルタはそれがわかりました。
ヨハネ福音書12章1から3節
1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった、家は香油のかおりでいっぱいになった。
ここではマルタは黙って給仕しています。もう、イエスに文句を言ったりしません。妹がイエスに香油をぬって称賛されるのを見ても口を挟みません。妹には妹のなすべきことがある。私には私のなすべきことがある。
なすべきことは一人一人異なっている。そのことを不満に思ったり、自信をなくしてはならない。だれかが給仕をしなければイエス様の御業は完成しない。黙って給仕することも大切な仕事だということが分かったのです。
軍人として世に仕えている皆様にも「大切なことは一つだ、今目の前にある課題にしっかり取り組みなさい、あなたのことは私が一番知っている。」とイエス様は今日言っています。
マルタは給仕をしていた。 ヨハネ12章2節
黙って給仕できるそんなマルタを、そして皆様を私は大好きです。