*写真:『イーゼンハイム祭壇画(第1面)』グリューネヴァルト 作_Wikipedia より
三浦三千春
著述業
元・クリスチャン新聞大阪支局長
キリスト教はイエス・キリストを信じる
<寄稿文>
日本国内の世論が、他の多くの、自由な言論が許された諸国と同じく、大きく真っ二つに分断されているような感覚を私は抱いています。それは、「右」と「左」の対立というようにいわれますが、左右の両者が実のある対話を行い、共存して生きていかなければならないことと思います。
ことにキリスト教徒(クリスチャン)は見解を左右異(こと)にしていても、相互に深く信頼し、深く話し合える基盤を有していると思います。その共通の基盤は何なのか確認する論を提示したいと思います。実のある対話がさらに進むことを願いつつ……。
イエス・キリストの十字架によって救われる
言わずもがなのことを敢えて書きたい。
それは、キリスト教は、イエス・キリストを救い主として信じるものだということだ。
すなわち、イエス・キリストは十字架にかけられて殺され、それゆえに我々全人類と、全ての被造物の救いはすでに成し遂げられていることを、キリスト教徒は信じている。
それは、<キリストは……自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。>と聖書(ピリピ人への手紙2章6~11節)に記されている通りである。
偽「キリスト」の存在
なぜ今さらこれを書くかといえば、自らをキリスト教の信徒と規定しながら、イエスの十字架は救済計画の失敗であったと強く思い、その「イエスの十字架は失敗だった」という思考を基盤として、イエスのずっと後世の現在、この世界に現れた「第二のキリスト」の必然性を説き、実際ある具体的な人物――もちろんそれは、イエスとは全く別の人物である――をキリストであると粉飾し、この偽キリストのなしつつある「救いの御業」をでっち上げる人々がいるからである。
それはキリスト教ではない。キリスト教は、イエスを救い主(キリスト)として信じることを根幹とする。
「キリスト教徒」の詐称は許せない
にもかかわらず、イエスはキリストとして失敗したと思い込み、自分たちがでっち上げている別の偽キリストを信じているに過ぎないのに、「自分たちはキリスト教徒である」と公言しながら自分たちの活動を行うなら、それは根本的に嘘をついていると言わざるを得ない。
それは正にイエスご自身が、<偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。あなた方は、気をつけていなさい。>とおっしゃった通りだと思う(マルコの福音書13章22節)。
憲法上の自由と隣人への愛
日本においては、憲法によって信教の自由が保障されているし、誰が何を信じ、何を伝えようが構わない。
しかし、イエスが完全なキリストであることを信じる者にとって、そうではない別の「キリスト」が必要だと主張したり、そんな偽「キリスト」を信じている人々が、「自らはキリスト教徒(クリスチャン)である」あるいは「自分たちこそキリスト教徒である」と主張するのは許しがたいことになる。
人生の基盤を誤りの上に築いてはいけない
羊頭狗肉という言葉があるが、これは羊の肉だという触れ込みで売られているものが実は犬の肉であったという意味である。羊ではなく犬の肉を食ってしまったくらいのことなら大したことではないが、それこそ、自分の人生をかけて、また人生の基盤として信じる救い主(キリスト)が、実は偽物であったということがあれば、そこからくる害悪は計り知れない。そのことは論を待たない。
また私たちは、統一協会などにおける実例をもって、そのもたらす具体的・現実的害悪をも知っている。
私たちは、隣人に対する愛の表れとして、殊(こと)に道を求めている隣り人への愛の表れとして、人々がキリスト教の名において偽「キリスト」を信じるように引き込まれていくことを看過することはできない。そのことは機会を改めて指摘したい。
求道中の方と接して
さて、私が個人的に接している求道者(キリストを信じる道を求めている)の方で、日頃はさまざまな楽しい雑談(趣味の話やら仕事のことやら)をしながら私が伝道(プロテスタントの用語で、イエスがキリストであることを伝え、そのことを信じるように勧めること)している方がある時、ふと次のように言ったのである。
その方は、すでにクリスチャンであるお連れ合いと共に、毎週教会の礼拝に出席して牧師の説教を聞いているし、ご自分でも聖書を読んでおられる。
イエスの十字架は失敗?
その方が、マタイの福音書27章46節に書かれている<イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。>というみことばを指摘し、「それは結局、イエスが救い主として失敗したということですね」と質問をなさった。私は内心びっくりした。
彼は別段、そういう考え方を誰かから吹き込まれたり、またそういう考え方を指向してきたわけではない。しかし、自ら聖書を読む時に、おのずからそのように思われたのであった。
人間の理性では分からない
それを聞いたとき私は改めて、十字架にかけられて殺されてしまったイエスが、その死の故にキリストであられる、ということを信じ、自らの救い主であると心に受け入れることは、人間の理性によっては到底、あり得ないものであると痛感させられたのであった。
にも関わらず私たちは、イエスがキリストであることを何故だか信じている。そのことを自らの生きざまの基盤だと感じている人すら多い。コリント人への手紙第一1章18節に、<十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。>と記されている通りであって、改めて考えれば不思議なことだ。
聖霊はイエスを知らせる
同じく12章3節に<聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。>と記されている通り、聖霊がそのように信じさせてくださっていることと私は信じる。
イエスのみがキリストと信じていることがキリスト教徒の確かな交流の基盤
あるいは、たとえ十字架刑の惨たらしさの故に、イエスの十字架への想起を忌避したい人であっても、歴史の中に登場し十字架にかけられたそのイエス以外に、ほかの、あるいは代わりのキリストがいると思っているわけではないことを指摘しておきたい。
そのように、イエスがキリストであることを信じていることが、私たちキリスト教徒(クリスチャン)相互の深い交流の基盤であり、共に活動することの基盤であることを改めて確認し、この論の結びとしたい。
三浦三千春
(みっち~おじさん)似顔絵