・写真:雪の中の蕗の薹
バイブル・ソムリエ:亀井俊博
「西宮北口聖書集会」牧師
「芦屋福音教会」名誉牧師
「新型コロナ・ウイルス感染症の神学的考察(2)」
執筆:2021年1月13日
<第2回>
・4回の連載で掲載いたします。(SALTY編集部)
<第1回>より <—– クリック!
(C)教義神学的考察
これより本旨に入って、教義神学とコロナとの関係を考察します。教義神学にも多くの教義項目がありますが、特に創造論との関係を述べます。その前提の私独自の創造論を述べます。
万物の起源を論ずる神学が創造論であり、終わりを論ずるのが終末論です。万物の起源についての人間の考察は、①無起源・無終末を説く循環論(仏教、輪廻転生)があり、②起源を認める論には、“うむ、なる、つくる”の三つの立場があります(「歴史意識の古層」丸山真男)。“生む、成る”は神道、儒教的立場です。“造る”が三大一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)です。
創造論は特にキリスト教で発展し、近代科学を生み出す要因の一つになったと言われます(「近代科学の源流」伊藤俊太郎、「近代科学と聖俗革命」村上陽一郎)。正統的な創造論は既刊の神学書に譲り、現代の創造論を“生態論的創造論”とした神学者、J.モルトマンの立場で今回のコロナ問題に対応します(「創造における神」、J.モルトマン組織神学論叢 2 )。さらに構造主義神学的方法論として私の説く人称関係論的神学的観点からお話しします(拙著「まれびとイエスの神」、講話)。
(a)生態論的創造論
まず既存の創造論が、創造者なる神と被造物なる自然と人間を論じたどちらかと言うと静的な論ですが、「生態論的創造論」は、現代科学の生態学を取り入れた、人間を含めた自然(被造世界)をダイナミック(動的)なシステムと見るエコロジー(地球生態環境)観点に立つ現代的創造論です。そもそも聖書の創造物語(創世記1章)によると、創造の7日間の1~6日まで、創造者なる神は宇宙創造に始まる被造物・自然を瞬間ではなく、時間をかけていわば歴史的過程(自然誌、自然史)・プロセスとして創造・保持されたのです。その6日目の最後に頂点として、創造の冠なる人間を神ご自身の似像として創造され、これに地を治めさせたのです(創世記 1:26~28)。
現代科学の知見でも、宇宙は無始無終の定常性宇宙論は退けられ、ビッグ・バンに始まる138億年の宇宙史、46億年の太陽系史、地球史、さらに40億年の生命史、700万年の人類史を持つとされています。生態学ではこの地球の生命の進展を時間的に生命史と見るだけでなく、空間的に多様な生物(生物多様性)が相互補完的な動的システムを持つ生態系と見るのです。この観点で創造論を新たに展開するのが、「生態論的創造論」です。後にこの観点でコロナを論じます。なお、「生態論的創造論」は今後は「環境神学」の一環になると思われます、私も後日取り組む予定です。
(b)人称関係論的創造論
①創造の秩序
次に、私独自の「人称関係論的創造論」は、啓示による三位一体(父・子・聖霊の交わりによる原関係の神)の創造者なる神と被造物(神の似像たる人間を含めた自然)との関係、さらに被造物間の関係を取り扱う関係の神学です(キルケゴール、滝沢克己、M.ブーバー、ジャンケレヴィッチ、八木誠一)。「人称関係論的創造論」は従来の創造論における「創造の秩序」を、人称論によって脱構築した新たな構造主義神学による「創造の秩序」と言う事が出来ます。
さてM.ブーバーは有名な “始めに関係があった” という言葉で名著「我と汝」を始めています。さらにジャンケレヴィッチはこれを一人称関係(実存関係)、二人称関係(愛の関係)、三人称関係(社会関係)に分節しています(「死」ウラジミール・ジャンケレヴィッチ)。
全く独立して日本の新約学者八木誠一は新約聖書の神学を、神学A(共同体の神学、歴史(救済史)、規範(律法))、神学B(実存の神学、罪責、死)、神学C(愛の神学、我と汝)に類型化しました。また思想家 吉本隆明はマタイ福音書を研究し、人間を「自己幻想」、「対幻想」、「共同幻想」に生きる存在として「共同幻想論」を展開しました。ここにそれぞれユニークな神学思想が共時関係的に響きあう不思議を思います。
さらに私はこれに「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩篇 19:1)等、聖書の中に自然環境への豊かな信仰的洞察を取り上げているのを,「非人称関係」、「神学D=環境神学」,「自然環境幻想」として付け加えるものです。まさに創造者なる神は被造物をカオスではなく、ダイナミックな「創造の秩序、オーダー」において創造・保持しておられるのです。
②関係の関係
ここまでは、人間理性の内在的論理でも把握できますが、聖書は啓示の書として、これらの諸関係と創造者たる神との関係を原関係として論じているのです。キルケゴールが「自己とは関係であり、また関係が関係に関係する(神)ということである」(「死に至る病」)と述べた通りです。さらに厳密に創造者たる神と被造物(人間を含む自然)の関係を「不可逆、不可同、不可分離」の原関係と喝破したのが宗教哲学者西田幾多郎と神学者バルトの弟子、滝沢克己です。この原関係を“インマヌエルの原点”と述べています。梵我一如(ぼんがいちにょ)を説くインド思想を基とする仏教は折角、人間(我、アートマン)の仏(梵、ブラフマン)との区別関係に目覚めながら、結局 同一視(梵我一如)してしまった致命的欠陥があります。
また哲学者 梅原猛が現代エコロジー思想に通じるとして高く評価する、仏教の自然還元の極みである日本仏教の「天台本覚思想」=「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ).」は、人間の優位性を否定し生態系の一部である事を強調し、キリスト教の自然支配、自然破壊性を非難しますが、自然への人間独自の責任性(文化委託(ボンフェッファー)、スチュワードッシップ神学)を持ち合わせていないし、科学も成り立たないのです。
そもそも17世紀以来の近代科学はキリスト教起源であり、その後啓蒙思想により神を追放し人間中心の現代科学となり、これを近代科学の「聖俗革命」と呼ぶ(村上陽一郎)、自然破壊は啓蒙思想以後の現象であると、村上は自然科学史の検証で述べている(拙著「モダニテイ、上巻、近代科学とキリスト教」)。
創造者との関係を見失うと被造物は混迷と破滅の道を歩むのです。
③まとめ
以上を、現代的に総括表現します。
神の創造の業は、創造者たる神と被造物たる自然の間に厳然たる質的相違の聖なる一線(インマヌエルの原点関係)があり、しかもこれをプラットホームとして、非人称関係世界、人称関係世界が成立し、人称関係世界はさらに一人称、二人称、三人称関係世界に分節される。
ただ滝沢や八木が軽視し、福音派が聖書啓示に基づき重視するのが、これらの諸関係が人間の神への背反による罪により毀損(きそん)し、その関係回復の和解の業として、神の御子の贖罪がなされ、その結果人間と全被造物の原理的救済が実現し、終末に至って救済の完成が成就する、と言うのが宗教哲学と違う聖書の教説です(ローマ 8:18~23)。今回のテーマ、コロナもこの視点で考察します。
*次回以降の掲載予定は、以下のとおりです。
第3回:1/29
第4回: 1/31 (最終)
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亀井俊博(かめい としひろ)
1942年香川県に生まれる
単立「西宮北口聖書集会」牧師、「芦屋福音教会」名誉牧師
同志社大学法学部法律学科卒、日本UPC聖書学院卒
(同志社大学神学部、神戸改革派神学校、神戸ルーテル神学校聴講)
元「私立報徳学園」教師、元モンテッソーリ幼児教室「芦屋こどもの家」園長
元「近畿福音放送伝道協力会」副実行委員長、
*<亀井俊博牧師のブログ>
「西宮ブログ」の『バイブルソムリエ』
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・写真:雪の中のフキノトウ(撮影・Shinichi Igusa)