・写真:エリカクリスマスパレード
バイブル・ソムリエ:亀井俊博
「西宮北口聖書集会」牧師
「芦屋福音教会」名誉牧師
「新型コロナ・ウイルス感染症の神学的考察(3)」
執筆:2021年1月13日
<第3回>
・4回の連載で掲載いたします。(SALTY編集部)
<第2回>より <—– クリック!
(c)コロナの非人称関係論的神学考察
①前近代的思考、近代的思考
まず、コロナを(われーそれ)非人称関係論的神学の観点から考察します。生態系としての地球環境の一自然現象としてのコロナと人間との関係です。コロナは自然現象であり、人格はありませんので、非人称関係と言う事です。
前近代の時代では、疫病は疫病神・怨霊の仕業、仏罰、神罰(梅原猛の怨霊封じ思想、古神道、仏教)、治療は加持祈祷、祭礼でした。また中国では天地の気の乱れが体内に侵入し身心バランスを崩すのが病気であり、鍼灸、漢方薬による合理的治療が一部でなされたが、やはり悪霊の業への非合理的呪術(道教)が大勢であった。まさにM・ウエーバーの説く「呪術の花園」(「儒教とピューリタニズム」)であった。さらにはキリスト者でも神の裁きだとか、現代でも一部の人は想うでしょうが、そう言う前近代的、非科学的思考はユダヤ・キリスト教による「脱呪術化」的思考により形成された近代科学教育の洗礼を受けた現代人には、少なくとも意識的には通用しないでしょう。勿論一皮むけば前近代的思考が深層意識にあって、こういう危機の際頭をもたげ、お祓いや厄落とし、疫病退散の護摩焚き祈願に向かうのですが、精神的退行現象です。
ここでは、19世紀「近代細菌学の父」と言われる、R・コッホ(結核菌、コレラ菌)、L・パスツール(狂犬病菌、炭疽病菌)による細菌の発見、治療法としてのワクチン開発、公衆衛生学の普及等の、近代医学と言う非人称(われーそれ関係(M.ブーバー、人間と自然科学の対象としての自然との関係でコロナを論じる)関係を共通思考の前提で考察します。
②原罪の自然誌
この際、私は生態学者河合雅雄の著作、「原罪の自然誌」のポピュレーション理論(生物個体数調整機能)を導きにします。京都学派、今西錦司の生態学スクールの一員としてアフリカでゴリラ研究に取り組んだ河合は説く、生物生態学上の頂点に立った人類は、捕食者、天敵が無くなり異常増殖によって生態系を破壊する存在となった。そこで自然は、「同種殺戮」(戦争)、「病気」と言う2つのペナルテイを原罪として課し、人類の異常増殖を抑制する人口調整(ポピュレーション)機能とし、生態系の持続可能性を守ろうとしたと言う。
しかし今や人類は英知により、「戦争」を回避し、科学を手にして病気を克服しつつある、とも言う。しかし、現実の人類史はそう楽天的に進んではいない。生態学的原罪の一つ、「同種殺戮」戦争に関しても、米中対立は世界戦争の危機を孕んでいる。また格差は世界各地でテロ、内乱、暴力略奪、難民を生み出している。飢餓も昨年のノーベル平和賞がWFP(世界食糧計画)に授与されたように、食料の総量は人類を養うのに足りておりながら、今日の糧を得られない飢餓が蔓延している。私も20年来、飢餓支援活動に従事しましたが未解決です。その原因はアフリカで急速に勃発している部族間戦争の戦術として、敵対部族を飢餓に追い込んでいるからだと言う。戦争による飢餓は自然の問題ではなく全く人類の罪です。人類「終末時計」はさらに終末に向かって秒針を進めています。
生態学的原罪の二つ目、「病気」は医学の驚異的発展により、ペスト、はしか、コレラ、マラリヤ、結核、エボラ、サーズとあらゆる感染症を克服した人類は、さらに遺伝子操作の技術を手に入れ、パンデミック(地球的規模の感染爆発)に対処できるまでになった、と思った。しかし、今回の新型コロナ・ウイルスのしぶとい変異による医学への挑戦は侮れない。約1億人の感染者、200万人の死者が予想されている。しかも、人間の飽くなき欲望の拡大による自然開発は、エボラ出血熱(アフリカ)やSARS(中国南部)の様に今まで密林や、食用野生動物の中に生きていた未知のウイルスを人間の居住地域にもたらします。
さらに工業化進展による二酸化炭素排出増による気温上昇は、広大なシベリアの凍土に眠る未知のウイルスを解凍すると言う。今回のコロナ・ウイルスは対処できても、この後さらなる未知のウイルス発生によるパンデミックは益々増加する、との事。人間の欲望の達成は、疫病蔓延を必ず伴い、まさに生態学者、河合雅雄の説く生態学的原罪ではないでしょうか。
聖書では、自然環境と調和し、神との関係が豊かであった楽園から、アダム・エバは禁断の知恵の木の実を食べて、「神の様に賢くなろうと」(創世記 3: 5、 6)した結果、創造者なる神に裁かれ楽園を追放されたと、有名な創造物語にある。人類は失楽園の原罪以来、様々な現実罪を犯し続ける中にも、様々なユートピア(理想郷)を描いて地上に楽園回復を図ってきた。芸術文化、共産主義社会、宗教、そして今や科学技術を手に入れて、神の創造の秘密を解明し、自然を思うがままに操作し、人間の欲望を叶える地上の楽園実現を間近にしていると思っていた。しかし、それは結局人間を神にするバベル(混乱)の塔建設の企てと失敗の創造物語の繰り返しではないか(創世記 11章)。神の如くなろうとする傲慢を悔い改め、神の創造の秩序に服する謙虚を人間はここで学ぶべきではないか。これがコロナと非人称的関係の神学的考察です。
次に人称的関係考察に移ります。
(d)コロナの人称関係論的神学考察
まず、三人称的関係考察です。ジャンケレヴィッチは人間の三人称的関係の好例として、社会統計を取り上げます。
世界のコロナの現在感染者数1億人、死者数200万人等、毎日世界の国別に報告されます。一位米国、二位インド、三位ブラジル、・・。日本国内でも都道府県別の感染者数、重症者数、死者数がTVのテロップで流され、日々一喜一憂し、地元の数字が上がると恐怖心が襲います。しかし、それは「抽象的で無名の死」と彼が呼ぶ、あくまで顔の見えない数字であり、自分とは関係ないコロナです。
ところが、二人称関係になるとそうは参りません。職場や施設でクラスターが発生し、友人知人が感染した。家族が感染した。となると親しい、あるいは愛する人が苦しんでいる、これは統計上の数字の人間ではなく、掛け替えの無い人との苦悩を分かち合う、共感共苦の関係なのです。愛する人の死や後遺症の悩みは、自分自身のとっても計り知れない苦痛です。
さらに一人称関係とコロナとなれば、もうその切実感は言うまでもなく、自分が死の危機に遭遇する、人生最大の実存的危機です。まさに「人が全世界を儲けても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ 8:36)なのです。
(e)コロナの救済論的考察
①恩恵・救済論
勿論、そこには様々な救済策が備えられています。関係破綻には救済が必要なのです。さもないと絶望しかない事になります。キリスト教救済論も人間の罪による「創造の秩序」の破綻に対する神の恩恵として備えられた救済策です。改革派神学の恩恵論では、一般恩恵(究極以前の救済:ルター派神学者ボンフェッファー、 共通善:カソリック神学)と特別恩恵(究極的救済)が区別されます。自然と人間(信徒、非信徒に関係なく)共通の救済策が一般恩恵であり、キリストによる罪と死からの救済が特別恩恵です。まず一般恩恵論でコロナ禍からの救済策を論じます。
政府はよく自助、共助、公助を説きますが、以下、これを理解の助けとして採用します。
②一般恩恵による救済策
まず一人称的関係の救済策、自助です。手洗い、マスク着用、ソーシャル・デスタンス、三密を避けるが個人としてコロナ感染から我が身を守る自助救済策です。次に二人称的関係の救済策、共助です。もし誰かが感染すれば、家族や身近な関係者が、かかりつけ医に相談し、援助を惜しまないでしょう。愛の関係、共助の救済策です。最後に三人称的救済策、公助です。行政による救済で、以下これを述べます。
今回の新型コロナ感染症の政府行政の対策は、未経験の事とは言え余りに場当たりです。終息の暁には、厳密に対策の検証がなされ、今後に備えるべきでしょう。確かに欧米に比べ日本は、感染者数、死者数が少ないですが、それは一・二人称的対策、自助、共助が優れており、公助に問題があったと言わざるを得ません。なぜなら行政の責任者は、自助・共助の方策を訴える事が多く、公助について方針を述べる事少なかったからです。
失敗と言うべき欧米に比べアジア、特に中国、台湾、韓国、ベトナム、シンガポールはコロナ対策に成功しており、謙虚に学ぶべきでしょう。韓国のK防疫システム、DX先進国台湾のITによる対策はアフター・コロナの日本の対策に大きな示唆となります。さらにコロナ発祥地中国はいち早く強権的に制圧し,非人権的だと非難されますが、政府の方針は参考になります。「四早策」です。①早期発見、②早期隔離、③早期診断、④早期治療、です。日頃中国に批判的な中国ウオッチャーも高く評価しています。日本の三密は自助策です。しかし四早は公助策です。行政のメッセージは自助のお説教の前に、公助として何をするか明確な責任ある方針を出すべきです。日本の行政の無責任さが露呈したと思います。
勿論、医療と経済活動の兼ね合いを考えないと、コロナより生活困窮による自殺者や、企業倒産が増える。ここに行政は苦慮したと思いますが、結局まず命を救うため、初期に経済活動をエッセンシャル・ワーカー以外は停止しコロナを終息させた方が、後の経済活動再開に利する事が分かったのです。
③特別恩恵による救済
さて、人称関係の救済の最後に、どうしても聖書から聞かねばならないメッセージがあります。それは、自助も共助も公助も救済の手が決して及ばない、コロナによる個人の魂の“死”の恐怖からの救済であり、その背後に控える“罪”の問題です。これはもう神助以外には無いのです。キリストによる救済、特別恩恵(究極的救済)以外にないからです。
「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル 9:27)
「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ 6:23)
「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」(エペソ 2: 8)
以上の聖書の宣言を謙虚に聞くべきです。
*次回(最終回)の掲載予定は、以下のとおりです。
第4回: 1/31 (最終)
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亀井俊博(かめい としひろ)
1942年香川県に生まれる
単立「西宮北口聖書集会」牧師、「芦屋福音教会」名誉牧師
同志社大学法学部法律学科卒、日本UPC聖書学院卒
(同志社大学神学部、神戸改革派神学校、神戸ルーテル神学校聴講)
元「私立報徳学園」教師、元モンテッソーリ幼児教室「芦屋こどもの家」園長
元「近畿福音放送伝道協力会」副実行委員長、
*<亀井俊博牧師のブログ>
「西宮ブログ」の『バイブルソムリエ』
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・写真:エリカクリスマスパレード(撮影・Shinichi Igusa)