日本葬送宣教論 (1) 序論 -金井望‐

(トップの写真:頭ヶ島のキリシタン墓地)
出典:森栗茂一のコミュニティ・コミュニケーション

金井 望(カナイノゾム)
日本キリスト者オピニオンサイトSALTY 論説委員

序 論

 

日本は、なぜキリスト教徒がこれほど少ないのか

 これは多くの人が抱いてきた疑問であり、筆者の半生における最大の疑問であった。わが国においてキリスト教徒が全人口に占める割合は、およそ1パーセントしかない。これは、ここ半世紀ほど変わっていない。

 キリスト新聞社が発行する『キリスト教年鑑2017』によると、日本におけるキリスト教の信者数は次のとおりである(2016 年10 月現在)。

カトリック     436,505人
オーソドックス   10,197人
プロテスタント 580,122人
合計      1,026,824人

この統計によれば、日本の人口に占めるキリスト教徒の割合は0.82パーセントである。調査・統計の方法によって多少の違いはあるが、日本でキリスト教徒が極めて少数派であることは確かである。信教の自由が認められている先進国で、キリスト教徒がこれほど少数である国は他に無い。

 米国の調査機関ピュー・リサーチ・センターの統計によると、2010年における世界の宗教人口とその全人口に占める割合は次のとおりであった。

キリスト教 約21億7千万人(31.4%)
イスラム教 約16億人   (23.2%)
無宗教   約11億3千万人(16.4%)
ヒンズー教 約10億3千万人(15.0%)
仏教徒   約 4億9千万人 (7.1%)
民俗宗教  約 4億人    (5.9%)
他宗教      約6千万人(1%未満)
ユダヤ教     約1千万人(1%未満)

 2000年前にキリスト教がユダヤ教から分離独立して以来、キリスト教は人種、民族、国家、階級等の違いを超える普遍性を持った世界宗教である。今や世界人口の3分の1はキリスト教徒である。東アジアにおいても韓国は約29パーセント、香港は約14パーセント、台湾は約6パーセント、共産党が支配する中国でさえ5パーセント以上もキリスト教徒がいる。それなのに、社会主義国でもイスラム教国でもない、信教の自由が保障されている日本の人々が、なぜキリスト教徒にならないのだろうか。これには数多の事情が関係しており、原因は単純ではないが、神道仏教の存在はとりわけ重要な要因である。

 日本人は古代から現代に至るまで豊かな宗教性を保持してきた。『宗教年鑑 平成28年版』によると、平成27(2015)年12月31日現在、日本の宗教人口は次のようになっている。

神道系     89,526,176人
仏教系     88,719,287人
キリスト教系   1,928,079人
諸教       8,718,964人
合計      188,892,506人

 日本の総人口は平成28年1月1日現在(概算値)で1億2682万人である。日本の宗教人口は総人口より約6,207万人も多い。およそ1.5倍である。これは、伝統的な日本の家庭においては、神社の氏子であり仏教寺院の檀家でもあるというケースが、典型的となっているからである。その場合、地縁共同体である「」(集落)の宗教は氏神を祀る神社神道であり、血縁共同体である「」の宗教は檀那寺の仏教宗派である。1億9千万人という宗教人口は、氏子や檀家として登録されている世帯の人数を合算したものであって、日常的に宗教活動を行っている人の数ではない。

 日本の仏教は1500年にわたる長い歴史を持っている。しかし、血縁によって固定化された檀家制度は、それほど古いものではない。1635年に江戸幕府は諸藩に「五人組」の結成と一般領民の寺請を命じた。キリシタン禁教政策として、日本中のすべての家に仏教寺院の檀家となるよう強制したのである。檀那寺(菩提寺)は宗旨人別帳を作り、寺請証文(宗旨手形)を発行して、その家が檀家であること、すなわちキリシタンではないことを証明した。仏壇の無い家は邪宗門として告発すべし、と定められた。民衆は近隣ごとに五戸前後を一組として五人組を組織させられた。組からキリシタンが一人でも出たら、その組全員が連座制で処刑される。こうして、キリシタンにならぬよう相互に監視し合う習性が、日本の民衆に植え付けられたのである。日本のキリスト教宣教には数多の障壁があるけれど、歴史的に最大の障壁となったのは、この寺請制度(檀家制度、寺壇制度)である。

 筆者の父親の実家は新潟・直江津で代々、浄土真宗大谷派の寺院の信徒であった。その自宅は、親鸞が船で上陸した浜の近くにあった。戦後間もなく父と伯母と祖母がクリスチャンとなり、檀家をやめた。家督を継いだ伯父が、寺から返された金井家の過去帳を筆者に見せてくれたことがある。その伯父は若い頃には熱心なキリスト教の求道者だったが、結局、キリスト者とならず、葬式をその菩提寺で行った。金井家の過去帳を寺院に戻し、両者の関係は元に戻ってしまった。日本で伝道・牧会をしていると、このような問題にしばしば直面する。

 ところが近年、少子高齢化、人口減少、核家族化、血縁共同体と地縁共同体の弱体化等によって、寺壇制度が崩壊しつつある。いわゆる「葬式仏教」が崩壊して、葬式における仏教離れが起きており、「寺院消滅」の時代になったと言われている。これは、キリスト教宣教には大きなチャンスである。

(参照:鵜飼 秀徳 著『寺院消滅』

鵜飼 秀徳 著『寺院消滅』

 今や我が国は超高齢社会多死時代である。2017(平成29)年には出生数が94万1000人であったのに対して、死亡数が134万4000人もあり、40万3000人の人口減となっている。 今後も増加傾向は続き、2039年には死亡数が約167万名とピークを迎えることが予測されている。
著しい少子高齢化のために労働力が不足しており、高齢者が高齢者の介護をする「老老介護」や、認知症患者が認知症患者を介護する「認認介護」が、深刻な問題となっている。また、独居老人が増加しており、最近は誰も看取る人がいない「孤独死」が珍しくない。身元不明の「無縁死」も増加している。これが「無縁社会」の現実である。

 葬りにおいては、通夜や告別式等の宗教儀式無しで病院等から斎場(火葬場)に直行する「直葬」が増加している。各種の調査に拠ると、2017年現在で直葬(火葬式)の割合は全国で約2割、東京や大阪など大都市圏では4分の1を占めている。果たしてそのような葬り方で、人は納得ができるものだろうか。人間の尊厳は保たれるのであろうか。人口増加が続いた横浜市では斎場が不足していて、火葬まで一週間も待たされることがある。直葬でさえ簡単にはできないのが実情である。

 死者儀礼は人類社会において普遍的なものである。〈仲間の遺体を生ごみのように捨てることをルールとしている社会は、存在しない。かならずしかるべき儀礼によって死者を丁重に葬るのである〉(田中真砂子著「祖先祭祀と家・親族」『宗教人類学(宗教文化を解読する)』新曜社、1994年、pp.59-60引用)。 キリスト教は普遍性を有する世界宗教であり、死の問題についても確かな教理と信仰と実践がある。

キリスト教による葬送儀礼は、日本人の宗教性とキリスト教の接触点となり、日本宣教の突破口となるのではないだろうか」。

これが、この論文において筆者が考究する仮説である。これには次の仮説が伴う。

これまで日本人がキリスト教徒にならなかったのは、本来キリスト教によって与えられるべき恩恵が、疑似的また部分的にであれ、仏教、とりわけ浄土教によって供給されており、ある程度、人々の心がそれによって満たされていたからではないだろうか」。

浄土教の疑似的な福音は、日本人がキリスト教の本物の福音を理解して受容するために、準備をしてきたのではないだろうか」。

 この論文では、以上のような仮説を社会的・歴史的・神学的に考察し、検証したい。まず第1章で、今、日本の葬送に起こっている変化について考察する。次に第2章で、日本人にとって葬りとは、どのような意味を持つものであったのか、日本の葬送の宗教性について歴史的に考察する。続いて第3章で、日本の浄土教に「特別恩恵」に近い教えと実践があるのはなぜか、これを歴史的また神学的に考察する。そして第4章では、葬送儀礼による宣教について、具体的な事例をあげて考察したい。

【次回】日本葬送宣教論 (2) 大きく変わる日本の葬送