北の「交渉術」披露した平壌宣言 −西岡 力−

産経ニュース報じる
*著者の意向により産経新聞『正論』投稿記事(原稿)より転載。

 

西岡 力
「救う会」:北朝鮮に拉致された日本人を救出する全国協議会 会長
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 主筆

【正論】北の「交渉術」披露した平壌宣言

2018.9.24 11:00
モラロジー研究所教授・麗澤大学客員教授・西岡力

歓声に応える韓国の文在寅大統領(左)と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長=19日(平壌写真共同取材団・共同)
<写真>
https://www.sankei.com/column/photos/180924/clm1809240006-p1.html

 「餅をくれるはずのやつはそんな考えはないのにキムチの汁から飲んでいる」— 韓国のことわざで、拙速に自分の都合のいいように事態を考える愚かさを意味している。韓国の文在寅大統領と北朝鮮の独裁者、金正恩朝鮮労働党委員長が署名した「9月平壌共同宣言」を読んでそれを想起した。

韓国国防の決定的な損失に

 文在寅大統領はただキムチの汁を飲んで餅、つまり核廃棄を待っているだけでなく、膨大なお土産を持参してきた愚かな客といえるのではないか。共同宣言の第1項は核廃棄ではなく軍事演習の中止約束であり、第2項は経済支援だ。この2つは本来なら完全な核廃棄が実現した後になされるべきものだが、まだ実質的に何も進んでいない現段階で約束してしまった。

 共同宣言の第1項の危険性について触れておこう。第1項とその付属文書である合意書では、空中、海上、陸上での軍事演習が大幅に制限された。軍事境界線から南北に10~40キロ以内の飛行禁止区域を設定し、この区域では空中偵察活動を禁止した。

日本海と西黄海において北方限界線(NLL)を挟んで80キロ以内の海域を緩衝地域に設定し、砲兵・艦砲射撃と海上機動訓練を中止した。11月から軍事境界線一帯で各種軍事演習を中止した。空中偵察の禁止はソウルを射程に入れる長距離砲、ロケット砲が密集している前線地域に対する監視能力を著しく低下させる。韓国の国防にとって決定的な損失だ。

 また、金正恩氏が今年になり対話路線に入った大きな理由の一つである、米軍による軍事圧力をも低下させかねない危険な合意だ。米軍は昨年、B1B戦略爆撃機を20回朝鮮半島周辺に送って演習をした。特に昨年9月23日にはNLLを越えて北朝鮮の地方都市、元山の沖で演習を行った。金正恩氏がこれに肝を冷やしたことが対話路線転換への大きな理由だった。飛行禁止区域設定により米軍機の演習も影響を受けるとすれば、金正恩氏は大笑いしているだろう。

核兵器量産体制は維持される

 核問題は末尾近くの第5項だったが、その中身は完全な非核化の第一歩として米国が求めている核兵器と核製造施設の申告ではなく、ミサイルエンジン実験場廃棄約束の実行と寧辺の核施設の廃棄意思の表明だけだった。

 エンジン実験場廃棄はすでに6月の米朝首脳会談で金正恩氏が約束したものだったから、3カ月たってそれを実行すると言っただけだ。寧辺の核施設廃棄は新しい提案だ。そこにはプルトニウムを生産するための5000キロワット級の黒鉛原子炉と使用済み燃料再処理施設と、濃縮ウランを生産するための施設がある。ただし、後者は国際社会に見せるためのダミーで、実際に濃縮ウランを生産している施設は他の場所に複数存在する。そのうち1つは7月に米国で報道された平壌近郊の「降仙(カンソン)」だ。

 濃縮ウラン生産施設は地下にあると想定されていたが、降仙は大きな製鉄所の敷地に隣接して地上に造られていた。米国情報機関は衛星情報だけでなく、人的情報を使ってその建物の中でウラン濃縮が行われていることを把握し、それを米朝首脳会談の直後に専門家や報道機関にリークした。こちらは核関連施設について、確実な情報を多数持っているのだというメッセージを送ったのだ。

 現在、北朝鮮が量産している核兵器はプルトニウム爆弾ではなく濃縮ウラン爆弾だから、寧辺の施設が廃棄されても北朝鮮の核兵器量産体制はそのまま維持される。その意味で今回の提案は実質的な進展とはみなしにくいし、その提案でさえ「米国が相応の措置を取れば」という条件がついている。核兵器量産体制には手を付けずに先に米国から取れるものを取るという北朝鮮の伝統的な交渉術だ。

白頭山で感慨にふけったのか

 文在寅大統領は平壌に行く前には、金正恩氏に対して未来の核だけでなく現在の核についても廃棄する行動をとるように説得すると語っていた。つまり、核兵器生産施設や実験場の廃棄だけではなく、現在持っている核ミサイルを廃棄する作業も行わせるということだった。そのためには保有核ミサイルの申告が絶対に必要だが、共同宣言にも記者会見での金正恩氏の発言にもその部分に関する言及がなかった。文在寅大統領は説得に失敗したのだ。

 あるいはすでに共同宣言の内容が事前に準備されていて、現在の核については言及しないという合意が南北でできていたのかもしれない。なぜなら、文在寅大統領は3日間の平壌訪問のうち2日目であっさり共同宣言に合意してしまい、3日目は白頭山への観光旅行に出かけたからだ。

 白頭山は北朝鮮では革命の聖地とされ、世襲独裁者の家系を「白頭山血統」と呼んでいる。昨年12月には金正恩氏が白頭山を訪れ「国家核武力完成の歴史的大業を立派に実現してきた激動の日々を感慨深く回想し」たとされている。今回、金正恩氏は文在寅大統領と白頭山に登り、何を「感慨深く回想し」たのだろうか。

(モラロジー研究所教授・麗澤大学客員教授 西岡 力 にしおか  つとむ)