『キリシタン史からのメッセージ』
高槻・Ucon:第28回
高槻・Ucon:第28回
━ 久保田 Ucon 典彦 ━
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
【 日本語 は むずかしい! 】
● 1549年8月15日に、フランシスコ ・ ザビエルは、祈り ・ 願っていた 日本の地に やってきたのでしたが、
日本に来るまでの 2年間の 準備の間、日本に関する 情報を集め、日本語についても、少しは 習得しようとしたはずです。
しかし、言葉を語って、キリスト教のことを 伝えていこうとしている宣教師にとって、言葉の問題は、一番大きな課題でした。
「 今、私たちは、日本人の前に、あたかも 木像のように 立っているに過ぎません。
日本人が、すこぶる 熱心に 私たちのことを、話し合っているのがわかるのですが、言葉を理解することが出来ないので、しょせん、私たちは、沈黙している ほかはないのです。
何とぞ、我らの 主なる神が、主のことを話すために、私たちに 言葉をくださらんことを、せつに 祈ります。
そうすれば、私たちは、神の助けと 恵みとの もとにあって、間もなく、有効に 働くことが 出来るでしょう。」
● いっしょに、日本 ・ 鹿児島に帰って来た パウロ弥次郎は、
「 親族と言わず ・ 友人と言わず、誰でも心から歓迎して、昼も 夜も、熱心に 信仰の話をしている。今では、早くも、彼の母と 妻と 娘とを始め、彼の親戚や 友人の中から、男も 女も、多数の キリスト者が 出来てしまった。
この国では、ほとんど全部の者が、読み書きを知っているので、祈りを覚えることも、実に早い。
もし 私たちが、日本語に堪能であったら、 すでに 多くのことが 成就していることであろう。」
● 弥次郎は、当然のことですが、日本語で 熱心に 信仰のことを話していきますので、多数の キリスト者が “ 出来てしまった ”。
どんどん 信徒が誕生していくのを、ただ、感謝しながら 見ているだけですから、早く “ 日本語に堪能 ” になりたい。自分の口で 語っていきたい。
━━ と 思ったことでしょう。
若かった フェルナンデス修道士 は、日本語の修得が早く、 ザビエルの 通訳の働きをしていくほどになりましたが、
ザビエルは、この時 43歳 ( 1506年生まれ )。
「 もし 私たちが、日本語に堪能であるならば、多数の者が、キリストへの 聖なる信仰を持つようになることは、絶対に、疑いを入れない。」
━━ と、繰り返し 記しているのですが、
なかなか、日本語を習得 ・ 上達していくことは、むずかしかったようです。
● この当時の 日本語事情を 考えてみますと、
話し言葉は、すべて 方言です。
現代でこそ、学校教育や ラジオ ・ テレビなどの普及で、 標準語で話され、全国 どこででも 通じますが、
この当時は、各地方の言葉で それぞれが話をすれば、薩摩弁 ・ 豊後弁 ・ 平戸弁 ・ 長崎弁 ・・・・・・・
所 変われば、互いに、何を言っているのか わからないほどです。
日本語であっても、通訳がいるほどでした。
一方、書き言葉 には 方言はありませんから、大事な事柄は 文書にして伝えましたが、その代わり、読み書きの力が 必要になってきます。
日本語は、本来、話すだけでしたら、
多くの外国語のように、 “ 必ず 主語 ・ 述語が 必要である ” とか “ 単語に 男性形 ・ 女性形 がある ” といった 複雑さは ありませんので、比較的、容易に 話せるようになる ようです。
反対に、読み ・ 書き は、なかなか 複雑になりますが ・・・・・。
● ザビエル達が聞いた 日本語は、
弥次郎達が話す 薩摩弁 だったでしょうから、たとえ 習得しても、通じるのは 薩摩領内だけで、 平戸へ行けば、又、チンプンカンプン の日本語になるわけですから、
“ 日本語は むずかしい! ” ということになるのだろうと 思います。
ですから、セミナリオ などで学習する 日本語は、「 平家物語 」 や 「 太平記 」 などを テキストとした、“ 読み書きの 日本語 ” 習得が 中心になっていったようです。
[ 参考図書 ] 「 聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 」
(上巻・下巻) ( 岩波文庫 )
(上巻・下巻) ( 岩波文庫 )
ーーーーーーーー
久保田 Ucon 典彦
阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰
ホームページ:
[髙山右近研究室・久保田へようこそ]
ブログ: [ 髙山右近研究室のブログ ]
「髙山右近研究」をライフワークにしています。
髙山右近やキリシタン達を通して、いっしょに考えていければと思います。