虚像と実像 −久保田典彦−

『キリシタン史からのメッセージ』
 高槻・Ucon:第29回 

 

 

━ 久保田 Ucon 典彦 ━

阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰

虚像と実像

● 私たちの 主イエス・キリストにも、髙山右近にも、当時の、残された画像があるわけではありません。

 イエス・キリストの場合は、「 聖書 」 があります。また 歴史史料を補助として、“ 私のキリスト像 ” を心に描いていくことになります。
“ これが正解 ” というものが ないわけですから、百人百様 の キリスト像になります。
絵画 ・ 彫刻 ・ 小説 ・ 映画 ・ ドラマ ・ 音楽 ・・・・・ いろいろな形で表現された キリスト像を見て、共鳴し・感動してきました。
それぞれが、真摯に、精一杯の キリスト像を描き ・ 演じ ・ 表現しています。
それぞれに対して、私の琴線に触れるものには、私も共鳴していくことになります。

 髙山右近 の場合も、まったく同じ状況ですが、
作者が 一つの作品として提示する ということは、実像 そのものではありませんから、 虚像を提示することになってしまいます。
そして、提示された虚像は、まじめなものであればあるほど、かなりの影響力をもって、見る私たちの中に 定着していってしまいます。

イエス・キリスト と言えば?
髙山右近 と言えば?
━━ すぐ、私たちの心に 思い浮かんでくる画像があります。
絵画や 彫刻、映画や ドラマ、小説などに 描かれたもの達です。
それが、スタートとなっています。

● でも、実像ではなく 虚像なのですから、ない方がいいのでしょうか?

 それが 実像ではないことはわかっていますが、実像に迫るべく、真摯に追求された虚像達であり、そうした真摯な虚像が 多ければ多いほど、その総和としての実像を 心に描く・イメージする、大切な助けとなってくれています。
イエス・キリストも、髙山右近も、当時の画像が残されなかったことは、むしろ、感謝なことだと 言えるかもしれません。

百人が百人、千人が千人、真摯に イエス・キリストや 髙山右近と向き合い、それぞれが、
“ 私のイエス・キリスト ”  “ 私の髙山右近 ” を、大切に、心を込めて 描いていくことになります。

出来るだけ 実像に迫っていくためには、
「 聖書 」 や、歴史史料を よく読み ・ 学び ・ 体験し、
“ キリストに倣いて ”  “ 髙山右近に倣いて ” 一歩一歩 歩んでいく姿勢が、大事にされていくことになります。
実像に、少しずつ 少しずつ 近づいていくために、
“ 日々、キリストと共に ”  “ 日々、右近と共に ”
━━ 歩んでいくことは、 “ 幸いなるかな!” ですよネ。

 くれぐれも、自分の心に描く 「キリスト像 ・ 右近像 」 を大切にするために、それを絶対化してしまって、自分の思いとは違うからといって、他の人の 心に描く像を否定してしまうようなことが、ありませんように。
それぞれの人の、それぞれ大切な 「 イエス・キリスト像 」 「 髙山右近像 」。

● いつの日か、私たちが 天国 ・ 天のパライゾ に行った時に、

 実像の 主イエス・キリスト /  実像の 髙山右近 さんとお会いすることが出来ます!
その時を 楽しみに!!

 

※添付の 「 祈る髙山右近 」 は、水戸成幸・画
( 髙山右近研究室・久保田 蔵 )

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久保田 Ucon 典彦

阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰

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「髙山右近研究」をライフワークにしています。
髙山右近やキリシタン達を通して、いっしょに考えていければと思います。