・写真:朝日新聞の慰安婦報道を批判する論文を収録した私の最初の単行本。(1992-8/1)
西岡力
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 主筆
救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)会長
モラロジー研究所教授・麗澤大学客員教授
被害者もウソをつく、私の体験的「慰安婦問題」(その1)−西岡 力−
●研究・社会活動と信仰は不可分
研究と社会的活動は道徳、あるいはその根源にある信仰抜きには成り立たない。私は、人間はこの世に生まれてきた以上、自分の命を犠牲にしても実現すべき価値、善が存在するという立場に立っている。その信念にもとづき、これまでの研究と実践を行ってきた。言い換えるとその信念があるからこそ、これまで研究と実践を行うことができた。
私は昭和52年(1977)に初めて韓国に留学して以来、40年以上、韓国・北朝鮮研究を続けてきた。韓国人に会うと「私は親韓派ではなく愛韓派だ」と自己紹介している。ただし、相手を尊敬しているならば、紛争が起きたら率直にこちら側の言い分を主張して論争するはずだ。
相手を対等と思っていない場合に、先に謝ってつかみガネを渡しその場を取り繕う。話が通じない相手だと考えているから、言うべきことを言わない、言えないのだ。私はそのような関係を対等ではない、差別、蔑視の関係と考えている。1980年代以降の日韓関係は、まさにそうだった。
しかし、絶対的善があるという立場に立つなら、そのようなその場しのぎの関係は許してはならないものだ。
●私の覚悟
平成4年(1992)はじめ、朝日新聞がウソの証言を前面に押し出して、日本国が戦前、数十万人の朝鮮女性を国家総動員法に基づく国策として連行して性奴隷として戦場で酷使した、という慰安婦キャンペーンを始めた。
私は、名乗り出た元慰安婦の女性が、朝日が書いたような強制連行ではなく貧困の結果、親にキーセンとして売られて慰安婦になったという事実を知り、それを月刊雑誌に書いた。そのとき雑誌編集長から「西岡さんと私が人非人と言われることを覚悟してでもこのことを世に知らせよう」と言われたことを覚えている。
先に謝ることは簡単だった。宮沢喜一首相は平成5年1月、韓国大統領に8回謝罪した。しかし、そのとき我が国政府は慰安婦強制連行があったかなかったかについて、調査をしていなかった。調べもしないで先に謝った。これは相手を対等と見ていない態度だ。差別、蔑視だった。
慰安婦問題に関する私の言論は韓国にも伝わり、「極右」「歴史修正主義者」「差別主義者」などと言うレッテルを貼られ、ソウルでの国際会議に反対派が押しかけ私の予定されていた発表が中止になるという事態もあった。しかし、多数の韓国人の友人らは、「慰安婦に関する考え方には同意ができないが、西岡教授は韓国の貴重な友人だ」として、真摯な討論の伴う友情を維持してきた。
それから20年以上経った平成26年(2014)、朝日新聞は慰安婦問題に関する誤報を認めて謝罪した。令和元年(2019)7月には、李栄薫・ソウル大学前教授らが「慰安婦は軍が管理した公娼であって性奴隷ではない」という研究成果を、『反日種族主義』という単行本にして出版した。同書は韓国で10万部以上、日本で40万部以上が売れるベストセラーになった。
●真実と異なる「特ダネ」記事
平成4年(1992)に私が最初に慰安婦問題について論陣を張り始めたときのことを書きたい。朝日新聞は、前年平成3年8月11日に韓国で最初に名乗り出た元慰安婦の金学順氏の存在を、韓国メデイアを含む全世界のメデイアより先に伝える「特ダネ」記事を掲載した。その記事は次のように書かれていた。
〈日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取りを始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと聞き始めた〉(下線は西岡)。
下線部分に注目してほしい。これを読むと、「女子挺身隊」という国家総動員法に基づく公的制度によって戦場に連行された元慰安婦が名乗り出た、としか読めない。ところが、彼女は韓国で行った同年8月24日の最初の記者会見でも同年12月に日本の裁判所に提出した訴状でも、慰安婦になった経緯について、公権力のよる連行ではなく、貧困の結果、母親にキーセンとして売られ、買った養父によって中国にある日本軍慰安所に連れられていったと語っていた。
●『文藝春秋』にて真実を告発
訴状のその部分を紹介しよう。
〈原告金学順は、一九二二年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚がいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守や手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、「そこに行けば金儲けができる」と説得され、(略)養父に連れられて中国に渡った。(略)何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが「北支」「カッカ県」「鉄壁鎭」であることしかわからなかった。(略)養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられて鍵をかけられた〉
彼女が訪日して裁判を提起した平成3年12月から翌4年1月、宮沢喜一首相が訪韓して盧泰愚大統領に8回も謝罪した頃、朝日はもちろん、ほとんどの日本メデイアが慰安婦は女子挺身隊という公的制度によって強制連行された被害者であり、日本国に責任があると報じていた。その結果、一時期、日本中が元慰安婦らへの同情と旧日本軍への怒りで満ちた。
そのころ、私は8月11日の問題記事を書いた朝日の植村隆記者が韓国の遺族会の幹部の娘と結婚しているということを、ソウルまで行ってその幹部に面会して確認した。私はその調査の結果をもとに、金学順さんは貧困の結果、慰安婦になったのであって、公権力によって強制連行されたのではない、あたかも強制連行があったかのように書いた朝日記者は裁判を起こした韓国遺族会の幹部の義理の息子だ、という論文を書いた。慰安婦問題に関して朝日などが進めていた日本糾弾キャンペーンに異議を呈した最初の論文だった。
●告発には大変な勇気が必要だった
それが、月刊『文藝春秋』平成4年(1992)4月号に書いた「『慰安婦問題』とは何だったのか」という論文だった。そこで、私は慰安婦問題に対する朝日新聞のねつ造記事を告発した。朝日の植村隆記者が平成3年(1991)8月に、元慰安婦金学順さんについて書いた記事について、①本人は貧困の結果、母親にキーセンとして売られ慰安婦になったと繰り返し話していたのにその真実を書かず、②本人が一度も語っていない「女子挺身隊の名で戦場に連行された」とウソを書き、③記者の妻が日本政府を相手に裁判を起こした遺族会の幹部の娘であり、結果として紙面で自分の家族の裁判を有利にするウソを書いた、と批判した。
そのときはまだ、日本全体が権力による慰安婦強制連行があったと信じていたので、以上のようなことを書くには大変な勇気が必要だった。当時の月刊『文藝春秋』の編集長が私に「西岡さんと私が日本中から人非人だと言われてもやりましょう」と言われて、事実関係の徹底した調査を行ったことを思い出す。
●道徳上の謝罪は自称被害者の主張にするものではない
まず考えたことは、道行く少女を日本軍が暴力的に連行して性の慰み者にしたことが事実なら、人道に対する罪だから公式謝罪と補償が必要だが、当時、合法だった公娼制度の枠の中で親の借金を返すために慰安婦になったのなら、同情はするが公式謝罪や補償の対象ではないという原則だった。
そして、謝罪について深く考えさせられた。目の前に被害者を自称する者と、それを応援する自称良心的な支援者が現れたとする。私の場合は、慰安婦だった韓国人女性と朝日新聞記者や弁護士らが目の前にいた。被害者を自称する者と良心的だと自称する支援者らの主張をそのまま信じて謝罪することが正しいのかという問いだ。
私は法律上の謝罪はある意味強要されるのだから真の謝罪ではない、道徳上の謝罪、自身が道徳上の罪を認めて行う謝罪こそが真実の謝罪だと考える。そして、道徳上の謝罪は自称被害者、弱者にするものではなく、いいかえると彼や彼女たちの主張に対してするのではない。ただ、自分が道徳的罪を犯したと自覚したとき自発的に心の底からわいて出てくるものだ。
そこで突き当たるのが自称良心的支援者はもちろん、自称被害者もウソをつくただの人間に過ぎないという真理だ。聖書に「あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい」(レビ記19章15節)という言葉がある。正しい裁きは弱い者を偏ってかばわない、という教えだ。
●反日運動の道具とされた元慰安婦
私は文藝春秋論文で自称良心的支援者がウソをついて日本中をだましていると告発した。雑誌が出た直後、現代史学者の泰郁彦先生から電話をいただいた。先生は、私の論文を読んで自分もこれから本格的に慰安婦問題研究に取り組むことにした、名乗り出た元慰安婦は権力による強制連行の被害者ではなかったことが分かったので、自分は近く軍と一緒に済州島で強占連行を自分が行ったと証言している吉田清治について調べるため済州島に現地調査に行く、と話された。そして、西岡論文を読んだ後、金学順さんの裁判を起こした高木健一弁護士に電話したら彼も西岡論文を読んでいて、「もう少し説得力のある慰安婦はいないのか」と泰先生が問いただすと「実は私もそう思って韓国に探しに行ってきた。追加分は良いのばかりですよ」と答えたと教えて下さった。
私はそのやりとりを聞いて高木弁護士の偽善者ぶりに強く腹がたった。金学順さんの人権を本当に考えているなら、彼女が名乗り出たときに詳しく慰安婦になった経緯を聞き、あなたは貧困による被害者であって権力による強制連行の被害者ではないから裁判原告にはふさわしくないと説得すべきだったのだ。ところが、反日運動の道具としか被害者を考えていないから彼女を前面に出し、その結果、私が親に売られたという彼女にしたらあまり触れてほしくない経歴を論文に書くことになった。そうしたら、彼女をかばわず、使い捨てにしたのだ。
●経歴を暴かれ、失った説得力
私は月刊『文藝春秋』平成4年(1992)4月号論文で、最初に名乗り出た元慰安婦の金学順さんについて、『朝日新聞』が書いたような「女子挺身隊として戦場に連行され」慰安婦にさせられた被害者ではなく、親が前借金をしたことによって慰安婦になった貧困による被害者だと書いた。その論文は関係者の間で静かに、しかし、強い衝撃を与えた。高木弁護士ら運動家らは金学順さんを「説得力がない」として表舞台にあまり出さなくなった。それに対して金学順さんは不満だったようだ。
一つのハプニングがあった。時間が経つので詳細は思い出せないが、たしか、このようなことだった。北朝鮮出身の元慰安婦が初めて日本に来て反日集会が開かれ、金さんは客席に座っていたが、呼ばれもしないのに勝手に舞台に上がって、他の韓国人慰安婦を押しのけて北朝鮮慰安婦と抱き合い、カメラのフラッシュを浴びるということがあった。
また、『文藝春秋』に論文を書いた直後に、韓国の太平洋戦争遺族会の幹部が訪日し、支援者を通じて私に面会を求めてきた。殴られるのかなとも思ったが、都内の喫茶店でお会いしたところ、「先生の論文は素晴らしい。これはみな事実です。金学順はキーセンであって強制連行の被害者ではありません。私は数日前、彼女に会っておまえはキーセンだから引っ込んでいろと怒鳴ってやりました。慰安婦の強制連行はありません。徴用で強制連行された私が言うのだから間違いありません」と語り、持参した『文藝春秋』に私のサインがほしいというのだ。
●付け加えられた経歴
韓国では平成4年(1992)1月の宮沢喜一総理の訪韓の頃から、慰安婦問題への関心が急に高まり、名乗り出る人が増えた。そのころ、ソウル大学の安秉直教授が、反日運動団体の挺対協(挺身隊問題対策協議会)と共同で名乗り出た元慰安婦について学術的な聞き取り調査を行った。その調査結果の証言集が平成5年(1993)2月に韓国で出版された。私はその本をすぐ入手した。まだ日本語版は出ていなかった。
まず、金学順さんの聞き取りを読んで、驚いた。訴状に書いていない新しい経歴が付け加わっていたからだ。本コラムの2回目に引用したように、彼女は平成3年(1991)12月に日本政府を相手に戦後補償を求める裁判を起こした。そのときの訴状で自身の経歴について、「金泰元という人の養女となり、14歳からキーセン学校に3年間通ったが、1939年、17歳(数え)の春、「そこに行けば金儲けができる」と説得され、(略)養父に連れられて中国に渡った。(略)何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが「北支」「カッカ県」「鉄壁鎭」(の日本軍慰安所だった)」と書いていた。
ところが、証言集では、養父に連れられて中国に行ったという部分まではほぼ訴状と同じだったが、北京で降りたことになっていて、そこで日本軍によって強制連行されたとして、こう話していた。
「北京に到着してある食堂で昼食をとり出てくる時、日本の軍人が養父を呼び止めました。数名いた中で階級章に星二つをつけた将校が、養父に『お前たちは朝鮮人だろう』と聞きます。養父は私たちは中国に稼ぎに来た朝鮮人だと話しました。すると将校は、金儲けなら自分の国ですればいいのになぜ中国に来たと言いながら『スパイだろう? こっちへ来い』と言って養父を連れて行きました。
姉さんと私は別の軍人たちに連行されました。路地一つを過ぎると無蓋のトラックが一台止まっていました。それには軍人たちが40人から50人ぐらい乗っていました。私たちはそのトラックに乗れと言うので乗らないと言いましたが、両側からさっさとかつぎ上げられて乗せられてしまいました」(韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編『強制で連れて行かれた朝鮮人軍慰安婦たちの証言集Ⅰ』韓国語・図書出版ハンウル93年2月、なお、日本語版があるが翻訳に難点が多いのでここでは原版を西岡が翻訳した)。
被害者もウソをつく。私は少し大げさに言うと魂を揺さぶられる思いがした。私が『文藝春秋』論文を書いたから金さんは経歴を加えたのだ。
このことを発見した私は、テレビの深夜討論や月刊誌、単行本でそのことを明らかにした。貧乏の結果、親に売られて慰安婦となり戦場で日本兵士に売春をし、日本人弁護士らに利用されてあたかも強制連行の被害者だったかのようにふるまって日本政府を糾弾し、その結果、私にその隠した方が良い経歴を暴かれた。強制連行でないと脚光を浴びないと考えて、突然、訴状にも書かなかった北京での強制連行経歴を付け加え、また、その矛盾を私に指摘された。
単純な同情では正しい判断を下せない。正しく生きることは容易ではない。
●誰のためになったのか? 金学順さんを巡る慰安婦扇動行為
初めて韓国で名乗り出た元慰安婦、金学順さんについて書いてきた。彼女は強制連行の被害者ではなく、貧困による被害者だった。貧困の結果、母親がキーセン検番主人に前借金してその返済のため主人に連れられて中国にある日本軍慰安所で働かされたのだ。
朝日新聞などが彼女を「女子挺身隊として連行された被害者」だとウソの記事を書き、日本人弁護士と反日運動家らが彼女を原告にして日本政府を訴える裁判を起こし、日本各地で彼女の講演会を開いて、日本と日本人の名誉をおとしめた。彼女が名乗り出た直後から私はそのウソに対して事実を一つ一つ指摘して反論してきた。
しかし、日韓の反日運動家らは私の反論をあたかも何事もないかのように無視し、金学順さんを偶像化していった。金さんは平成9年(1997)に亡くなった。彼女の胸像が、ナヌムの家と称する金さんら元慰安婦が集団生活をし、訪れる日韓の若者らにウソを交えた証言を伝える施設の中庭に立てられた。
彼女が亡くなった後、「初めて名乗り出た勇気ある元慰安婦」という彼女への称賛は次第に高まっていった。平成12年(2000)に東京で開かれた「アジア女性法廷」と称する反日茶番劇(法廷と称しながら弁護士がおらず、一方的に昭和天皇を慰安婦強制連行やレイプなどの責任者として「有罪」とした)でも、最初の証言者として名前が出た。
平成24年(2012)、第11回「旧日本軍による性奴隷制問題の解決に向けたアジア連帯会議」の決議で、彼女が最初に記者らに会見したとされる8月14日が「慰安婦メモリアルデー」になった。そして、なんと平成30年(2018)には韓国文在寅政権が同日を国家記念日に指定した。
平成26年(2014)、朝日新聞が自社の慰安婦報道を検証し、吉田清治証言については記事を取り消し謝罪した。しかし、金学順さん報道については、最初は、ねつ造はなかったと開き直り、私をはじめとする多くの専門家に反論されて、女子挺身隊で連行された事実はないと小さく訂正を出した。しかし、謝罪はなかった。
平成29年(2017)、米国にも彼女の銅像が立った。中国系団体によってサンフランシスコ市の市立公園に立てられた慰安婦像は、韓国、中国、フィリピンの少女の像を、金学順さんの銅像が見つめているという構図になっている。最初に名乗り出た勇気ある証言者として中国系団体からも称えられたのだ。
ウソも百回続けると本当になる、という全体主義の宣伝扇動術が金学順さんを巡る慰安婦扇動でも通ってしまった。金学順さんは神さまが嫌う偶像にされていった。その結果、どれだけ多くの日本人が韓国に失望し、どれだけ多くの韓国人が日本を憎んだのか。それを喜んでいる政治勢力は誰なのか。絶望的な思いを拭えなかった。
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・『朝日新聞「日本人への大罪」』2018年2/19 発行/悟空出版
・『コリア・タブーを解く』1997年 2/1 発行/亜紀書房