【寄稿】第3回「反日」とは何か?−中道平太−

中道 平太
 ・ 日本同盟基督教団の信徒
 ・ 関西在住

シリーズ寄稿、「反日」とは何かの最終回です。

 第1回では、辞書的意味について調べました。その結果、「反日」とは「(韓国・中国の主張に則って)日本に悪意や反感を持つこと」という定義が見えてきました。
 第2回では、言及的意味について調べました。その結果、国内の背反行為のことも反日であるという解釈が妥当だったとしても、キリスト教信仰によって国会議員が偽証したり公務員が隠蔽をしたりする事例がないため、「キリスト教界の」という文脈においては共通認識による特定性が生まれず、言及的意味が成立しないことが分かりました。
 最終回となる第3回では、包含関係について考えていきます。包含関係とは数学の概念で、ある集合が他の集合の部分集合であるとき、二つの集合の間に成り立つ関係のことです。「反日」という言葉のイメージと実体がどのような関係性にあるのかを話していきます。

 日本国家に対する嫌悪感をA、日本に対する愛国心をB、韓国・中国の主張に則って嫌悪感を持つことをC、国内の背反行為をDとしていきます。AとBは両立するでしょうか。

 神と人、夫と妻といった関係に置き換えて考えていきます。人が神を愛することと神に対する嫌悪感が存在することが両立するとき、または夫(妻)が妻(夫)を愛することと嫌悪感を持つことが両立するとき、いずれも嫌悪感の対象が神や夫(妻)という人格だった場合には成立しません。人格に対する嫌悪感と愛は両立できないからです。これが成立するならば、嫌悪感の対象は主義・主張や行為であることになってきます。

 したがって、日本国家を人格の意味で用いたときの反日という語句がAである場合にAとBは両立しないことが分かると思います。ここでは、AにはCが含まれてもDが含まれないことは明白です。AとBが両立しないとき、嫌悪感の対象は国家という人格であって行為ではないからです。Dが明らかに行為であるのに対して、Cの対象は国家という人格ではなく行為に限定されるという主張はできません。Cに基づく活動として、国旗や国歌に対する反発感情が含まれているからです。さらに、未来永劫に渡って日本人は国家として謝罪を続けなければならないという要求も含まれてもおり、これは人格に対する尊重があれば出てこない感情です。

 AとBが両立する場合、Dも反日に含まれるという主張は反論として成立するでしょうか。AとBが両立する場合は日本国家という語句の実体は主義・主張や行為であることが明白であり、Dも反日に含まれるという主張は必要ありません。
 さらに、国内の背反行為も反日であるという主張の背景では、「反日」の「日」は人格的性格を持つという価値観を認めていることになります。その人格が内包するものに自分が含まれていなければ反発心が生まれず、反発心がなければ反論する必要もありません。

 表題に掲げた言葉の定義だけを問うのであれば、辞書的意味と言及的意味の検証だけでも言語学の立場からは十分でしたが、イメージと実体の関係性からも考えてみることで「反日」という言葉の持つ意味が明らかになってきたのではないでしょうか。

 以上を踏まえて、「言葉の定義は変遷する」「文脈から外れた解釈は用例として不適当」という前提の理解が進んだところで、問題としてきた用語の定義と妥当性について述べていくと、「キリスト教界の反日化」という文脈における反日という用語は韓国・中国の主張に同調して嫌悪感に基づいて反対する心象のことであるという定義は明白であり、国会議員の偽証や公務員の隠蔽工作という国内の背反行為はこの文脈において反日という語句に含まれない、という結論が見えてくるのではないかと思います。

 日本のキリスト教界の一致を阻むのは、キリスト教界の反日化について警鐘を鳴らす者でしょうか。

 それとも、「反日」という言葉の明白な定義に口を挟んで対話のテーブルにつこうとしない者が分断を見て見ないふりをしているのでしょうか。