【寄稿】第2回「反日」とは何か?−中道平太−

中道 平太
 ・ 日本同盟基督教団の信徒
 ・ 関西在住

前回は、「反日」という言葉の辞書的意味について調べました。その結果、「反日」とは「(韓国・中国の主張に則って)日本に悪意や反感を持つこと」という定義が見えてきました。

 しかしながら、言葉の意味は辞書的意味だけによって捉えられているものではなく、文脈によっては言及的意味(“聖書を解釈するということ” 2020, 南野浩則)についても考えていかなければなりません。言及的意味とは、文脈の中で特定の対象について用いられるときに語句が持つ意味のことです。聖書の解釈において「◯◯という意味も持つ」という主張を挟むことは聖書が伝えたい意図を不明確にするため、文章の持つ価値を変えてしまうことになります。

 さて、辞書的意味で歴史的に使われてきた(韓国・中国の主張に則って)という部分を抜きにして「反」と「日」という漢字の足し算から連想される行為として「国内の背反行為も日本に反するものだから反日だ」という主張も妥当な解釈としてたしかに成り得ます。この解釈が正当なものであれば、辞書に用例として登録されていることが求められますが辞書的意味としては存在していないのが現状のようです。しかしそれでは、この解釈を短絡的に否定して終わってしまうので、この解釈が妥当なものとして成り得ることを前提にした上で「キリスト教界の反日化」という文脈において「反日とは国内の背反行為も指す」という言及的意味が成立するのかを検討していこうと思います。そうすることで、(韓国・中国の主張に則って)という但し書きを暗黙の了解として反日という語句を用いることの是非についての結論としていけそうです。

 そのためには、「キリスト教の信仰的な理由によって国会議員の偽証や公務員の隠蔽が行われたことがある」という事例がなければ、「こういう意味もあってこういう事例もあるから日本キリスト教界の特定傾向を表す表現として反日という語句を用いるべきではない」という主張が成立しません。言及的意味は、話者の間に存在する共通認識によって特定性が成立するからです。
 たとえば、(韓国・中国の主張に則って)という但し書きがある方の事例としては、枚挙にいとまがないほど出てきます。大日本帝国の戦争責任について侵略を受けた韓国・中国の立場に賛同して反省や謝罪を促すキリスト教会における集会を見聞きしたことがない人はいないでしょう。こういった集会に共通して見られるのは、日本国家に対する嫌悪感と悔い改めの要求です。そういった集会が「日本を愛する動機に基づくから反日行為とは呼べない」という反論については、意味を持ちません。なぜなら、「日本を愛する動機に基づいて国家代務者の行動に改善を要求する行為は反日ではない」という主張が成立するためには、「反日という語句の定義は、日本国家に対する嫌悪感である」と認めなくてはならないため、発言者にパラドックスが生じてくるからです。

 これに対して、韓国・中国の主張に則っとらない反日行為、すなわち国内における背反行為がキリスト教の信仰と結びついたケースの事例は聞いたことがありません。したがって、国内の背反行為のことも反日であるという解釈が妥当だったとしても、「キリスト教界の」という文脈においては共通認識による特定性が生まれず、言及的意味が成立しないことになります。
 続く第3回では、包含関係について考えていきます。包含関係とは数学の概念で、ある集合が他の集合の部分集合であるとき、二つの集合の間に成り立つ関係のことです。「反日」という言葉のイメージと実体がどのような関係性にあるのかを話していきます。