最後のマエストロ達(1) −亀井俊博−

 

 

 

 

バイブル・ソムリエ:亀井俊博

「西宮北口聖書集会」牧師
「芦屋福音教会」名誉牧師

「最後のマエストロ達」(第1回)

2021・6・16

(A)巨人の背中の小人

  “われわれは巨人の肩に乗った小人のようなものだ。当の巨人よりも遠くを見わたせるのは、われわれの目がいいからでも、体が大きいからでもない。大きな体のうえに乗っているからだ。”これは1676年ニュートンがライバルのロバート・フックに宛てた手紙の有名な一文です。実はこの言葉はニュートンの独創ではなく、中世12世紀フランスのキリスト教スコラ哲学・神学者シャルトルのベルナルドウスの言葉とされています。

 世の中は大多数が平凡な人間ですが、中には天才的な人物が現れ、世界を変えることがあります。そのような思想的巨人のお陰で人類は英知を得ることが出来ます。その英知を教育という形で次代は受け継ぎ、人類の遺産として活用します。ですから、われわれはニュートンやアインシュタインのような天才ではありませんが、彼らの苦闘の結果得た最先端英知を日常に生かして生活しています。

平凡なわれわれも思想的巨人の肩に乗って高いステージの生活と、さらに遠くへの見通しを得る事ができるのです。そう言う意味で思想的巨人に感謝です。もっとも人間の業績は完璧なものはなく、必ず光と影があります。アインシュタインは核エネルギーを人類にもたらしましたが、その結果核兵器が生まれ、ノーベルはダイナマイトを発明し土木建設に貢献しましたが、高性能火薬兵器も生み出しました。巨人の正負の遺産かもしれません。もっとも巨人の責任だけでなく、その英知を悪用した、背中に乗った小人にも大いに問題があり遺産継承の責任が問われます。

(B)「最後のマエストロ達」の思想

 さて、思想的巨人(以後は巨匠、マエストロと記します。マエストロ指揮者・フルトウエングラー、カラヤン、ベーム、小沢・・、主に芸術家への敬称ですが、最近はその道の専門家、大家をも指します)、偉大な思想家を神や教祖の様に心酔しがちですが、もう少し相対化し人類の幸せに仕えるツール化、の必要があると思います。マエストロ思想家・相対化の視座が、福音派神学です。勿論、最終的には全ての神学も相対的であり、神のみ永遠、絶対です。SDG(神にのみ栄光あれ!)

 とは言っても、マエストロ達も一挙に偉大な発見や発明に至った訳ではなく、苦闘して到達した成果を、晩年に至って惜しげもなく捨て、全く別の結論に至った例も多いのです。思想の最終的大転換、転回があったのです。これを「最後のマエストロ達」の思想と呼びたいと思います。

 私は福音書の最後のメシヤ受難思想を、拙著まれびとイエスの神のイエス・キリスト論で「最後のイエス」として、史的イエスか信仰のキリストかと言う新約神学最大の謎解明の方法論として採用しました。これは戦後思想のマエストロ吉本隆明の「最後の親鸞」に触発されたものです。親鸞(1173~1262)は89才まで研究を続けた「教行信証」と言う畢生の浄土宗教学と言う知の偉業を惜しげなく捨て、「歎異抄」に描かれた最晩年は弥陀の本願力への信一筋に大転回し、最後の思想を賭けたのです。これを見抜いた吉本の眼力に敬服します。

 これから4名の「最後のマエストロ達」の思想的到達点のエッセンスを取り上げます。もちろん普遍的法則を求める自然科学と異なり、歴史的個性重視の人文・社会科学では誰を思想的マエストロとするかは、評価する立場によって大きく違います。以下は私の全くの独断と偏見によるものですが、御一読後少しは納得いただければ幸いです。

  以下概略を列挙します。

(a)哲学のマエストロ、ハイデッガーの前期「存在論」から最後の思想「ピュシス論」への大転回。

(b)同じく哲学的マエストロ、ヴィットゲンシュタインの前期「認識論の帰結としての現代的無神論」から最後の思想「神認識」への大転回。

(c)政治学のマエストロ、丸山眞男の日本政治思想史の「福沢諭吉論」から最後の思想「正統論」への大転回。

(d)最後に経済学から現代世界の危機を警告する時の人、斎藤幸平「人新世の『資本論』」から、経済学のマエストロ、マルクスの前期「成長論」から最後の思想「脱成長論」への大転回を論じます。

 前二者は哲学の根源的課題、後二者は社会機能の根源的課題の最後の思想への大転回と言う事になります。

 実は各マエストロの思想は従来の定説が、隠れた資料発見と言う最新の研究によりそれぞれ最後の思想が大転回していたことが分かったのです。その醍醐味も味わってください。そして各マエストロの最後の思想を、前記拙著「最後のイエス」論と対比し結論としたいと思います。なお、引用文献はその都度記しています。

(a)最後のM.ハイデッガー

 (1)最後のハイデッガー思想

 まず、哲学のマエストロ、マルチン・ハイデッガー(1889~1976)です。彼が20世紀最大の思想家であることに、賛否は別にして異論はないと思います。ただ、ナチスへの加担への反省をせず問題視されますが、デカルト、カントに始まる近代哲学が認識論に傾く中、王道の存在論を実存論的アプローチで探求した未完の主著「存在と時間」は余りにも有名です。しかし彼はその後この主著を完成できず苦闘、やがてニーチェに学び転回。すなわち古代ギリシャのソクラテス、プラトン、アリストテレスに起源を持つヨーロッパ哲学史の行き詰まり、それは同時にヨーロッパ文明の危機である。その元凶こそギリシャ哲学の「存在論」にあるとし、哲学以前のギリシャ自然哲学者、タレスやアナクシマンドロスの思想・ピュシス(自然ϕυσιϛ)に還帰、彼の最後の思想は“存在からピュシス”へと大転回を遂げたのです。これは彼のいわゆる「黒ノート」発見による研究によって近年解明されたことです(「ハイデッガーの思想」木田元、「ハイデッガーの超政治」轟孝夫)。

 彼の最後の思想を再説すると、古代ギリシャに発するヨーロッパ哲学、科学が余りにも人間中心の主体性思想であり、自然(自然科学の自然ではなく、ありのままの自然ピュシス)を無視したため、自我意識の肥大による精神の病、科学の発展による核危機、遺伝子操作の不安、経済優先の環境破壊危機等、人類は今日の世界的危機に陥っている。人類は人間理性主体の古代ギリシャ哲学以前の人間・自然・神々を包含したピュシス“自然哲学”に立ち返るべきである、と言うものです。

 彼が前期の主著「存在と時間」に取り上げた、古代ギリシャ哲学の「存在論」は「存在」を本質存在と現実存在(実存)に分節し、さらに後継のヨーロッパ古代・中世キリスト教スコラ哲学ではイデア、神「本質存在」重視にポイントがあった。さらに、近代に至って「現実存在」重視にポイントが転回し、以後人間主体実存とデカルトのコギト発見に始まる理性的人間による自然破壊的科学技術偏重による現代の危機に至った。だからこの危機を脱するために、「存在論」重視の哲学以前の古代自然哲学、ピュシス(自然)への回帰が必要だと言う。これは現在のエコロジー思想の哲学的先駆けとして注目されます(私のブログ拙稿で「ハイデッガーの超政治」より、2021・7・7で詳述予定、参照下さい)。

 (2)日本の福岡伸一生物学への影響

 日本でもハイデッガーのピュシス論は、「動的平衡論」で有名な生物学者、福岡伸一(1959~)に、“ピュシスとロゴス論”として影響を与えています(「福岡伸一、西田哲学を読む、生命をめぐる思索の旅、動的平衡と絶対矛盾的自己同一」(池田善昭、福岡伸一)(私のブログ、バイブル・ソムリエの拙稿“生命論の現在”2021・6・30、参照)。福岡は現在のコロナ・ウイルス蔓延について「人間はロゴスの力によって全てをコントロールできると過信していますが、今回のコロナ禍はそれに対するピュシスのリベンジではないか」と述べている(“ウイルスに勝つと言う幻想”福岡、柴咲コウ対談、文春、2021・5月号、この対談は、哲学者池田義昭による西田幾多郎・ハイデッガー哲学との対話で鍛えられた生物学者福岡が、その生命論の到達点を分かりやすい言葉で表現した逸品です。)。

次に前記ブログ拙稿で述べた以外のピュシス思想批判を述べます。

 (3)最後のハイデッガー思想(ピュシス)批判

 (第一)、ピュシス(自然)は循環(春夏秋冬、生老病死、輪廻)し、結局世界は目的(テロス)の無い盲目の無限循環となり、意味喪失というニヒリズムに帰結します。ニーチェは人間がシジフォスの様な超人となって、無限循環の徒労を能動的ニヒリズムとして引き受けよ、と言うが人間は果たして耐えられるか。彼自身は狂気となり、ブッダは解脱して輪廻を超えるべしと説いたではありませんか。

 聖書はピュシスも含めた宇宙全体の創造者の存在を説きます。そして創造・堕落・救済と言う三大テーマで、創造世界から人類の罪による宇宙の虚無化への堕落、キリストによる人類・宇宙の救済後の新天・新地の到来による、終末的「神の国」の実現を説く壮大な救済史ドラマを描き、人にそれへの参画を呼び掛けています。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)と。ここにこそ、無意味なピュシスの無限循環から解放され、意味ある人生と世界が存在するのです。

 (第二)、ピュシス(自然)はそれ自身を神聖視されます。自然崇拝宗教は言うまでもなく、哲学者ハイデッガーもピュシスへの自己放下(ほうげ、西洋神秘主義用語、禅語)と言う宗教性を説きました。しかし、聖書はピュシスも創造者である神の被造物であり、神性はない、脱魔術化(ウエーバー)を説きます。そこに近代科学は生まれたのです。啓蒙理性によって近代科学が生まれたと言うのは俗説で、歴史的事実に反します。そして人間は自己放下ではなく、神よりの被造物管理を委託された、スチュワードシップの喜ばしき責任を負うのです。放下(ほうげ)はまさに責任放棄の自然還元・埋没思想です。

 (第三)、ハイデッガーの“存在の故郷喪失論(ハイマート・ロス)”から“ピュシスへの還帰”の主張は、現実的には彼の具体的故郷(ピュシス)とはゲルマン民族であり、そこからレイシズム(人種主義)のナチスに加担する必然があったのです。ピュシス論は、注意しないと今日世界に再燃する自民族中心主義、ヘイト・クライム(人種憎悪)の温床になる危険性を看過できません。

 (第四)、ピュシス重視思想は、「種」としての生命存続がピュシス・自然の目的で、「個(人)」はその手段となる思想であります。まさに先の戦争時、京都学派の哲学者田辺元が戦場に赴く学徒に説いた「種の論理」、個人が種(国家)のために死んで永遠の人類に生きると言う、国家主義戦争正当化の論理に必ず導く、大政翼賛の危険思想であります。

 前記西田・ハイデッガーの影響を受けた生物学の福岡伸一も「ピュシスとしての生命の本来の目的は『種の存続』にあって、個体に価値はありません。個体は老い、死ぬ、有限だからこそ美しい」(前記文春5月号対談)と述べています。このピュシス思想の静かな浸透に、私は個を軽視する全体主義復興のきな臭いものを感じます。日本国憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される」、そしてその思想的淵源、聖書の言葉「私(神)の目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)、神が独子イエス・キリストを十字架に掛けて一人の罪人を救われる愛こそ、揺るがせにしてはならない事だと信じます。

 (第五)、福岡伸一が個の有限性に美を感じる美的実存は、はかなさ、もののあはれに美を感じる日本的無常観に共感するものだと思います。それは禅者西田幾多郎の「善の研究」に通底します。だが他方日本思想には悪人正機の倫理的・宗教的実存親鸞の様に、自己内面の「悪の研究」を究め、救済を求めた流れもあるのです。さらに聖書は神の前の罪人としての宗教的実存がいかにして救済されるか。それは罪人を探し求める、神の先手の愛、恩寵による事が記されているのを銘記すべきです。まさに聖書のイエスは迷える1匹の羊を探し求める、羊飼いの様な個人を愛する思想なのです。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか」ルカ15:4

(b)最後のL.ヴィットゲンシュタイン

 (1)最後のヴィットゲンシュタイン思想

 次も哲学のマエストロ、ルートヴィッヒ・ヴィットゲンシュタイン(1889~1951)です。言語分析哲学者バートランド・ラッセルに師事した彼も、厳密な言語分析で哲学を確立。20世紀哲学の金字塔と言える名著「論理哲学論考」(以下、「論考」)で、命題の真偽は、命題が世界の事実を鏡に映した映像として表現しているか否かだ。その結果、命題と映像の関係を検証できる自然科学のみが真であり、それ以外は哲学と何のかかわりもない形而上学上の記号に過ぎない。「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」と有名な言葉を残し、「神」についても不可知な事への「沈黙」以外にありえないとした。これが彼の前期の結論です。

 しかしその後16年ものそれこそ沈黙を破り、「論考」という偉大な誤謬の徹底的破壊と、それに代わる新しい哲学が構築された。それが、後期著作「哲学探究」である。そこでは、言語の用法は多様であり、科学言語、社会言語、文学言語・・それぞれの領域固有の「言語ゲーム」があると言う。彼の初期「論考」は科学言語のみを真理として他の言語をナンセンスとした。長い沈黙の後、その非に気づいたのです。私は昔、法学部の学生時代、法哲学者八木鉄男助教授の英書講読クラスで、ヴィットゲンシュタインの言語分析学に基づく、分析法学を学び、裁判と言う法廷の言語ゲームの存在を知った者です。

 そして神学固有の言語ゲームは「パーソナルな言語ゲーム」である。つまり「ものを知る」と「神を知る」に類比はないが、「人を知る」と「神を知る」との間には類比がある。人は神秘の前には「沈黙」しかないが、「われと汝」の「パーソナル」な関係において、神との関係は成り立つ、との立場に大転回したのです。二人の男女の愛はものの様に普遍的ではないが、人格関係において確かに存在する。夏目漱石も“愛はパーソナルなものである”と述べている通りです。

 そして神と人との関係も、その様な人格関係として確かに存在しうると訂正。彼は無神論者として第一次大戦に従軍、悲惨な戦場で出会ったトルストイの「福音書」を読んで、神と出会った回心経験があるのです。ヴィットゲンシュタインの前期、後期哲学と言われる所以です。

 (2)最後のヴィットゲンシュタイン思想を無視する日本への批判

 ここからは彼の最後の思想をスルーする日本の思想界への批判です。

 多くの日本の学者やインテリはマルクス主義無神論が効力を失った現代、ヴィットゲンシュタインを持ち出し、前期を強調し現代無神論の論拠とします。しかし、彼の「最後の思想」には都合が悪いと、目を閉じているのです。牧師の私も何度前に記した「論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」と、したり顔で述べるインテリに会った事か。不都合な真実であるヴィットゲンシュタインの「最後の思想」を敢えて無視する、現代日本インテリの思想的レベルの不徹底性を問われる次元ではあります(拙著、「まれびとイエスの神」のヴィットゲンシュタインの項、参照)。

 (3)神学的言語ゲームの諸相

 なお、私は勿論彼の後期哲学への転回を支持しますが、彼の神との「パーソナルな関係」言語ゲームは神学的な言語ゲームの多様性の一部である、すなわちキリスト教教義学、中でも創造論が取り上げる「創造の秩序」の豊かさの一部であることを指摘したいと思います。つまり彼の「パーソナルな関係」言語Gは「創造の秩序」で語られる神学A(対人関係、我と汝、愛の言語)の言語Gであり、他に神学B(自己関係、実存言語)、神学C(社会関係、規範言語)、神学D(自然との関係、科学言語)の言語Gもあります。それらの関係は大きくは人称関係(1人称(個関係)、2人称(対関係)、3人称(共同体関係))、非人称関係(我とそれ)に分節され、またその関係を成立させる創造者と被造物の原関係があり(インマヌエルの原点、滝沢克己)、それぞれに固有の言語ゲームがあるのです(拙著「まれびとイエスの神」参照)。

 

→ 続く:最後のマエストロたち(第2回)

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● <ご案内>

「声でつづる昭和人物史」(NHKラジオ第2放送)

放送時間:月曜日2030分~21時、
     再放送:翌週月曜日10時~1030
丸山眞男1914322日~1996815日、享年82歳)
 82日(月)「丸山眞男と戦後日本社会、民主主義の発見」
  (19961118日)
 89日(月)「丸山眞男と戦後日本社会、民主主義の発見」
  (19961118日)
 816日(月)「丸山眞男と戦後日本社会、永久革命としての民主主義」
  (19961119日)
南原繁188995日~1974519日、享年84歳)
  :聞き手は福田歓一東大教授(当時)
 823日(月)「この人と語る」①1968316
 830日(月)「この人と語る」②1968316

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亀井俊博(かめい としひろ)

1942年香川県に生まれる
単立「西宮北口聖書集会」牧師、「芦屋福音教会」名誉牧師
同志社大学法学部法律学科卒、日本UPC聖書学院卒
(同志社大学神学部、神戸改革派神学校、神戸ルーテル神学校聴講)
元「私立報徳学園」教師、元モンテッソーリ幼児教室「芦屋こどもの家」園長
元「近畿福音放送伝道協力会」副実行委員長、

*<亀井俊博牧師のブログ>
「西宮ブログ」の『バイブルソムリエ


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(7)「カイザルと神」ナラティブ社会神学試論

(5)まれびとイエスの神」講話(人称関係の神学物語)

(6)「時のしるし」バイブル・ソムリエ時評

(3)「モダニテイー(上巻):近代科学とキリスト教」講話

(4)「モダニテイー(下巻):近代民主主義、近代資本主義とキリスト教」講話

(2)「人生の味わいフルコース」キリスト教入門エッセイ

(1)「1デナリと5タラントの物語」説教集


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