2022年 クリスマスメッセージ −木下春樹−

 

 

 

木下春樹

日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 代表

網干キリスト教会 牧師

 

2022年 クリスマスメッセージ

クリスマスおめでとうございます。

 クリスマス、そしてそれに続くお正月は、子どもにとってワクワクする年中行事です。

 大人になっても老人になっても、そのワクワクは大切にしましょう。とにかく楽しみましょう。

 日常生活は忙しいです。最も大切な人は身近過ぎて摩擦も多くなるので、最も腹立たしい人に思えるという恐ろしさがあります。なので、少し日常を離れ、冷静になれば、真実が見えます。最も身近な人は、最も感謝すべき人であることがわかります。

それゆえ、クリスマス、お正月に限らず、誕生日や結婚記念日に、日常をちょっと離れて、あらためて神と人とに感謝することは、年中行事に託された祝福です。

 ヤボな言葉も聞こえてきます。

「メリークリスマス」は他宗教の人に失礼なので「ハッピーホリデー」にしよう。とか。
「12月の寒い時期に羊飼いが野宿なんてあり得ないので、キリストなんて架空の人」などと。
キリスト生誕と12月25日となんの関係もないことは、並のクリスチャンなら誰でも知っています。

ちょっと詳しい人なら、「ザカリアがアビア組祭司としてのローテーションから、生誕は秋の仮庵の祭りの時期であり、イエス様はこの世界を仮の宿として、神であられるのに人となり、過越の羊として死んでいく。それは旧約預言とぴったり合致する救世主の証拠」と知っています。

 さて、神が人となってこの世に来られました、その方と関わりを持つと、人生がなんと豊かになることでしょうか。

 私が結婚式の司式を依頼されると、新郎新婦のために必ず祈ることは、

「このご夫妻は、うれしいことがあればそれを分かち合って喜びを倍にするので、神様の力によってさらに倍化させてください。悲しみや苦しみに会えば、力を合わせてそれを半分にしますので、神様が、さらに半減化してください」。

 キリストとの出会いは、人生の喜びを倍以上にします。

 私事で恐縮ですが、1972年の12月。音楽大学をまずまずの成績で卒業し、貧乏ながらも、さらに欧州に留学して音楽の学びを続けたいと、渋谷のドイツ語学校に毎日通っていました。

先輩がオーストリアに留学するため、音楽教室や演奏の仕事の後継者に私を推薦してくれて、最高の充実した毎日でした。「のだめカンタービレ」の漫画やアニメを何度も見ていますが、この頃の喜びを共有・再現できるためです。

 ドイツ語学校の生徒から音楽教室講師までの空き時間を渋谷の喫茶店で読書していました。クリスマス曲が流れています。よく知っている曲ばかりで毎年聞かされています。でもなぜか、その時、やたらきれいに聞こえてきます、やたら心に滲みてきます。

「そうだ先週、洗礼を受けて、イエス様を主としたのだ」

「主は来ませり、主は来ませり」私の心にまできてくださった。
 毎年耳にしている同じ曲なのに、今年は、こんなに美しく聞こえるとは。

大発見でした。

 当時、「私ほど幸せな人がいるだろうか」と、充実した日々ではありましたが、しかし、どんなに幸いと思える時にも、心に一点、隙間風のようにシラケた風が突き抜けていきます。これがパスカルの言う「神に造られた人間は、神にしか埋めることができない心の空間を持つ」ということかと思いました。

 またあとでわかったのですが、教会や音楽大学の聖書サークルの多くの方々の祈りがあったようです。心の扉を開けてキリストを受け入れたとたん、その虚無の空間から、何かが泉のように湧き出るものを感じて、満たされたばかりか外にまで溢れ出るものを感じて、大きな人生の転換点を持つことができました。

 祈っていた人たちは、祈っていたのに、驚いていました。

「神様は全能だから、不可能なことはないけど、木下さんをクリスチャンにすることはできないと思ってた。天と地がひっくり返った思い」。失礼しちゃう。

 でも私も、自分の父が信仰告白した時、同じ思いでした。いずれもなんと不信仰。

 次にキリストとの出会いは、苦しみや悲しみを半減してくれます。

 聖書の中で、苦しんだ人はと言えば、なんと言ってもヨブです。

「商売繁盛、子孫繁栄」を幸福とするなら、彼は大金持ち、子沢山。本当に幸福な人でした。ところが、ある日突然に、息子や娘は殺され、財産は奪われ、その上、全身皮膚病に感染して底知れない苦しみに突き落とされました。

 彼は言います。「私は裸で生まれ裸で帰る。主は与え、主は取られる。主のみ名はほむべきかな」と。

 ある牧師は教えてくれました。「この程度は並のクリスチャンなら言える、しかしこの後、ヨブにはさらに激しい苦しみが続くと別の言葉が続く」と。

 それから後、ある場所で出会った女性は片腕でした。神学校での先輩のお姉様でした。駅のホームから何者かに突き落とされ、電車に轢かれて腕を失ったようです。
 彼女のその瞬間。
「神様、今まで腕をありがとうございました。今、片腕をお返しします」と祈ったとか。
‥‥すごい! すご過ぎる。これでもってヨブの話では並のクリスチャン。

私など、一生かかっても並にもなれないだろうなと。

 さて、今より4ヶ月前、牧師&伝道師としての時間の使い方より、はるかに時間を使ってフルート奏者&教師として人生を過ごしてきた私に、ある日突然、唇に違和感を覚える出来事があり、フルートが全く鳴らなくなりました。並以下のクリスチャンである私でも、瞬間的に演奏家生命が今、尽きたと悟り、「神様、今まで私に、フルート演奏という賜物を与えてくださって感謝します。いまお返しします」と祈ることができました。

 そして「これは脳梗塞の初期症状では?すぐ点滴して血栓を溶かして貰えば、ひょっとして後遺症も残らず演奏生命も残るかも」と、救急車を呼び病院に搬送されました。

検査結果は脳に異常なし。しかし顔がどんどん歪んできます。

 結局、帯状疱疹のウイルスが顔面の神経に入り込む「ラムゼイハント症候群」による顔面麻痺とわかりました。60年間、修行を重ねたフルート演奏の人生が一瞬にして終わりました。演奏も教室も失業。

悲壮感はありませんでした。

 お見舞いに来てくれた人が

「木下さん、大変な悲劇なのに、笑顔のままじゃない。私まで笑ってしまって、ごめんなさい」と変な慰められ方をしました。

 おだやかでいられる理由の一つは、若い頃、光栄にも、20世紀最大のフルート奏者と言われるマルセルモイーズ先生に10日間教わる機会があり、その中で「ピアニストが手を失ったり、声楽家が声を潰して、普通の人になってしまうようなら、音楽家とは言えない。たとえば指揮者になれば現役の演奏家が続けられる」という教えがありました。

 指揮者やるにはオーケストラがない。しかし、合唱指揮に長年携わったので声楽をかじり、フルートと同じくらい好きだったリコーダーならまだ演奏可能。

麻痺した口では、最近凝っているケーナやパンフルート、尺八、篠笛は諦めよう。
 今までは、フルート奏者の、まして牧師兼業なんだから、声楽やリコーダーは劣っても当然と甘えられたのに、そうはいかなくなってしまったと自覚した時、新たな音楽の面白さをいくつも発見できました。結局日々続く、音楽人生になんら欠損は起こっていないと確信できました。

やっと並のクリスチャンになれたかもしれないと思えました。

しかし少しづつ顔面麻痺が癒されてきたいま、

「神様、フルート演奏の技術はお返ししたのですが、また、もうちょっとだけ、また貸していただけませんか?」と、未練たらしく祈るこの頃。

やっぱり、並のクリスチャンには、まだまだ程遠いようです。

どうぞクリスマスをきっかけに、もっと深く、主との関わりを深めください。

またまだキリストとの関わりが少ない方々。キリストとお付き合いしてみませんか?