紀元2023年 新年の抱負

 

田口 望

日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY-  論説委員

新年あけましておめでとうございます。

 教会暦上では1月の上旬(顕現日)まではキリストの誕生をお祝いしますし、クリスマスカードを見ても「メリークリスマス&ハッピーニューイヤー」と書かれていることが多く、「クリスマスおめでとう」と「新年おめでとう」はキリスト教文化圏では一体となっていることが多いのですが、日本においては12月25日まではあれほどクリスマスソングがながれていたのに12月26日からは一転してお正月モードになり、スーパーやデパートもお正月関連のものが商品棚にならび、広告も和装を来た人がチラホラと出てきます。

 私も、大学生のころ、ある大きな駅の広場を12月25日の深夜に集まって、26日の早朝までクリスマスの飾りつけを撤去し、お正月関連のディスプレイを設置するという単日バイトをしたことがございます。

 マリアさんとヨセフさんがベツレヘムの片隅の馬屋でイエス様を出産し、そこに羊飼いと東方の三博士がキリストを拝しにくるという多くの人が聞いたことのある「聖誕劇」のお話しその後には何が書かれているのでしょうか?マタイは旧約聖書3か所引用しているので、マタイの福音書2章10節以降を3つのパートに分けて読んでみましょう。

(1)ナザレのイエスは間違いなく、聖書が預言していた救い主キリストである。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 マリアさんとヨセフさんとイエス様(教会や美術の世界では『聖家族』と呼びならされている、そのように言われる)はゆっくりと、クリスマス休暇と新年休暇をつなげて大型連休…というわけにはいかなかったようです。キリスト降誕によいしれるお祝いモードから、なにおいても命を守る行動を迫られる緊急事態モードに切り替えが聖家族に求められたのでした。

 また、この福音書を書いたマタイは読者の多くが旧約聖書に精通していることを想定していたのでしょう。旧約聖書の救済史において最大の功労者であるモーセがエジプトから出て神様からの召命をうけたことと、イエス様には幼少期にエジプトにおられたこととをダブらせています。さらには旧約聖書に出てきて「夢分析」をしてピンチを脱出する創世記のヨセフと、奇しくも同じ名前であるこの聖家族のヨセフも同様にして夢を通して神様からお告げを受けて、危機一髪のところでピンチを脱出する姿もダブらせています。そうすることで、読者に旧約聖書で長らく何千年も前から預言されていた救世主(メシア)とはこのイエス様の事だったのだということを気付かせようとしています。

 さて、クリスマスの続きの記事をさらに読み進めていきましょう。

クリスマスは楽しいだけでなく、その裏には触れづらい人の罪と悲しい現実が確かにあった。

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」

 なんて悲しい出来事でしょう。マタイは聖家族が危機一髪で脱した患難とはどれほど恐ろしいものであったのかについて触れています。そして、それすらも、神様の預言の実現であるとのべます。ただ、のべはするのですが、軽々に全てをわかったふりしてその因果関係を誰それのせいだ、何某のおかげだ等と説明することはありません。

 この預言は直接的にはイエス様が生まれるより600年ほど前の時代を生きていたエレミヤが、さらに100年ほど前におきた北イスラエル王国が滅亡した時のことを思い起こして歌った詩・挽歌です。ラマとはベツレヘムの近くの地名でイスラエル民族の「国母」ともいえるラケルの墓所のあるところです。こなれた日本語で意訳するなら

国母ラケルが
草葉の陰で我が子の早すぎる死を、その亡国を、
耳をつんざくような悲鳴にも近い声で泣いている。

といったところでしょうか、

 今に適用するならば、2023年、新年明けまして「おめでとう」とはいうけれど、とてもじゃないけどおめでたくない。長期化するウクライナ戦争、終わりの見えないコロナの第八波、停滞する拉致問題、統一地方選、日銀総裁人事、ドル円の乱高下、物価高、少子高齢化、気候変動、問題だらけで、悲しみのど真ん中で、「おめでとう」といえない人たちがいる。そんな問題に目をつぶって、臭いものに蓋をして、オブラートに包んで、耳障りの良い言葉だけを並べて「クリスマスおめでとう」、「新年おめでとう」なんてとても言えない。やっぱり、腫れあがった傷口を膿のたまったこの問題に触れないわけにはいけない。目を背けるわけにはいけない。でも、目を向けるからといって、敢えて傷口に触れるからといって、膿を絞りだそうとするからといって、その問題の完全解決の道を全て知っている訳ではなない。少なくとも問題に触れないことと問題がないことは一緒じゃないし、問題があることを忘れないことが、問題の当事者に寄り添う第一歩だと思うから…

 耳をふさぎたくなるラケルの悲鳴を前にして、それでも耳をふさがず、慰めを拒否するその人にそれでも寄り添い続けることが慰めだと思うから…。

 日本キリスト者オピニオンサイトソルティーは閉塞感漂う日本のキリスト教界の中にあって、それでもキリスト者の視点からキリスト教界内外の諸問題についてオピニオン(意見・主張)を提示し、またオピニオン(世論)に一石を投じ続けます。それは必ずしも口当たりの良い甘い意見ばかりではなく、時には耳の痛い意見もあるでしょうが、それも含めてソルティー(塩気の意)に課せられた使命なのだとも思います。

毀誉褒貶 相半ばしようとも

ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 さて、ヘロデが死の報に触れてエジプトから聖家族はイスラエルに帰還しますが、3つ目の預言「彼はナザレの人と呼ばれる」という言葉は実はその言葉、そのものは旧約聖書にはありません。古くからこの箇所は色々な解釈がなされていたのですが、一つ有力な解釈を紹介します。

 士師記の13章に「彼はナジル人と呼ばれる」という一節があります。ナザレ人とナジル人の音が似ているので福音書記者マタイが韻を踏んだのではないかというものです。

 ギリシャ語70人訳聖書では、ナザレ人とナジル人は音が似ており、実は日本語の聖書でも明治時代に翻訳された文語訳ではナザレ人もナジル人も両方「ナザレ人」と表記されていて混乱が生じたくらいです。そして、ナジル人は神様に身をささげた人、献身者の意味であり、ナザレ人は今でもユダヤ教の間でイエスを指す蔑称であります。つまり、現代日本風に言えば、特定の宗教を信じていない人が、敬虔な信仰を持っている人を揶揄して、「あいつはアーメン、ソーメンやからな」といわれるようなものであります。

 イエス様があるいはキリスト者が父なる神様のみ旨を行おうと献身的な奉仕をしても、それはある人にとっては侮蔑の対象でしかなく、尊い働きと揶揄が同時進行していくのです。
(*毀誉褒貶:きよほうへん —– そしること・ほめること)

 

まとめ、

(1)時代を超えてナザレのイエスはキリストであると告白し

(2)あまり光のあてられないキリスト者の多様な意見を取り上げ、
また内外の問題に直視し、提言し

(3)そのことについて批判や揶揄があったとしてもその意見の違いを認めて、

言論を深めていく

 以上、クリスマスの一週間後にやってくる新年の挨拶を、聖書にでてくるクリスマス直後の記事から解き明かしして、2023年のソルティー新年の抱負といたします。

 主の2023年が、読者の皆様にとって神様から豊かな祝福がありますようにと祈ります。

 

*サムネイルの画像は、ジェンティーダ・ファブリアーノ作『エジプトへの逃避』