教会形成とリーダーシップ -大橋秀夫-

写真:SALTY神戸宣教会議(4/11 発題:大橋秀夫牧師)

 

 

大橋秀夫
クライストコミュニティ顧問牧師

教会形成とリーダーシップ

1971年3月に東京から尼崎にやって来た。10人ほどの人々と共に開拓伝道のスタートを切って以来、私は教会形成とは何なのかを模索し続けてきた。それは「教会とは何か」を問い直す作業からはじまり、自分なりに再定義する作業でもあった。その結果として私なりにたどり着いた結論は、聖書の価値観に基づく共同体の形成がそれである。それは教会が単なる宗教的集団でないばかりか、信徒の集団でもないという認識から始まって、私の教会形成の方向づけを明確にしてくれた。

 実は、この段階で私はすでに自分が群れのリーダーシップを取っていることになるのだが、大方の牧師はそのことに気づいていないように思われる。それは何故かと言うと、リーダーシップを地位や立場、あるいは権威や力と結び付けて考えるからである。この傾向は日本の社会では殊の外強いようである。確かに、何らかの地位や立場を有する者にリーダーシップを求められることはあるのだが、しかし、実際のリーダーシップは、地位や立場とは関係ないのである。この点は、リーダーシップを学ぶ(理解する)うえで重要な基本である。

 教会形成とリーダーシップについて考察する時に、さらに気にかかることがある。それはリーダーシップの何であるかを理解する前に、特に日本の教会の中ではリーダーシップそのものを敬遠するリーダーが少なくないと言うことだ。こうした傾向がどうして生ずるのだろうかと考えると、一つには、先に挙げたようにリーダーシップが権威や権力と結び付けられて考えられ、権威や権力を敬遠する教会の価値観が大きく影響していると推測する。
もう一つは、日本の神学校でリーダーシップ論を正規の科目として取り上げているところが殆どないという背景が見えてくる。その基本すら学ぶ前に群れのリーダーとして送り出されるのが現状ではないだろうか。そこでリーダーシップを、他人をコントロールすることのような、歪んだリーダーシップ観を身に着けてしまうように思える。

 神から私たちに与えられた旧約聖書は歴史の書である。そこに登場するのは歴代のリーダーたちである。少し見方を変えれば、多様なリーダーたちの生きざまが描かれている貴重な資料である。それは、まさにリーダーシップの教科書と言えよう。それに学ばずして何に学ぶと言うのだろうか。聖書自身が、「指導がないことによって、民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る」(箴言11:14)と、また「協議によって計画は確かなものとなる。すぐれた指導のもとに戦を交えよ」(同20:18)と教えているにも関わらず、教会がリーダー不在の「飼う者のいない羊」の群れとなり、共同体ではなく集団と化してしまっていないだろうかと危惧するのである。

 話は変わるが、私が自分のメンターとしていたのは、グレース宣教会の堀内顕師であった。私たちの会話では、マネージメントについては互いに共感し合えたのだが、リーダーシップスタイルについては、相反する考え方をもっていた。そしてそれを互いに認め合い互いながら学び合っていた。その中から学んだことだが、リーダーシップについての問題は、ほとんどの場合、前提が間違っていると言うことだ。これはハーバード大学ケネディスクールで教えるバーバラ・ケラーマンも指摘しているところだが、私たちは、リーダーシップとは変化しないものと思っていると言うことが一つある。もう一つは、リーダーシップは手早く簡単に学べるものだと思っていることである。その両方が間違いであるのだ。彼女によれば、リーダーシップ理論だけで世界には40あり、リーダーシップスタイルについて集めれば1500以上もあると言われる。さらに一人一人の状況によってどのように対応するかと言うことになれば、すなわちリーダーとフォロワーとの関係を考えると如何に複雑でるかが分かるはずである。

 ところで、今年4月に開かれたSALTY宣教会議における主題講演「21世紀日本の宣教」に興味をもって参加させてもらった。今世紀も既に4分の1近くを経過している。これは喫緊の課題だと思って参加した。しかし、その中心的メッセージは、太平洋戦争から明治維新までの歴史認識であり、50年以上も前から既に語られているアジアにおける日本の戦争責任の追認に対する再考をもって、今世紀の宣教の基礎に据えるべきだとの主張であったように思える。

 こうした歴史認識を不要だなと決して考えていない。戦後生まれの若いリーダーたちには、ぜひ知っておいてほしい事柄である。しかし、「21世紀の日本宣教」、あるいは長く続く宣教の低迷を前にして、私たちに必要な喫緊の課題は、現代社会の中における教会形成はどうあるべきか、またそれを導くリーダーとリーダーシップはどうあるべきかを探索することではないだろうか。戦後も70年いやもう後僅かで80年を過ぎようとしている。その間にかつてないスピードで社会は変わりつつある。当然、人々の日常生活にも大きな変化が生まれ、地域共同体や生活環境から家族の姿や環境までもが変化している。これらは、すべての組織とその構成員にも変化をもたらしている。そしてリーダーとフォロワーの関係にも変化が起こっているのだ。教会はその変化をどう受け止めているのか、それこそが21世紀の日本宣教の課題ではないだろうか。

さらに次のような間違いもある。人々の中には、リーダーシップを勉強すれば、誰もがリーダーシップを発揮できるようになると言うまちがいである。

21世紀になって所謂リーダーシップ・ビジネスなるものが急速に頭角を現わしてきた。しかし、需要の大きさに支えられてリーダーシップ・ビジネスは発展してきたが、果たしてそれによってリーダーは生み出されて来ただろうか、と言う評価はまだされているとは言えない。そこでリーダーシップとは、リーダーシップ研修などを終了して与えられる資格ではないと言うことが現代の課題として浮き上がっているのだ。

 では何といえばいのだろう。それはリーダーを育成する、すなわち、潜在的なリーダーを発掘してリーダーとして育成する作業そのものであり、そうできる人が真の意味でのリーダーなのだ。

 最後に、このような人を育てることのできるリーダーとなるための健全な動機付けについても正しい認識が必要であると申し上げる。そして、その動機付けは私たちの信仰の中に宿っていることに気づいていただきたい。

主が命じられた、福音を宣べ伝えることと、隣人を自分自身と同じように愛することの二つは、他の人に良い影響を与えるだけではなく、人を変える務めであり、さらに人を育てる務めである。その勤めに励むことは、そのまま私たちがリーダーシップを発揮する作業であるのだ。それゆえにあなたの中にもリーダーとなる動機づけがなくてはならない、またリーダーシップについての健全な理解が必要であることを分かって頂けると信じるのである。

(2023.5.7)

 

 

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