大震災より怖いもの −亀井俊博−

写真:阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件_(Wikipediaより作成)

 

 

 

バイブル・ソムリエ:亀井俊博

「芦屋福音教会」名誉牧師
「聖書を読む集い」牧師

大震災より怖いもの

『100年、80年、30年』の記事(SALTY 掲載:2025-3/9 )の続編になります。「大震災より怖いもの」とはいったい何か?

 1995年1月17日5時46分52秒に激震が走った。そう30年前の阪神淡路大震災は直接の体験者として、トラウマが筆者のこころに深く刻まれており、日頃は全く忘れた様に生活していますが、毎年の様に記念日のTV番組が当時の生々しい映像を放映するのを見ると、グツと内側から感情がこみ上げて来て自制するのが難しい事があります。確かに大変でしたし、よくここまで立ち直れたものだと、助けて頂いた全国の方々に感謝の思いでいっぱいです。

 しかし、時系列でいうと1月17日の震災後の厳しい対応のま最中の、3月20日関東で “オウム真理教による地下鉄サリン事件” が発生。東京地下鉄での猛毒サリン散布の犯人が、宗教団体だったと言う報道に、大変な衝撃を受けました。牧師の筆者にとっては、その後の展開を見るとこちらの方が、あえて誤解を恐れずに言えば、震災よりはるかに怖ろしいものでしたし、今もそうです。

 なぜかと言うに、震災はいわば天災で人間ではどうしようもない出来事です。せめて予知を早めて、早期に避難する。また防災に務め、また発生した時の対応を充分にして少しでも被害を最小限にとめる、対策が必要なのは言うまでもありません。石破首相の「防災庁創設」の意義はとても大切だと思います。

 それに対して、“オウムによるサリン散布事件” はまさに人災ですし、しかも本来人の魂の救済を図るべき宗教が殺人を計画、実行するとは何という事か。キリスト教と言う宗教に携わる者の一人として、理解に苦しみ、その真相が徐々に明らかになるにつれ、衝撃は大きく、また深いものでした。そしてその対策は信教の自由を保障する憲法の制約下、外面的な法整備は進んでも、本質論は論じられないでうやむやにされて放置。筆者には問題はさらに深刻化していると思えてならないのです。以下いくつか思いつくまま筆者の問題意識を掘り越してみます。

オウムの地下鉄サリン事件の残した問題

 まず、宗教真理の問題です。
ポア(チベット語で正しくはポワ、転移の意、慈悲のため、他者を殺害して、極楽浄土へ魂を転移させること)と言う、人を殺すのも慈悲である、と言うチベット密教の教えがあると言う事です(「虹の階梯」中沢新一、平河出版)。もちろん本来は生身の人を殺すと言う事ではなく、解脱を妨げるものを排除すると言う意味でしょうが、教えに反対する者を殺してやるのが慈悲だと強弁する隙がこの教えにありますね。

 同じ年、高野山でキリスト教関係者の宗教研修があり筆者も参加。真言宗の高僧と話す機会があり、この点を問いただした時、言下に“常識、常識、常識から外れたらいかん!”と声を荒らげ退けられました。しかし、常識で救済されないから宗教があるのではないか。その宗教が常識以下では、何という下等な教えかと憤慨したものです。宗教の教えの真理性が問われます。「木は実によって見分けられる。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」マタイ7:16,17

 第二、オウムの集団は、高い教育を受けた者が多かったと言う事です。しかも自然科学・技術系の専門家や、病み死におののく命を救うべき医師までいたことは大きな衝撃でした。戦後教育はいったい何を生みだしたのか。彼らの多くは、割合良い環境に育ち、高い知的能力を生かし最高の教育を受け、それぞれに社会の第一線で活躍していた。しかしそこにも何か物足りなさを覚えている時、チベット仏教の影響を受けた「オウム真理教」教祖麻原彰晃に出会い、尊師と崇め、その霊的ステージの高さに敬服し、解脱めざして激しい修行をしたようです。

 時代背景に、ユング心理学や第三の心理学マズローの影響を受けた、科学の果てに霊的世界を求めるトランスパーソナル心理学が流行した影響があると思います。戦後アメリカも一部知識層は伝統的キリスト教から離れ、昔は鈴木大拙の“禅”に魂の空白を埋めようと求め、またベトナム戦争後は、近代文明に疑義をいだいた若者は、既成価値かち離れヒッピーとなってハイな気分やエクスタシーを求め、ドラッグや奔放な性体験、そして様々な東洋宗教に道を探していました。

 そいう中、1989年ノーベル平和賞受賞の、チベット仏教のダライラマ14世が中国共産党の迫害を逃れ、米国に渡り布教した影響で、チベット仏教が流行、科学とも融合しニューエイジ(サイエンス)運動でした。日本でもその影響があったのです。科学と宗教(霊性)の問題は今も解決していません。

 しかしアメリカではその後、キリスト教内の形骸化した既成教団に、霊的刷新を求めるペンテコステ・カリスマ運動と言う聖霊による信仰覚醒が起こり、多くのニューエイジ達やヒッピーは教会に立ち帰り、東洋宗教は縮小していますが、日本では、オウム事件でその問題性が露見したにも拘わらず、何ら本質的な事が論じられないで、ついに「統一神霊協会」関係者による安倍晋三元総理テロ事件にまで至りました。

 安倍氏の秘蔵子であった、元NHK政治部記者岩田明子氏によると、政界内部の占いやスピリチュアル傾向は根を深く張っており、東大法学部卒の岩田氏自身も占いの影響が非常に強いようで唖然とします(文春2024年4月号)。

 もう一度近代科学発生の原点に立ち返る必要があります。そもそも17世紀ヨーロッパに始まった近代科学は、キリスト教に起源があるのは歴史的に実証されており、この原点から離れた18世紀「聖俗革命」後の科学を日本は受容している現実に、オウム事件の根本があるのです。日本の科学教育はもう一度近代科学の原点に回帰すべきです。米国は激しく揺れ動いても回帰すべき原点を見失っていないと思います。現在の福音派支持のトランプ現象はその現われです。
<参照:『聖俗革命以後の神学』SALTY 2024-1/30 掲載>

「神は二冊の本でご自身を現わされた。一冊目は自然であり、天体はどのようにして運行しているかであり、How the Heavens go? その言語は数学で書かれている。二冊目は聖書であり、天国に行くにはどうすればよいか、How to go to the Heaven. が書かれており、その言語は神の言葉である。」 ガリレオ・ガリレイ

 第三は、知識人の問題です。当時オウム・シンパの知識人が結構おり、彼らは深刻な事態を前にして、なおオウムを弁護していた。吉本隆明、島田裕己、中沢新一等、いわゆるニュー・アカデミーを中心とした宗教評論家の一群です(もちろん彼らの功績は他の面では大きく、筆者も大いに参考しておりますが、以下の宗教的・社会道義的責任は重大だと思います)。

 彼らはその後の厳しい社会の指弾で、一時は鳴りを潜めていましたが、今また何食わぬ顔をして、宗教専門家と称して、普遍宗教・世界宗教に疎い日本人にまことしやかに説示しています。自分たちがどれほどの害悪を社会に及ぼしたか全く責任を自覚せず、責任をとろうともしないのです。

 要するに彼らは宗教現象論者であり、宗教多元主義すなわち全ての宗教を等価値として、何かオウムのようなスピリチュアルな現象を持つ宗教を、さもありがたそうに尊重するのです。彼らがオウムからどれほど経済的に潤をされていたかは知りませんが、宗教専門家ほど裏で怪しい者はないのです。そして筆者の様にキリスト教信仰こそが真理であると告白すると、独善だ偏狭だ狂信だとかレッテルを張り冷笑し、自分たちがいかに理性的であり、客観的学問的また霊的であるかと説示するのです。

 宗教現象論ではなく、宗教は本質こそ問われるべきなのです。救済の道はいくつもある、一つしかないと言うのは独善・偏狭に過ぎると言う。物分かりよさそうですが、彼らに誘われてとんでもない道に深入りして、結果滅亡すれば責任を取るのか!

 個人的な話で恐縮ですが、以前かかりつけ医からの処方箋を持って薬局に行き、頂いた薬を服用。しばらくすると体に異常が生じ、医師に相談すると薬局に電話された。すると薬剤師が処方と違う薬を出していたことが判明。筆者はびっくり、幸い医師の対応が適切で事なきを得ました。直ぐに担当薬剤師が拙宅に来て、玄関で土下座して謝った事があります。医師が処方を出して、薬局がそこらの薬を適当に出しますか?訴えられますよ。厳密に処方に従うべきでしょう。

 スピリチュアルなら何でもいいのか。聖書は霊には聖霊もあれば、悪霊もある、霊を見分けよ、と警告しています。日本のスピリチュアル好きは、聖霊も悪霊も区別なく同等視しているのです。薬の処方に厳密であるべき様に、スピリチュア現象にも厳密であるべきでしょう。

 使徒ヨハネは
「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。」ヨハネⅠ、4:1~3

 また使徒パウロは、
「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。私たちは神についての偽証ということにさえなります。なぜなら、かりに、死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。」コリントⅠ、15:14,15。

 キリストの復活がありもしない事を説いているなら、それは人を欺いているのであり、神にもっとも重い裁きを受けると、パウロは宣教の責任の重要性を自覚し説いています。

スピリチュアル・ケアとは?

 現代のスピリチュアルの流行はどうですしょうか、何でもスピリチュアルでありさえすればありがたがる風潮。怪しげなパワースポットや霊場巡りはまだしも、スピリチャルケアなどと学問的表現で粉飾しても騙されてはいけないのです。

 筆者日頃の推し、沖縄のキリスト教の最大病院、社会福祉法人葦の会オリブ山病院理事長、田頭真一先生は、「イエス様のスピリチュアルケア」を最近出版され、さらに「イエス様抜きのスピリチュアルケア」と言うそのものずばりの自作を予定されています。先生は終末期医療の専門家として、現状のイエス様抜きのスピリチュアル・ケアの欺瞞性を完膚なきまでに説いています。

 たとえ公認の「臨床宗教師」からカウンセリングによるスピリチュアル・ケアを受けて平安な心を得て死んでも、福音抜きの平安で地獄に堕ちればどうするのか。ケアした人は責任を取るのか。「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒し、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。」エレミヤ6:14,
偽預言者になってはいないか。真のスピリチュアル・ケア問題は、後期高齢期になった団塊の世代が大量に死に直面する現代の喫緊の課題なのです。

 真のスピリチュアル・ケアはイエス様の十字架の贖いを信じ、罪赦され天国に入れて頂く事です。こんな事を言うと独善・偏狭だと言う。しかし聖書は「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言う事はできません。」コリントⅠ、12:3、と宣言しています。そうです、筆者はK.バルトが説く“イエスをキリストと告白しない宗教は、アプリオリ(先験的)に誤りである”との主旨に同意する者です。たとえ独善・偏狭と言われようと、神の偽証人になって人を滅ぶに導く偽預言者になってはいけないからです。

 この様に、阪神淡路大震災以来の災害対策は進んでも、オウム事件以来のスピリチャルの蔓延は野放しで、日本の霊的混乱は滅亡の道をたどっていると言わざるを得ないのです。今こそ「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」使徒4:12 のみ言葉に従って、日本のキリスト教会が真のスピリチュアルのあり方を示すべき時ではないでしょうか。 

(寄稿日:2025年 1月22日)   

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