「聖俗革命」以後の神学 −亀井俊博−

 

 

 

バイブル・ソムリエ:亀井俊博

「芦屋福音教会」名誉牧師
「聖書を読む集い」牧師

“「聖俗革命」以後の神学”

「聖俗革命」?

          誤解の歴史教育

 まず新年早々に起こった能登半島地震被災者にこころからお見舞いと支援の手の届くようお祈りいたします。わたくしも29年目の阪神淡路大震災を体験した一人として、被災地の痛みはわが痛みとして共有する者です。当時全国や世界の教会から寄せられた祈りと支援にどれほど励まされた事か思い出し感謝を新たにし、今回の被災地に何ができるか問うて行動していきたいと思っています。以下の論も迂遠な話ですが、役立てればと願っています。

 さてわたくしは新著138億年のメタ・ヒストリーを刊行しました。今回は、編集・出版のピヨ・バイブル・ミニストリーズ代表の井草晋一牧師の多大なご労によるもので、この誌上をお借りして改めて謝意を表します。

 感謝したいことに既に多くの好評を頂きありがたく思っています。読者の評価・感想・疑問によって、貧しい思索ではありますがさらに深める機会ともなり幸せに思っています。許されるなら今後、本誌上でその一端をご紹介したいと思っていますが。今回は標記のテーマについての読者のご質問にお答えし、また新著以後の思索も述べてみたいと思います。

 タイトルの「聖俗革命」って何?との問いが多かったことです。これは科学史家・科学哲学者の村上陽一郎東大名誉教授が使った専門用語です(「近代科学と聖俗革命」新曜社)。後期高齢者のわたくしの世代はむかし、学校の歴史でガリレオ裁判を習ってきました。1633年イタリアの天文学者ガリレオは天動説を否定し、地動説を唱え、彼を教会は異端として宗教裁判にかけた。そこで身に危険を感じたガリレオは、自身の学説を撤回し、教会の天動説を支持した。しかし、裁判所を出るとき“それでも地球は動く”とつぶやいた。実に近代科学を抑圧したのはキリスト教である。近代科学は教会の弾圧を退けた結果発展した、と教えられてきました。だからキリスト教は非科学的な迷信でダメだ、と言うわけです。

 わたくしは50代のころ、「自然科学史」の市民講座が開講され受講しました。某国立大学を退職したばかりの専門家が70名ほどの市民にレクチャー。大変興味深かかったのですが、二言目には教会が近代科学の発展を妨げた。神から解放された人間理性の勝利が近代科学だと、と力説され、ホントカナ?と疑問が湧き上がって、牧師の傍ら調べてきました。

 以下この度出版したわたくしの著「138億年のメタ・ヒストリー」では、「近代革命」の全分野、すなわち「近代自然科学」だけでなく、「近代民主主義政治」、「近代資本主義経済」にもこの近代革命の非キリスト教起源についての疑問は共通しており、それを解く学説が村上教授の「聖俗革命」説であることをご紹介しているのです。以下まずは村上教授の説く「近代自然科学」分野の「聖俗革命」を実例として取り上げます。

          近代科学革命のキリスト教起源

 村上陽一郎教授は、科学史家としての実証的専門的研究によって、キリスト教こそ近代科学の起源となった事を実証したのです。まあちょっと考えてみれば分かります。16~17世紀のコペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートン・・きら星の様な「近代科学革命」のスターたちは、皆キリスト者です。その総仕上げをしたニュートンは「ダニエル書」、「黙示録」の聖書研究までしています。ガリレオは“神は2つの方法でご自身を現わされた。一つは科学であり天体はどのように運行しているか、How The Heavens go,を示し、その言葉は数学である。2つ目は聖書であり、人はどうすれば天国に行けるかHow to go to the Heaven,を示し、その言葉は神の言葉である。“と教えている通りなのです。聖書の示す神は、被造物である自然の創造者であり、神の被造物・自然はデタラメ、無秩序でなく「創造の秩序」を与えられ、「自然法則」によって保持されています(創世記1:1、詩編19:1~6)。

 村上教授は説きます。英語で法則はLawですが、これは動詞Lay、置く、設置するが語源です。法則は必ずこれを設置した者がいます。自然法則はたまたま偶然にできたんだ、と無神論者は言うが、無理筋ですね。創造者なる神が自然法則を、宇宙創造前に設置されていたのです。この様に説く、三田 一郎名古屋大学名誉教授は、日本の素粒子物理学者、カトリック教会の助祭。ノーベル賞受賞の「益川・小林理論」に貢献したCP対称性の破れとB中間子の崩壊についての研究で、イカロス・ビギとともに2004年のJ・J・サクライ賞を受賞した方です。

 三田教授がニュートンの逸話を紹介(「科学者はなぜ神を信じるのか、コペルニクスからホーキングまで」講談社)。ある時ニュートンが当時の太陽系惑星の模型(モデル)を苦心して作成、研究室に設置。そこへ宇宙が偶然できたと主張する無神論者の友人学者が訪ねてきた。そのモデルを見て感嘆し、誰がこの素晴らしいモデルを作ったのか?と尋ねた。ニュートンはいや偶然できたんだ、と答えた。すると友人学者はそんな馬鹿な事があるものか、こんな精密なモデルが偶然できるわけがない、誰かが作ったのに決まっていると応じた。そこでニュートンはこのモデルは宇宙の模写に過ぎない、それが偶然にできたものでなければ元の宇宙が偶然できるはずは無いだろう、と答えたと言う。

          近代科学の結果

 以来、自然科学は発展して今日に至り、われわれの生活は科学の恩恵無くしては成り立たない状態です。しかし科学発展の光の面に対して、陰の面も大きくなり、ウクライナ戦争での核戦争危機、ドローン兵器の発展、生物化学兵器、サイバー攻撃の被害は深刻であり、地球終末時計Dooms Clockは、終末までの針を後数秒まで進めています。また18世紀後半「産業革命」以来の地球資源・エネルギーの莫大な消費からくるエントロピー急増は人類の手におえず、まさに自然の浄化能力を超えており、国連気候変動枠組条約締約国会議(COP)の懸命な努力でも悲観的です。そこでこう言う自然支配のイデオロギーである科学を生み出したキリスト教こそ環境破壊の元凶であると、またぞろ反キリスト教を唱えだしたのです。リン・ホワイトの「機械と神、生態学的危機の歴史的根源」(みすずライブラリー)ですね。

          「聖俗革命」

 しかし、村上教授は、史実からキリスト教による17世紀近代科学革命時代に環境破壊はなく、キリスト教を否定した18世紀啓蒙理性思想以後に起こった「産業革命」以後急激に環境破壊が始まったのだと反論したのです。これを村上教授は近代科学の「聖俗革命」と呼んでいるのです。14世紀聖なる神の創造の業の賛美と研究から始まった近代科学は、18世紀以来、神を追放し人間の好奇心を神の座に据え自然を支配し始めた結果、人間の欲望の過剰性、逸脱性からくる自然資源の収奪、エネルギーの過剰消費による環境破壊に至ったのだ、と実証したのです。「聖俗革命」論は、カソリック者、村上陽一郎先生の偉大な功績で、学界の共有財産(定説)となっています。速やかに学校の歴史教育に採用して、「近代科学革命キリスト教起源論」と、啓蒙主義以降の神否定の「現代科学」の違い、またその結果として地球規模の危機の歴史的転換点「聖俗革命」論を教えるべきです。

          「聖俗革命」以後の神学

 ではどこに解決があるのか?一つは単純に近代科学革命の起源にもどり、神の創造の業賛美、研究に帰れと言うことです。確かに一理あります。しかしそれでは素朴で純粋な科学探究は成り立っても、科学の無い徳川時代3,000万人だった日本は明治維新以降、「聖俗革命」以後の科学とその応用である技術採用によって1億を超える人口、しかも高度に文明化された社会に発展したのであり、素朴・純粋な近代科学革命的真理探究では達成できません。そして「聖俗革命」以後の現代科学の問題解決のため、やはり啓蒙理性を神学的に正しくあるべき場所に位置付けし、神の創造の秩序を乱すものではなく、これに適うものとして用いる必要があるのです。

            科学と神学の関係

 なぜ科学に神学が必要かと言うと、最初に申し挙げた様に、キリスト教神学から近代科学は生まれた、神学こそ近代科学の母胎であるからです。ですから、仏教はもちろん儒教も、そして同じ一神教でもイスラム教からも、近代科学は生まれず、またその問題の解決の道も示せないからです。事は自然科学の分野だけでなく、社会科学、人文科学等あらゆる科学分野において同様なのです。以下実例を述べます。

 2022年、哲学のノーベル賞と呼ばれる、“バーグルエン哲学・文化賞”を受賞した、日本の思想家、柄谷行人の「力と交換様式」(岩波書店)は、現代哲学の偉業と称えられていますが、評論家の佐藤優氏がこれは「柄谷神学」だと評したように、その思想に深く影響を与えているのが、キリスト教です。バイブルはもちろん、アウグスチヌス、宗教改革急進派、マルクス、ウエーバー、モルトマン・・が氏の思想の骨格にあります。仏教、儒教、イスラムは周辺的扱いですね。キリスト教神学抜きにこれからの世界は論じられないのです。

 さらに逆もまた真なりで、「聖俗革命」以後、聖書の奇跡や神話的表現に躓いた啓蒙理性による科学的批判を避けるため、神学は聖書を非神話化実存論的に解釈して自己を守ってきました。しかし歴史の進展は激しく、もはや神学も相対的な科学の成果に左右されることのない、実存分野に閉じこもるべきではなく、あらゆる現実の課題に答える責任を問われるようになったのです。

 そして現実の歴史で、キリスト教は近代革命に大きな貢献をしてきた事が再評価されているのです。近代自然科学、近代民主主義政治、近代資本主義経済の起源におけるキリスト教の影響、「聖俗革命」による神学排除、その結果の世界の惨状、キリスト教再評価による解決の道、これらを拙著「138億年のメタ・ヒストリー」で詳しく述べている通りです。

 カントをもじって言うなら「神学のない科学は盲目であり、科学のない神学は空虚」であるのです。確かに中世の様に科学は神学の侍女ではない、しかし近代にあっても好奇心のおもむくままの科学発展の結果、先に述べた様に人間のコントロールの効かない危機を招いています。そこで科学の方向付けを神学に求められているのです。例をあげます。

 日本の近代史家保坂正康氏が米国で講演、クエスチョンタイムにある生命科学の研究所の代表が保坂氏に質問。自分の研究室の成果が人類の益になるか疑問を感じ、研究室の国際的なメンバーに問うた。君たちの国で、科学的成果の倫理的判断は最終的にどこがするのか?と。米国人研究者は、それは教会だと答え、中国人研究者は中国共産党だと答え、日本人は?と日本人研究者に振られ返答に窮し、マスコミの世論調査かなと答え、ひんしゅくを買ったとの事。本当にそうなのか、と問われたと言うのです。倫理判断が世論の空気に左右されるのでは困る、聖書やマルクスの様な倫理基準が必要なのです。もちろんマルクスは神の言葉ではないので論外でしょう。そこで国立・私学を問わず欧米の有力な大学には必ず神学部があるのです。臓器移植、体外受精、遺伝子操作の人間への適用、LGBTQ・・生命倫理を中心として神学に判断を聞かれるのです。

        啓蒙理性以後の神学と科学の関係

 では、啓蒙理性時代以後の神学と科学の関係はどうか、と言う事です。つまり「聖俗革命」以後の神学はどうあるべきかと言う問いです。一方に啓蒙理性に依拠したリベラル神学は、結局相対主義に還元され、キリスト教のユニークな「塩の効き目」を」失っています。他方、啓蒙理性を無視・否定して、「反知性」的に聖書そのままを科学的真理として鵜呑みにする傾向の強い、いわゆるアメリカ福音派の一部「キリスト教原理主義」・根本主義者にも「独断的・独善的」誤りがあります。

 わたくしの福音派神学は、世界的福音派伝道者B.グラハム博士、福音派神学者J.ストット博士、A.マグラス等、啓蒙理性に適い、またその限界と聖書的福音啓示による解を目指す神学を指向しています。啓蒙理性一辺倒で神学否定の現代日本の識者も、反知性的原理主義の一部福音派も両極端で不毛の対立です。わたくしの立場こそ相互のリスペクトによる対話から豊かな実りが生まれると信じています。不易流行と芭蕉は申しましたが、変わらぬ神の言葉で(不易)、変わる科学(流行)に指針を示す責任があるのです。

         「成人した世界」

 具体的に述べましょう。ここからはカソリック神学を背景に持つ村上教授の業績から、プロテスタントの神学者ボンフェッファーの「成人の神学」に進みます。

 そもそも18世紀、啓蒙理性の哲学者I.カントの著「啓蒙とは何か」によると、“啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。”ということです。

 啓蒙とは成人になることだと言うのです。未成人つまり啓蒙理性以前の人は宗教と言う他者の指導と監督に従っていました。しかし、やがて人間は未成人から成長し成人して自分の理性で考え、自己の責任において行動するようになる。それが啓蒙主義だと言うことです。暗黒の世界を神の恩寵の光を頼りに歩むことから、人間は成人して自分の理性の光によって、世界を照らし、理解し利用して歩むと言うのです。そしてこの路線で人類は輝かしい「成人した世界」としての近代社会を形成しました。そして啓蒙理性に目覚めていない地域は、「未成人の世界」として発展に取り残されました。

 さらに人間は成人から進化し、20世紀末には理性によって、飢餓、病気、戦争を克服し、不老不死の幸福を手に入れて、神のように世界を支配する「ホモ・デウス」(神のヒト、「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」ユヴァル・ノア・ハラリ)になるとさえ豪語していました。しかし、その矢先の21世紀に入るや、コロナ禍で世界が疫病の恐怖に襲われ、ウクライナ、パレスチナで一般市民虐殺と言う国際人道法違反の理不尽な戦争を起こし食料危機と核攻撃の瀬戸際に立ち、産業は地球を汚染し、「地球沸騰」と気候変動は悪化、人類終末の警告を発しています。この惨状は「成人」から「神」を目指すホモ・デウスへの皮肉と言うか悲劇と言うか。

 ではどうすべきか?啓蒙理性の前に逆戻りすることは、幼児返りの退行現象であり、いまさら不可能です。かといって啓蒙理性一点張りは世界の惨状を見ればわかるように、余りにリスキーであることは明白です。

           「成人の神学」

 そこで「成人した世界」に生きる現代キリスト教では、「成人の神学」が説かれているのです。論拠のテキストはガラテヤ人への手紙にあります、「未成年であるうちは、・・後見人や管理人の下にいます。・・未成年であったときには、この世のもろもろの霊力に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神はその御子を・・お遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖いだし、私たちに子としての身分を受けるためでした。あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の御霊を、私たちの心に送ってくださったのです。」(ガラテヤ4:1~6、共同訳)。
「成人の神学」的に解釈すると、宗教の示す律法と言う「後見人や管理人」の指導と監督に従う奴隷の様な生活を余儀なくされていた未成人としての人間が、キリストの贖罪によって奴隷状態から解放され、成人として自由な生き方とされる。これが成人のキリスト者であり、神との関係も、主人と奴隷の様な恐れの関係から「アッバ、父よ」と親しく呼びかけられる父と成人した子どの関係になったのです。そこでもう一度、初めの愛、初心に帰って近代革命の母胎キリスト教が、その命である「新しいぶどう酒」を「新しい革袋」として提示した(マルコ2:22)、啓蒙理性以後の「成人の神学」の説くところに耳を傾け、この惨状を打開すべきなのです。もちろんリベラル神学発の「成人の神学」に、福音派神学のバプテスマを施してあることは当然ですが。

 先に述べた様にそもそも「成人の神学」は、ドイツのナチスの殉教者となった神学者ボンフェッファーの説いた神学文書の断片から出発しています。ヒトラー暗殺計画未決囚として獄中にあったボンフェッファーが友人に書き送った手紙(獄中書簡)に、書かれた神学的断想です。“「神は、われわれが神なしに生活を処理できるものとして生きなければならないということを、われわれに知らしめたもう。・・神の前で、神と共に、神なしにわれわれは生きる」「成人した世界は、神なき世界であり、そしてそのゆえに恐らくまさに、未成人の世界よりも神により近いであろう」、「後見人としての神を不要とし、宗教を卒業した『成人した世界』においては、キリストの現在(プレゼンツ)は非宗教的に経験されなければならない」「イエスは一つの新しい宗教に召したもうのではなく、(一つの新しい)生へと召したもうのである」「それはこの地上において神の苦難にあずかること」で「他者のための人間」となること。”等です。彼の神学は戦後、J.モルトマンの「希望の神学」やH.コックスの「世俗都市」の神学に大きな影響を与えています。

 1945年3月僅か39歳の短い人生の最後の断片的神学思想として現代に、彼の命によって贖われた遺言として残されたのです。ボンフェッファーは啓蒙主義以降の「成人した世界」ドイツに現れた、神ならぬヒトラーを救世主の様に崇める、啓蒙理性輝くドイツ民族を隷属させた新たな宗教としてのナチズムとその御用宗教化した大勢の「ドイツ的キリスト者」に抵抗し、少数の福音主義「ドイツ告白教会」を結成し、聖書の神と共に生き、神の御子イエスの召す声に従い、悪魔の化身と化したヒトラー暗殺計画に十戒(殺すなかれ)をあえて背いてまで参加、発覚の結果収容所で殉死したのです。
「これが最後です。 しかし、私にとっては生命の始まりです。」と言い残して。

 さらにボンフェッファーの友人で、別の視点でナチと戦ったM.ニーメラー牧師を紹介します。キリスト者政治学者の宮田光雄東北大学教授は「ナチ・ドイツと言語」(岩波新書)で以下のように紹介している。
M・ニーメラー牧師は、ナチス政権成立前後からドイツ教会闘争の指導者としてヒトラーと対決し、強制収容所に入れられた。1934年、ドイツの教会指導者たちが、ヒトラーに対して抗議の覚書を手渡すため首相官邸に出かけた。その時、激昂するヒトラーと、ニーメラーは激しい論争をくりひろげたようだ。
その後の37年、国家反逆罪で逮捕されたが、驚くことにニーメラーは無罪判決を勝ち取った。しかし釈放されたニーメラーは、裁判所からそのままゲシュタポにつれられて保護拘禁され、敗戦まで強制収容所に入れられた。 1945年、ナチス・ドイツは降伏し、ニーメラーは釈放され自宅に戻った。その年に、こんな夢を見た。

「私は白雲から発する眩いばかりの明るい光を見つめていなければならなかった。首を回したり、目を動かしたりすることはできない。光とともに一つの声が響いてくる。それは、私の傍らをかすめて、誰か別人に向けられている。しかし私は、首を曲げてそれが誰であるかを見ることができない。その声はこう尋ねている。『お前は何か申し開きをすることがあるのか』そして、それに答えている声を聞いたとき、私はすっかり仰天した。『はい、私は、かつて何びとも、福音を語ってくれませんでした』と答えるその声は、まさしくアドルフ・ヒトラーのものだったから。私は驚きのあまり目が覚めたが、雲間から聞こえてくる次の声が、私に向かってこう尋ねているのをはっきり予感できた。『お前は、なぜ、この男に福音を語らなかったのか。お前は、かつてたっぷりとこの男と一緒にいて、口論し、罵倒しあったではないか。それなのに、お前は、この男に福音を告げはしなかったのだ』と。

 ニーメラーは、この夢を何度もみたと言う。そして彼は、ヒトラーに抵抗した自分までも、また、かつてナチス・ドイツの成立と支配に対して共同責任があると自覚せざるをえなかったようだ。ナチへの共同責任を果たさなかったとはなにか?それは、ヒトラーに抵抗はしたが、福音を語らなかったことだ。彼はこのメッセージを戦後日本に招かれ日比谷公会堂で講演したが、抵抗運動に関心を寄せる聴衆には理解されなかった。「成人した世界」に福音派キリスト教はニーメラー牧師の視点で歩むべきでしょう。

 M・ニーメラーはこんな詩を残している。
ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。

教会の第一になすべき行動は、福音宣教なのです。もちろんボンフェッファーも「究極以前の救済」として社会救済の必要性を述べ、その必要を満たさないで「究極の救済」である福音宣教は不十分だと説いています。「究極以前の救済」は「究極の救済」の「道備え」であり、また教会は「究極の救済」福音を語る使命が神に与えらえているからです。

        現代日本の「成人した世界」で

 ボンフェッファーとは全く違う時代と文化状況に住む現代日本の私たち、異教社会で全くの少数派のキリスト者の私たち、そして「聖俗革命」以後の世界に生きる私たちには彼とは違う戦いの現場があります。日本の「成人した世界」の現実は、「後見人・管理人」として隷属を迫る現代日本の「神・宗教」=財力、権力、学力等の「力信仰」との戦いです。“まず学歴を求めなさい。そうすればすべてのものが与えられます。”(ジョゼフ・ピタウ上智大元学長の警告)。高学歴を手にし、政官財のトライアングルに属して勝ち組となる上級国民を目指す者と、その後見・管理下にある大多数のそうで無い「未成人」扱いの者たちとの格差。前者のおごりと後者の諦めと無力感、鬱積するルサンチマン。
キリスト者はこのような「もろもろの霊」(ガラテヤ4:3)のデモーニッシュな「力信仰」への隷属から、キリストの十字架・復活の贖いにより解放され、内住の聖霊なる神と共に自由な父なる神の子として「アバ、父よ」と親しく呼びかけられる「成人」した信仰者の生に召されているのです。そして人間はもちろん自然環境も含めた、隣人と環境への愛を科学をツールとして駆使して、「他者のために」生きたイエスの召しの声に、デボーションによって日々従う「成人した世界」の生が求められていると信じます。

         「世俗主義」と「世俗化」

「成人した世界」は「聖俗革命」以後の世界であり、「世俗」が「聖」より評価される世界です。しかしここで注意すべきは、「世俗主義」(セキュラリズム、secularism)と「世俗化」(セキュラリゼーション、secularization)の区別です。「世俗主義」は、社会の公的分野から「聖」なる領域・宗教を排除して、理性による非宗教的「世俗社会」を形成する事を国家として推進することです。「世俗化」とは、霊的活力ある「聖」なる信仰共同体が、「世俗社会」を聖書に従って「聖化」することです。歴史に実例を取りましょう。政治哲学者H.アーレントの著作「革命について」で説かれた様に、近代市民革命は2つの起源があります。

 一つは17・18世紀の英米革命であり、14世紀宗教改革急進派・16世紀宗教改革・ピューリタン精神に発するキリスト教起源の市民革命であり、それは中世カソリックの「聖俗二元論」から「世俗化」への改革です。つまり教会は「聖」なる世界であり、他は世俗の欲望と罪にまみれた世界である。そして世俗の過剰な欲望が生み出す富と共に、欲望の逸脱が生み出す罪を、教会の発行する「贖宥状(免罪符)」を買う事によって救済する、と言う「聖俗二元論」社会における宗教・世俗両者の利権癒着の構造悪です。対して宗教改革急進派・宗教改革・ピューリタン革命は、教会を介さないキリストの贖罪信仰による義という救済です。ここに教会=宗教からの解放という「世俗化」があります。

 さらに「祈り働け」をモットーとし、神に召された聖職である修道僧による聖なる修道院生活から、宗教改革は全ての世俗の職業こそ神の召命であるとし、神の栄光を現わし、隣人愛のために勤勉に働く「世俗」の「聖化」という「世俗化」に向かったのです。

 さらに同じ宗教改革でも、ルター派は「二王国論」で、なお中世的聖俗二元論の残滓があって、信仰生活と世俗生活の分野を区別しますが、後継のカルバン派の「聖書主義」は、世俗生活の全体を聖書によって聖化する、と言う徹底した「世俗化」が進められ、M.ウエーバーの近代政治の民主化、近代経済の資本主義化の動因となったことは明らかです。

 他方、もう一つの近代市民革命である18世紀後半の「フランス革命」は、教会の支配からの脱却を目指し、これを打倒し、そのイデオロギーが無神論的「啓蒙理性主義」でした。それは「聖」なる「教会」を公的社会分野から排除する「世俗主義」となり、フランスでは「ライシテ(世俗主義、非宗教化)」として、現代も宗教的風習を一切公的社会生活から排除し、移民のもたらすイスラム教の風習と衝突しています。余談ですが、現代フランスの指導者層は、ほとんど信仰に関心を持ちませんが、移民によるイスラム教徒のフランス社会浸透には拒絶反応(イスラム・フォビア」を示し、カソリック的伝統を守ろうとしている様です。歴史家I.トッドはフランスのインテリは“信仰なきカソリック”だと皮肉っています。

 という事で、わたくしたちの生きる「世俗主義」社会日本の状況で、「世俗主義」ではなく「世俗化」推進としての「成人の神学」を考察します。

神学的断片へのパラフレーズ

 ボンフェッファーの神学的断想をあまりに理論化するのは、彼の神学思考の生命を損なう恐れがありますが、あえて3つのテーゼ(神学命題)にパラフレーズ(敷衍、言い換え)して現代に生かしてみたいのです。それは彼の有名な断想「神の前で、神と共に、神なしにわれわれは生きる」です。

 彼の第一テーゼは、「神の前で」生きる、です。先に述べたように、日曜日の礼拝の様に宗教儀式や行事に参加する「聖なる時間・空間」だけに「聖」を限定し、平日は「俗」なる世界に神無しで生きる「世俗主義」的生ではなく、平日も「神の前」(Coram Deo, コーラム・デオ)で生きるのです。生の全領域で神の現臨(プレゼンス)を信じつつ生きるのです。具体的にはキリスト者の日々の“デボーション”にあります。現代ではビジネス・パーソンの世界でも、消耗したこころを、“マインドフルネス”瞑想で癒し、活力を回復しようとしていますが、み言葉のないところには悪霊も働くのです。しかしキリスト者はみ言葉の黙想と聖霊の潔め、満たしによる現実生活の「聖化」=「世俗化」を知っています。教会共同体公同の主日礼拝と共に、日々の個人的礼拝・デボーションは「神の前で」生きる秘訣です。

 第二テーゼは、「神と共に」生きる、です。親の様な上から目線の神ではなく、パートナーとしての神です。これが聖霊なる神です。三位一体の神は、創造者として父の権限を行使されました。今も世界の創造と保持と統治の業を継続、終末までなさいます。宇宙の最終責任者なる父なる神です。そして御子イエス・キリストも「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)と言われた。キリスト者もこのキリストと共にそれぞれに遣わされた場で、神のミッションを生きるのです。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)、ミッシオ・デイ(神の宣教・派遣)です。それは他律的に強制されるのではなく、また自律的に過去の史的イエスにならうのではなく、神律的に内住する聖霊なる神がキリスト者の、そしてその共同体である教会の愛の業と共にあって働かれるのです。

 この成人化のプロセスをP.テイリッヒは“他律(ヘテロノミー)・自律(オウトノミー)・神律(セオノミー)”と申しました。人は他者の庇護と抑圧に依存する他律状態から、自己の理性で判断し意志で行動し結果も引き受ける自律に進む。しかしそれは孤立し、他者を見失い生の無意味さに陥る。そこで自己と他者を根底から活かし支える無償の愛と命の神に目覚める神律へと進むべきなのです。

 第三テーゼは、神なしの世俗社会で「神なしで」生きることです。これにはさらに2つの面があります。

 まず近代以降、中世の様に宗教の支配に服従する次第は終わったと言う事です。子供の様にいちいち親の指示、助言を仰ぎ、親の責任の陰に隠れる子供の時代は終わった。人間は啓蒙主義により親の様な神から自立したのだ。キリスト教は啓蒙主義を反神論的な思想として敵視すべきでは無い。むしろ自立・成人した事を喜ぶべきだ。しかし神の役割は無用なのか?親は生涯、子の親です。同様に神はどこまでも成人した段階でも神なのです。成人した子供に対する親のあり方は変わるように、神も神から自立した「神なし」で生きる近代人=成人した人間に対する新たな対応をなさるのです。

 別な角度から話します。一から十まで箸の上げ下げまで子供に指示する、その代わり、指示の結果の責任も取る養育者としての神の役割は終わった。むしろ神は成人した人間は自己の理性により、自己の価値観、認識、判断、行動、そして結果の責任を取る事を神は求められるのです。V.フランクルは申しました。
“人間は生きる意味を求めて人生に問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない。あなたが人生に絶望しても、 人生はあなたに絶望していない”(「それでも人生にイエスと言う」春秋社)。
そうです、フランクルが経験したアウシュビッツの絶望的状況にあって自暴自棄の答えを出す人間も居ましたが、尊厳に満ちた愛の人もいたと言うのです。我々は、不条理な状況に陥った時、なぜ神がいながらこんなことが起こるのかと、神告発をします。しかしそうではないのです。その不条理な状況で君はどう生きるのか!が成人した人間には、神の前に問われるのです。これが「啓蒙主義」以後の神学のテーゼです。

 「神なし」で生きる第二の面です。にボンフェッファーはナチ抵抗の道を神の前に選び殉教しましたその極限を最期のイエスにおいて見ることができます。十字架に掛かられたイエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と言う、信仰厚き人には似つかわしくない、父なる神に見捨てられると言う絶望的状況に陥られたのです。今日も、神も仏もあるものか、と言う不条理で悲惨な状況をわたしたちは知っています。しかし実はそこにこそ、イエスはおられるのです。神なしの状況にイエスは寄り添う方です。イエスは神に棄却される状況の中から「わが神、わが神」と父なる神に呼びかけられたではありませんか。ここに神なしの状況にさえ、希望があるのです。神の沈黙、神不在の状況でなお寄り添う方がいる。呼びかけられる神がおられる。私たちは絶望しても、イエスは絶望されないのです。確かな世界の底が抜けたような、絶望的状況になお寄り添うイエスなる神が。死刑執行に向かうボンフェッファーは「これが最後です。 しかし、私にとっては生命の始まりです。」と言い残しています。彼は死の道をイエスと共に歩み、イエスと共に復活する新しい命を望んだことでしょう。

         成人した世界に生きる物語

 わたくしは最新拙著「138億年のメタ・ヒストリー」の終わりに、神なき「成人した世界」で生きるのは、悪循環の無意味な生き方ではなく、キルケゴールの説く「反復」、すなわちイエスの生に倣った生き方の反復こそ意味ある生だと説きました。今回はそれをさらに深く掘り下げましたが最後に、ある現代の物語を紹介します。イエスは良きサマリア人の物語をかたられた。わたくしはこの物語を現代バージョンの良きサマリア人物語のメタファーだと思います。

 その物語は「バベットの晩餐」です。わたくしはデンマークの女流作家カレン・ブリクセンの原作でなく映画で見たものですから、記憶も怪しく亀井バージョンになっているかも。
時はフランス革命の混乱期、家族を失い騒乱を逃れて革命の中心パリからデンマークの寒村に追っ手を逃れて潜んだ女性シェフ、バベットは村の教会の牧師館のメイドになる。当時のデンマークはルーテル派国教会で、牧師館を伝道者として守る初老の姉妹の父が昔篤い福音信仰で教会を立て挙げ、信仰の喜びを分かち合う村人の信頼を得ていた。しかし今や、信仰は冷め、村人は律法的な信仰で、禁欲的な貧しい食事、生活を信仰的と見做し、掟に反する者を相互監視し告発し合あう仲に堕していた。バベットは村人と教会の実態を知るにつけ、これを嘆き宝くじを当てて大金を得たとき、一計を案じる。村人を牧師館での晩餐に招くと言うのだ。やがて村人がかつて見たことのないような食材の数々が牧師館に届き、村人はいったい何が始まるのかと固唾を飲んだ。そして晩餐当日招かれた全村人の前に、華やかなフランス料理の数々が並ぶ。映画の食卓の豪華さのシーンは圧巻でした。禁欲的粗食を良しとする村人信徒は美味を押し殺して苦虫を噛み潰したような顔で食べていた。しかし、遂に耐えきれぬように“うまい”と誰かが本音を漏らして、堰を切ったように晩餐を賞賛、やがて歌が踊りが自然に始まり、村人信徒は見違えったように喜びに満たされ、以後教会の信仰も燃え上がった。革命がひと段落した時、牧師の娘たちは、バベットにパリに帰るのか?と問うと。バベットはそれはできない、わたしは宝くじで得たお金を晩餐会のため使い果たしたから、と告白した。

 これこそ宗教に形骸化した信仰が、福音の喜びによみがえる現代バージョンの良きサマリア人の物語メタファーだと思います。そしてその陰に、全財産を使い果たしたバベット、それは十字架に罪びとなるわたしたちの救いのため、血を流し肉を裂いて命の代価を支払われ罪を贖われたキリストの愛を暗示している。「高価な恵み」の福音です。

 わたくしは、単なる過去の物語ではなく、半世紀以上のわたくしの牧師人生で、世俗主義の浸透した日本の「成人した世界」に生きる、ボンフェッファーの様に名を残さずともイエスの愛に歩んだ多くのバベットが、よきサマリヤ人のような信徒がいることを証言します。神は神なき「成人した世界」のただ中に、生きて働かれるお方なのです。

「『この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか』。彼は言った『その人にあわれみ深い行いをしたひとです。』、するとイエスは言われた『あなたも行って、同じようにしなさい。』」(ルカ10:36,37)

 

 

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