信仰者に学ぶ(第一回)~アッシジのフランチェスコ(1)~ −中川晴久−


中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
主の羊クリスチャン教会牧師
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY-  論説委員

<はじめに>

 「自分が出会った神さまは、本当にそんな方か?」
 これは、私が信仰において迷ったときに、何度も自分自身に問いかけてきたことです。神さまと最初に出会ったあの瞬間、あの時。本当に心から「イエスを主」と告白した自分の信仰の原点に返ることは、大切なことです。

 自分の出会ったイエス・キリストと向き合い、神さまの召しに忠実に歩んだ人物として紹介したいのが、アッシジのフランチェスコです。とても分かりやすく真っすぐにイエスさまに向かった人です。プロテスタント教会では名前を聞いたことがあるくらいで、ほとんど馴染みのない人でしょう。しかし、まだカトリックとプロテスタントが分かれてない時代です。神はキリスト教界に面白い信仰者を輩出させたのです。今回は、このアッシジのフランチェスコについて簡単に紹介できたらと思います。フランチェスコを知るうえで、もっとも親しまれ読まれているのは『フランシスコの小さき花』です。

 

 

 

 

 

<フランシスコの生い立ち>

 フランチェスコは1182年にピエトロ=ベルナルドーネとピカ夫人(本名:ヨハンナ)との間に、イタリア中部にあるアッシジの町で生まれました。フランチェスコには弟アンゼロと妹が一人いたといわれています。父ピエトロは裕福な織物商人で、南フランスから商品を仕入れて、中部イタリアで商いをしていました。父ピエトロは商売をうまく成功させ、かなりの財を築いたようで、アッシジ市の政治にも口を出すようになっていました。ベルナルドーネ家は庶民階級ですが、父ピエトロは騎士階級に入ることを強く望んでいたのです。
そのため、息子にかける想いはベルナルドネー家の出世への期待であふれていたようです。父ピエトロは南フランスの文化に強く憧れを抱いていたため、息子のヨハネの名前をフランチェスコ(「フランスの人」という意味)という当時は風変わりな名前に改名しました。

 中世ヨーロッパは騎士道の時代です。騎士階級は世襲でしたが、何かで武勲をあげることができれば、騎士に取り立てられることもありました。贅沢を知り遊びふけっていたフランチェスコは、父親の願いもあって、商人から騎士になり、やがては貴族に列せられることを夢見ていたのです。

<アッシジとペルージアの戦い>

 当時アッシジは神聖ローマ帝国の統治下にありました。1197年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が事故死すると、それを機に各地で反乱が勃発しました。アッシジもまた皇帝側の貴族階級とそうでない市民階級に分かれており、1198年にアッシジ総督がアッシジを出た隙に、市民は貴族を追放して自治政府をつくってしまったのです。追放された貴族たちは、失った地位と財産を取り戻すために、隣町の宿敵ペルージアに助けを求めました。そのようにしてアッシジとペルージアの戦いが起こります。

 この戦いをチャンスとして武勲を挙げるために、フランチェスコも参戦します。ところが、彼は宿敵ペルージアに捕らえられ牢獄で1年あまりの捕虜生活を送ることになってしまいました。牢獄での劣悪な環境によって、フランチェスコは健康を悪化させてしまいました。しかしこの捕虜生活の中で、フランチェスコは一冊の福音書を手にしていました。彼を支えたのは聖書のみ言葉だったのです。父ピエトロが多額の身代金を支払ってフランチェスコをペルージャの牢獄から解放し、フランチェスコはアッシジに帰されるのですが、やはり牢獄での悪環境による病で長く病床につきました。そして、ようやく体力も回復して元気になったかに思えた頃、彼の心に変化が起っていたのでした。フランチェスコはかつての贅沢や遊興に心を躍らせることができなくなっていたのです。

<第一回目の回心>

 1年以上の捕虜生活、闘病生活、それらを経てなおもフランチェスコは騎士への夢を完全に捨てきれず、再び戦うために旅立ちました。ところがその途中で神に語られます(『三人の同志の伝記』)。

「主人(神)と僕(王)とに仕えるのでは、どちらが優れているか。」
「もちろん主人です。」
「ではなぜ主人に仕えずに、僕に仕えようとするのか。」
「では、わたしはどうすればよろしいのでしょうか。」
「故郷へ帰りなさい。何をすればよいか、そこで示されるであろう。」

 この語りかけが超自然的なものであったか否かは分りません。しかし、疑いなく神的な語りかけでした。フランチェスコはその声に素直に故郷へ戻ります。そのすぐ後に、フランチェスコの第一回目の回心が起こりました。

 ある日、馬に乗って城門を出ると、ハンセン病(聖書に出てくるツァラト)患者に出会いました。フランチェスコにとって、ハンセン病患者に会うことは最も苦痛なことでした。フランチェスコはそれまでハンセン病を何よりも酷く嫌っていたのです。病人を見てフランチェスコは嫌悪を感じて走り去ろうとしたとき、フランチェスコは見えない力に押し出されるかのように、馬から下りて、病人にお金を握らせて、その手に接吻をしたのです。

「私がまだ罪の中にいた頃、重い皮膚病を患っている人を見ることは、余りにも耐え難く思われました。それで、主は自らわたしを彼らのうちに導いてくださいました。そこで、わたしは彼らを憐れみました。そして、かれらのもとを去った時、以前のわたしには耐え難く思われていたことが、魂と体にとって甘味なものに変えられました。」(『聖フランシスコの会則と遺言』教友社「フランシスコの遺言」)

 フランチェスコはハンセン病患者を素通りすることがでなかったのです。そして、聖霊に押し出され、馬から下りてその手に接吻までしたということです。こから神のストーリーが目に見える形で展開していくのです。この後、フランチェスコはハンセン病患者の中に入って行き、そこで看病やお世話をすることを通して、彼らの声を聴き、痛みを知ったのです。フランチェスコの霊性は、当時世間がもっとも嫌い、見捨てられていたハンセン病患者たちの悲痛な叫びに教えられ、養われたのだということを忘れてはなりません。

 もう一つ、フランチェスコの生活に大きな変化が現れました。フランチェスコは一人で好んで野山に入って行き、自然を楽しんだということです。神さまを知った人にとって、その目に映るものはこれまでのものとは全く違ってきます。それは聖霊の語りかけを聞き、信仰の目を持つからです。信仰者は、目に見える現実の中にも見えない神さまの御業を見ます。一羽のスズメにも路傍に咲く小さな花にも、どんなものにも神の思いがあることを見ます。そして、被造物全体に、創造の始めに神が「良し」とされた姿を見ることができるようになります。フランチェスコはよく鳥や野の花、川の魚にも声をかけ、話をしたそうです。神の造られた被造物を、自分の兄弟姉妹と呼んだのは有名な話です。