柔和な者たちによる回復 − 井草晋一 −

<再録・再掲載>
このメッセージは、新生宣教団の機関紙『恵みの雨』の1999年7月号に掲載されたものです。
21世紀の今、あらためて「平和とは何か」「回復とは何か」が問いかけられています。
SALTY での「再録」として掲載致します。
なお、所属と立場は、掲載当時のものです。




井草晋一:SALTY 編集長
・ピヨ バイブル ミニストリーズ 代表
・Piyo ePub Communications 代表
・近放伝 IT伝道委員会・委員長

『柔和な者たちによる回復』 

— The Restration by the Meek — (1999年7月)

「柔和な者は幸いです。
 その人は地を相続するからです。」
     (マタイ5章5節)
 
            日本メノナイト・ブレザレン教団
              能勢川キリスト教会 牧師
                  井草晋一
 
 能勢川バイブル・キャンプの前を流れる一庫大路次川(旧称・能勢川)の川辺は、今、緑一色。一年で一番緑の美しい季節を迎えています。特に雨あがりの若葉は、一段とその輝きを増し、見る者の心を和ませてくれます。グランドに立つと、周囲の木々の梢を揺らし、どこからともなく風が吹いてきては、また通り過ぎて行きます。

 川西市の北部、周辺が住宅地として開発された後に、わずかに残されたのが、私たちの教会のある「能勢川バイブル・キャンプ」周辺です。そのためなのか、最近は朝と夕方には引きも切らず、キャンプ場の前を通勤の車が行き交うようになりました。この地に来て五年。最近気になるのは、この五年間だけでも、酸性雨か何かの影響による「自然破壊」がこの地でも拡大して来ていることです。松をはじめとして檜や杉、それも結構太い木までもが立ち枯れているのを目にします。
 さらに昨年(1998年)は、能勢川の上流の能勢町で、焼却場のダイオキシン騒動が起きました。農家や町民の方々が、農産物の販売不振や健康問題などで、どれほどつらい思いをされたことでしょうか。

 アダムの堕落以来、人は熱心に畑を耕し、熱心に仕事をすればするほど、創世記三章の「いばらとあざみ」に例えられるような、公害や自然破壊をもたらしてしまっています。
 それとともに、立ち枯れの木々や、奇形のカエル、チェルノブイリの原発事故による放射線障害で苦しむロシヤの子供達からは、切実なメッセージが発せられています。
 使徒パウロも同様に、ローマ人への手紙の八章で次のように語っています。
「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(19~22節)
 わかりやすく言うと、自然破壊で傷を受けた被造物全体が、福音宣教の結果として一人でも多くのクリスチャン(神の子どもたち)が誕生するように待ち望み、福音宣教の担い手たちとともに産みの苦しみをしているというのです。
 
 それでは、「人々の愛が冷え、民族は民族に、国は国に敵対し、偽キリスト、偽預言者が出現し、戦争のニュースが毎日のように世界中を駆け巡る」時代を前にして、神様が、そして世の人たちが求めている宣教の担い手とは、どんな人々なのでしょうか。

熱心さはどこから?

 神は、「熱心を外套として身を包まれた。」(イザヤ59章17節・口語訳)」とあるように、熱心に仕える者を祝し、受け入れてくださるお方です。けれども、「熱心」と訳されるギリシャ語の「ゼーロス」は、「ねたみ」という意味もあるとうり、時として私たちは、人間的な熱心さによって、神と人に仕えている場合があります。このような熱心さは、人を高ぶらせ、独善的にし、他者を批判し、兄弟姉妹の関係を損なってしまうものです。また逆に、周囲から正当な評価が与えられないと、その人をひどく落ち込ませてしまうものです。
 現代に生きる私たちは、豊かさを熱心に追求する社会の中で、仕事や生活をしています。その結果、テレビの宣伝に踊らされて、必要以上に快適な生活を求め、自然破壊や環境汚染の一翼を担わされているのではないでしょうか。
「世の富を用いる者は用い過ぎないようにしなさい。この世の有り様は過ぎ去るからです。」(コリント 第一 7章31節)との御言葉に聞き、キリストの弟子としての「シンプル・ライフ」を選択していくべきではないでしょうか。
 また、仕事に熱心なあまり、他の人の協力をあおいだり、仕事を分かち合って共に生きる社会を築くことができず、その結果、社会も個人も燃え尽きた状態になっているという昨今です。
 現代で言う「燃え尽き症候群」の状態になって、神の山ホレブで、「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、……」と神に訴えた預言者エリヤ。今、私たちが彼と同じ心境で祈り、悔い改めたとき、神は私たち自身の熱心を超えた新たなビジョンと使命をお与えくださると、聖書は約束しています。(列王記 第一 19章)

  木は 自分で動きまわることができない
  神様に与えられたその場所で
  精一杯枝を張り 許された高さまで
  一生懸命伸びようとしている
  そんな木を
  私は友だちのように思っている
   (星野富弘著・立風書房『風の旅』より)

剣を捨てる幸い

 私は五年前、新たな主の召しを確信し、人間的な熱心さではなく、「自分のうちに力強く働くキリストの力」(コロサイ1章29節)、つまり、聖霊様の御力により頼んで行くように導かれ、九五年の四月に現在の教会に赴任しました。けれどもそのころ、ちょうどエリヤのような「燃え尽き症候群」の様相を呈していたのです。
 主は翌年の八月、イザヤ書50章4節~9節の御言葉をもって臨んでくださり、人間的な熱心さではなくて、ありのままの自分自身で主に従っていくこと、そして、他の人を攻撃したり、批判したり、自分自身を防御するための一切の剣を捨て去ることを求められたのです。祈りの後、妻に、「ママ、御言葉をいただいたので、もう大丈夫だよ。」と声をかけました。
 数日後、ピアノを弾いている妻のそばで、聖歌を何曲か歌っているとき、「パパ、この曲どう?」と言って私に差し出したのが、スコットランドの盲目の牧師、ジョージ・マセソンの讃美歌でした。妻のピアノの伴奏で歌う中で、もう一度、大きな慰めと励ましを受けたのです。

「主のほりょなる」(聖歌257番) (*注1)
「主よ、われをば とらえたまえ」 (讃美歌 333番)

原歌からの訳(『賛美歌・聖歌物語』大塚野百合 著  p.89〜90より)

1、主よ、私を虜にしてください。そのとき私は自由になります。
  私の剣を取り上げてください。そのとき私は勝利者になります。
  生きる恐怖におののきます、自分ひとりで闘うとき。
  あなたのみ腕に閉じ込めてください。そのとき私の手は強くなります。

2、私は弱くて、貧しいのです、主を見出すまでは。
  たしかな行動の原動力に欠けており、風が吹き去るもみがらです。
  鎖でつないでくださらないかぎり、私は自由に動くことができません。
  あなたの無比の愛で私を虜にしてください。その時私は死にうち勝ちます。

3、私は気弱な人間です。あなたに仕えることを学ぶまでは。
  あなたに動かされるまでは、燃える火を持たず、世界を動かすことはできません。
  あなたが天からみ霊(たま)を注いでくださるとき、私の旗は翻(ひるがえ)るのです。

4、あなたの意思を私の意思にしてくださる時、私は自分の意思を持つことができます。
  私の心が王座に届くためには、私自身の冠を投げ捨てるべきです。
  激しい闘いのさなかに、ひるむことはありません。
  あなたのみ懐(ふところ)に憩うとき、あなたのなかに命を見いだす時。
 

 アダムの時代以来、剣は人間の欲望の拡大のために際限なく用いられてきました。単に戦争や復讐の道具としてだけでなく、裁判、さまざまな交渉の場、人間関係のトラブルの中で、見えない剣としても用いられてきました。その結果、夫婦の間に溝ができ、家庭は傷を受け、人間関係は損なわれ、環境汚染と自然破壊は取り返しのつかないところまで進んでいます。
 今、神は、ペテロに語られたように、剣を鞘におさめ、また、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すように命じておられます。(イザヤ書2章4節)
 神は、和解の福音を、御言葉どうりに剣を捨てた者たちにゆだねてくださいます。そのような福音宣教の担い手たちこそ、地域社会の人々に大きな慰めを与え、著しい救霊の実を結んでいくのです。まさに、「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」(マタイ5章5節)とあるとうりです。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」 (マタイ11章29〜30節)

カルバリの丘へ

 柔和な者たち、真実な弟子の歩むべき道は、カルバリの丘に続いています。それは、かつて復活の主がガリラヤ湖畔でペテロに告げたメッセージ、「……しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れていきます」(ヨハネ21章18節)との御言葉そのものです。
 使徒パウロは、第二次伝道旅行を終えて帰ってきた時、カイザリヤの伝道者ピリポの家で、「……私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」(使徒21章13節)と答える中で、カルバリの主の後をついて行こうと心に定めていました。
 環境汚染、自然破壊、民族紛争、災害、飢饉。
終末の時代に、あえて飲まずにおれない主の盃を受け取り、和解の福音を携えて出て行こうとする人は誰でしょうか。 
 もしかすると、主はすでにあなたを柔和な者たちの一人として選ばれ、かすかな細き御声をかけてくださっているのかも知れません。

 緑あふれる林の中で、芽生えて数年の松の若木を見つけました。ここ十年、二十年の間に、ほとんどの松が枯れてしまっていたのに、新しい世代に命が受け継がれていたのです。  
 死に至るまで、主イエスさまの御足跡をたどって行きたいものです。
 
   散りぎわに紅の色増す山桜
    笑顔優しきかの人に似て

 

               
(原文:『恵みの雨』1999年7月号)

*注1— 「恵みの雨」の紙面では、聖歌 257番 の歌詞を記載。