クリスマスメッセージ~小さき者として~ -中川晴久-

 

 

中川晴久
東京キリスト教神学研究所幹事
主の羊クリスチャン教会牧師
SALTY 論説委員

 

クリスマスメッセージ~小さき者として~
マタイ3:16-17

<クリスマスとは>

 クリスマスとは、「キリストのミサ」の意味でキリストの誕生をお祝いする日のことです。ルターはクリスマスの次の主日礼拝にて、「キリストを信じるとき、その人に定めの時が来るのです。」(W.A.10.I.352ff.)と語っています。
つまり私なりの理解でいうと、私たちキリスト者にとって、イエスさまを信じたその日がクリスマスということでもあります。イエスさまが実際にお生まれになったのは、冬ではなく秋ごろであったといわれています。ミトラ教の太陽神を祝う冬至の祭に、クリスマスをキリスト教の祭りとしてぶつけたという話も聞きます。

 みなさんはイエスさまを信じた日がいつだったか覚えていますか? あの時、あの瞬間!という体験を覚えている人もいるでしょうけど、それが何月何日だったかは記憶にないでしょう。ですから、私たちは「洗礼日」を私たちの霊的な誕生日としてお祝いしています。イエスさまも生まれたのは何時だったか分かりません。そこで12月25日をクリスマスとしてお祝いしているわけです。

 今日はこのクリスマスをイエスさまの洗礼日に重ねて、マタイ3章16節から17節を見てみたいと思います。

<声を見る>
新改訳聖書マタイ3章16節、17節

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 イエスさまも洗礼を受けられました。このとき、17節に「天からこう告げる声が聞こえた。」とあります。しかし、ここではギリシャ語70人訳にある「見よ」という語が抜けています。私の尊敬する手島郁郎に言わせると、「見よ、語りつつある天の声を」というのが正しい訳だということです。そして見るのは「声」だというのです。さらにただ耳で何かを聞いている間はダメだといいます。「天の声」を見よ!と。

「見よ!」というのは、視点を定める方向を言っているのでしょうけど、しかし、そうだとしても天の御国は霊的な国ですから、私たちは霊の目を開いて見るのでなければなりません。まさにその「声」を見るに至って、初めて私たちは真理を見るということになります。

 イエスさまがこの世に来られるまで、多くの人たちが聖書を読んで、神は「ああだ!」「こうだ!」と聖書を開いて裁きあっていたのです。ところが、その神ご自身がこの世に来られました。そうしたら、まるで違ったわけです。見て初めて知って驚くのです。それもそうです。「見よ!語りつつある天の声」の主は、一人のみどり子として来られたのですから。

<小さな赤子>

さて、親ならばいかなる状況においても、自分の子を守ります。まだ赤ちゃんであれば、なおさら無条件です。たとえ自分の生活が苦しくとも、多くの困難があっても、この世の思い煩いがあっても、それでも親は無我夢中で赤ちゃんだけは守ろうとするでしょう。
同じく、人が大切に守るべきもの、神さまはそのようなものとして来られました。最初のイエスさまの誕生を祝った羊飼いたちがクリスマスに見たものは、そのような神です。

 人が自分を大切にしてほしいときに、どうするかといえば、たいていの人は大声で叫びます。大声を出せば、周りの人たちはなだめようとしてくれるし、妥協してわがままを聞いてくれます。でも、イエスさまは全く違ったく反対です。赤ちゃんとして小さく、人間がただただ大切すべきものとして現れました。
私たちが聖書を読むときもそうです。この聖書の御言葉をただただ大切なものとして受け取ることが大切です。

<小さき卵>

先代の牧師が教会開拓のときに、私にこんな質問をしました。
「中川君、この教会をどんな教会にしたい?」
私は即答えました。
「聖書の御言葉を解き明かす教会にしたい。」
すると牧師は素っ気なく、「そういうのに興味はないな。」と言い、それをいぶかんだ私に対して、先代は食卓の生卵を1つとりあげて、こんなことを話はじめました。

「中川君のやろうとしていることは、この卵を割って中の成分は何かを調べようとしているような感じがする。それよりもこの卵を温めてみたくないか。こんな卵でも温めると、ヒヨコがでててくるし、ニワトリになる。温めるだけで命がでてくる。そんな神の奇跡が見れる教会にしたいな。」

この先代の言葉が、私の信仰の歩みにとって大きな転換となりました。小さくてもいい。それを温める。そう考えてみると、どうしたら天の御国の「声を見る」ことができるか分かるような気がします。小さくなればいいのです。イエスさまは小さなものとして生まれました。教会が大きな者の集まりではなく、小さき兄弟姉妹の集まりであれば、そこに天の御国は開けて見えるでしょう。

<小さき者として>

私たちは大きな道は歩めなくても、小さな道は歩めます。
私たちは大きな手を差し伸べることはできなくても、小さな手は差し出すことができます。
みなさん、どうでしょう。誰かに助けられたとき、その人は偉い人でしたか?
おそらく、そうではない心ある人の小さな言葉、小さな支え、小さな助けによって、助けられたのではないでしょうか。

なぜ、天の御国の声が「見えない」のかといえば、私たちが大物になってしまっているからです。イエスさまが小さく来られたのに、私たちが大物になってしまったら、たちまちイエスさまが見えなくなります。
もし、私たちが小さき者として霊の目が開かれたら、この教会にキリストが満ち満ちておられることが分かります(エペソ1:23)。至るところで、兄弟姉妹の中に、人びとの中に、至るところに小さくおられるイエスさまを見ることができるでしょう。
クリスマス、イエスさまが小さくお産まれになったことを、心にとめましょう。