和敬静寂・和敬清寂 −久保田典彦−

『キリシタン史からのメッセージ』
 高槻・Ucon:第30回 

 

 

 

 

━ 久保田 Ucon 典彦 ━

阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰

和敬静寂 ・ 和敬清寂 

 

● 髙山右近たち、キリシタン時代の 茶の湯において、大切に考えられていた 3つの事柄は、

 「 市中の山居(しちゅうのさんきょ) 」 「 和敬静 ( 清 ) 寂(わけいせいじゃく) 」 「 一座建立(いちざこんりゅう) 」 

 ━━ ということでした。

 

 これらのことを 極めながら、

 “ 世間の すべてのものから離れて、真の 心の自由に至り、世の移り変わりを越えて、心の安定と平和に至る ”

ことを 目指していったのでした。

 

● [ 和敬静寂( 和敬清寂 とも ) については、

  南都 ( 奈良 )・称名寺の僧 珠光 ( 村田珠光 ) が、茶の湯の本義について語った言葉

  「 能和 能敬 能静 能寂 」 ━━ を 簡略にして、「 和敬静寂 」 の四字で表したものです。

  よく和し、よく敬い、よく静まり、よく もののあわれを きわめていくのが、茶の湯の道だ ━━ と いうのです。

 

 当時の 茶の湯のあり方に 一石を投じたもので、村田珠光が “ わび茶 ” の創始者である、とも言われます。

  珠光の “ わび茶 ” の心を発展させた 武野紹鷗 は、 「 心ただしく、慎み深く、奢 ( おご ) らぬさまを、茶事の本旨とする 」

と 言っています。

  能(よ)くよく、「 和敬静寂 」 の心を追い求めながら、その境地に達していこうとするのが、 [ 数奇 ] ( すき・わび茶 ) の道!

  自らの 努力を重ね、その 修養の結果として、真の心の自由・心の安定と平和を求めていこうと しています。

 

● 髙山右近たち、キリシタン茶人たちは どうなのでしょうか?

  「 和敬静寂 」 に対応する 聖書の言葉としては、イエス・キリストが “ 山上の説教 ” で語られた

 「 八福 」 ( 8つの 幸福・祝福 ) が、思い起こされます。

 

「 心の貧しい者は 幸いです。 天の御国は その人たちのものだから。

 悲しむ者は 幸いです。 その人たちは 慰められるから。

 柔和な者は 幸いです。 その人たちは 地を受け継ぐから。

 義に飢え渇く者は 幸いです。 その人たちは 満ち足りるから。

 あわれみ深い者は 幸いです。 その人たちは あわれみを受けるから。

 心のきよい者は 幸いです。 その人たちは 神を見るから。

 平和をつくる者は 幸いです。その人たちは 神の子どもと呼ばれるから。

 義のために迫害されている者は 幸いです。 天の御国は その人たちのものだから。」

   ( マタイの福音書 5 3 10節 )

 

 貧しい・悲しい・柔和・義に飢え渇く・あわれみ深い・心がきよい・平和をつくる・義のために迫害される

 ━━ このような、8つの 大変な状況にあっても、 “ 幸いである ” と言える・思えるのが、キリシタンである

 ━━ というのです。

 このような、大変な状況にあっても、「 和敬静寂 」 のこころの状態を保つことが出来るのが、キリシタン ( クリスチャン ) だ、と言うのです。

 

 そんなことは ありえない! ━━ と 思われますか?

  キリシタンは、この世に 価値観を置いていません。

 この世の価値観から、解放されています。

 天をめざして、旅人として歩んでいるのです。

 

 髙山右近たち・キリシタンの場合、 

「 八福 」 ( 8つの幸福 ・ 祝福 ) は、

 自らの努力を重ねていって、その修養の結果として 到達する境地では ありません。

 デウス・キリストと、しっかり 結びついていれば、神・デウスの方から与えられる 幸い・祝福です。

 努力に対する結果ではなく、一方的な 神の恵みです。

 

 髙山右近たちが すべきことは、デウス・キリストに しっかりと結びついていることで、

 その結果として 与えられていくのが、 「 和敬静寂 」 や 「 八福 」 の境地であったのです。

   

 ※冒頭の写真:
『茶室で祈る髙山右近』  柳柊二・画
( 髙山右近研究室・久保田 蔵 )

 

 

 

 

 

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久保田 Ucon 典彦

阿武山福音自由教会 教会員
「髙山右近研究室・久保田」主宰

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「髙山右近研究」をライフワークにしています。
髙山右近やキリシタン達を通して、いっしょに考えていければと思います。