コロナ禍における礼拝の自由 −明石清正−

・写真:Grace Community Churchの礼拝の様子

 

 

 

明石清正
SALTY論説委員
カルバリーチャペル・ロゴス東京 牧師
ロゴス・ミニストリー 代表

 

 我が国の政府の新型コロナウイルス対策で、世界の中で特徴的なのは、「強制力がない」ということです。世界中で、同じ自由民主主義体制の国々で、数々起こっている公権力の暴走、監視社会の拡大が見受けられる中で、日本国憲法を遵守し、私権を守るべく抑制しています。アメリカ、韓国、オーストラリア、イスラエルと比べ、そして日本を考えてみましょう。

礼拝を献げることによる罰金や逮捕

 こちらの世界宣教の祈りの課題をご一読ください。

【9月1日世界宣教祈祷課題:米国】

 アメリカの多くの州では、屋内で礼拝を献げると罰金、もしくは逮捕までされるという状況になっています。私は、ここで取り上げられている教会と同じカリフォルニアにある教会とのつながりがあり、注視していました。3月における流行では確かに、ほとんどの教会が知事の命令に従っていました。5月になってもその禁止令が解除される様子がなく、多くの教会がペンテコステ礼拝(5月31日)を契機に再開を始めました。ある時は、「礼拝は献げてよいが、賛美の歌は歌ってはいけない。」とされ、そして今は屋内の礼拝を禁じています。

 ここで大事なのは、感染対策は取る最善の努力をしていると訴えても、一律に禁じられていることです。確かにクラスター現象は教会などの集会で起こっています。けれども、感染する可能性として同等はそれ以上かもしれない施設や集会は許されているのに、教会には厳格な基準が設けられてるという不公平感が残ります。この記事に出てくるGCCは、今現在、教会が借りている公の駐車場が使えなくされ(記事)、9月10日には、逮捕もしくは罰金の判決を、ロサンゼルス高等裁判所が下しました。(記事

カジノは許されても教会は駄目

 最高裁にまで争われた裁判もあります。ネバダ州にあるカルバリーチャペルが州を相手取って訴えました。

Supreme Court’s Decision Allows Nevada Governor to Favor Caesars Palace Over Calvary Chapel
(最高裁の決定は、ネバダ州知事がカルバリーチャペルよりもカエサル宮殿を大事にしてよいと許容している)

 ラスベガスにあるカジノなどの施設では、「収容人数の半数」に抑えるという条件なのですが、教会は一律に50名以下に抑えるように命じられていました。けれども、そこの教会の礼拝の建物は200名収容で、90名の出席者です。カジノやバー、ジム、レストランと同じ「半数」の基準であれば、可能です。このことを訴えたのですが、最高裁でなんと、州の命令が優先されました。少数派の反対した判事2名は、どちらも憲法修正第1条を取り上げています。

「議会は、国教の樹立を支援する法律を立てることも、宗教の自由行使を禁じることもできない。 表現の自由、あるいは報道の自由を制限することや、人々の平和的集会の権利、政府に苦情救済のために請願する権利を制限することもできない。」(ウィキペディア

 日本国憲法では第二十条に信教の自由が定められていますが、合衆国では第一条に宗教の自由が前面に銘記されており、そこから表現の自由、報道の自由、平和的集会やデモの自由が定められています。ここまではっきりしているのに、カルフォルニア州では、教会の礼拝の賛美は禁じていても、BLM(Black Lives Matter「黒人の命も大事」の意)のデモでの大声での掛け声や歌は許していました。(記事

「礼拝」を「不要」とみなす人の心

 公権力で起こっている、信仰者が訴えなければ明らかにされなかった不公平ですが、これは、コロナ対策をしている普段の私たち人間の行動を見れば、よく分かることではないでしょうか?日本では「不要不急以外の外出はお控えください」という掛け声がありました。それで多くの教会がオンライン礼拝に移行しました。けれども、休日である日曜日に、ほとんど人のいない電車を利用して教会に行くことを控えても、日々の買い物や仕事にはいく人々が多かったのではないでしょうか?「それは、どうしてもしなければいけないこと」と言われるかもしれませんが、礼拝はどうしてもしなければいけない霊的な活動のはずです。しかし、信仰者でさえ、感染予防という具体的な対策を考える時に、優先順位がずれてしまいます。ましてや、世俗の公権力が、スーパーでの買い物と同じぐらい、礼拝が大事だというようには考えが至らないというのは、うなずけます。

 けれども、そういったことがないように敢えて不自然な宗教の自由を前面に持って来たのが合衆国憲法のはずですし、日本の現憲法です。この自由のために建国されたはずのアメリカが憲法違反ではないか?と思われることを行い、敗戦後、GHQの働きかけによって作成、施行された現憲法を日本国が、コロナ流行下でも遵守しているということは、皮肉でもあり、とても興味深いことであります。

感染対策ならず政治対策?

 アメリカで起こっていること以上に、教会に厳しい処置を行っているのがお隣の韓国です。再び、祈りの課題として投稿されたこちらの記事が参考になります。

偏向的政策

文在寅大統領が27日、韓国プロテスタント教会の指導者らを青瓦台に招いて新型肺炎の拡大防止に向けた政府の努力に対する教会の協力を呼びかけた。[写真 青瓦台写真記者団]

 かねてから、文在寅政権反対デモを行っていたサラン第一教会などの教会でクラスター化したことによって、現政府がプロテスタントの教会全てに対して礼拝をオンラインに移行せよという命令を出しています。8月27日に、文大統領とプロテスタント教会の代表の会合が行われ、そこで代表は制限を設けた礼拝を提案したもの、拒否されたとのことです。ここでも問題にされたのは、カトリック教会や仏教の礼拝はよいが、プロテスタントは駄目とする不公平さ。一部の教会だけなのに、教会全体の礼拝を禁じる非合理性を取り上げています。

 ただ韓国は、アメリカよりもさらに政治性を帯びているようです。8月15日に全く同じ時間に、ほとんど同じ場所で、現政権の反対デモと、支持するデモのどちらも行われました。ところが、反対デモの参加者のみに徹底的なPCR検査が行われたという事実です。さらに、この日のデモで感染が拡がったというならば、明らかにされるのは当然、潜伏期を経てからであるのに、集会直後から感染が拡大したという、ネガティブキャンペーンが始まったということがあります。

フェイスブックに投稿しただけで手錠がかけられる

 次はオーストラリアです。

Pregnant Australian mom arrested for Facebook post planning lockdown protest
(オーストラリアの妊婦が、フェイスブックで都市封鎖抗議デモの計画を投稿しただけで逮捕される)

Police in Victoria arrest Zoe Buhler.

 フェイスブックで、妊婦のお母さんが都市封鎖に対して、抗議の声を上げようとのことで、その日を告知しました。二人の子供の見ている前で、警察が彼女に手錠をかけます。彼女は、「では即座に削除しますから」と言っているのに、それでも逮捕令状が出ているので、逮捕してしまいました。理由は、「抗議集会を計画することは、公衆衛生を危うくする。」ということです。

 オーストラリアも、BLM(黒人の命は大事だ)などの抗議集会は許可されています。集まれば、同じように感染リスクは高まるはずです。都市封鎖に抗議しようが、黒人の権利擁護のために抗議しようが、ウイルスは差別しません。けれども、前者は、フェイスブックに投稿しただけで(しかも削除すると言っているのに猶予を与えず)逮捕、後者は許されるのです。

ユダヤ教の集会は厳しく制限され、デモ権は許される

 同じようなことが、イスラエルでも起こっていますね。

【宗教リテラシー向上委員会】 カハル(会衆)とデモ

 イスラエルは今、第二波の只中にあります。厳しい都市封鎖が開始されました(9月11日現在)。ユダヤ教超正統派の住む地区で流行が起こっているため特に厳しくされていますが、大規模なデモは許されています。イスラエルはユダヤ人国家で、ユダヤ教がその中心的支柱にありますが、民主主義国家でもあり、デモはイスラエル人は好んで行います。ところが前者に対して政府は厳しく対処できるのに、後者は歯切れが悪い。やはり、「神」という目に見えない存在に対して、目の前の感染予防を突きつけられると、制限しやすい対象なのでしょう。

礼拝中止を要請する日本の諸教団

 日本の安倍政権は、コロナの流行と共に支持率が落ちました。その対策は手ぬるいとして、2月から厳しい批判にさらされました。私が驚いたのは、普段は、信教の自由が侵されるとか、戦前に回帰するかもしれない政府を監視し、反対する傾向の強い、日本のプロテスタントの教団の一部が、一律に礼拝を停止することを決めたことです。そこには、戦時中、牧師たちが投獄され、拷問も受けた迫害の歴史を持っている教団もあり、それぞれの諸教会に事情はいろいろあって、必ずしもオンラインに切り替えなくてもよい状況かもしれないのに、一律にお達しを出したところもあります。礼拝中止要請を出した時に、以下の根拠を挙げていました。

「もしも教会の集会で集団感染が発生してしまった場合、本人だけでなく、家族や近隣の方々に大きな迷惑をおかけするとともに、周囲から多くの誹謗・中傷を受けることにもなります。」(一部抜粋

 戦時中、キリストを王とする信仰が、天皇や国体を軽んじることが、家族や近隣、国民に迷惑をかけ、誹謗中傷を受けるからということで、諸教会の多くが妥協した、ということが強い悔恨と反省だったのではないでしょうか?

 また、教会は、コロナ感染の拡大をなるべく防ぐことによって地域への愛を示すと共に、それだけでなく、コロナ流行によって、経済的にも心的にも苦しんでいる人々が急増することが予想されたのではないでしょうか?集まる形の礼拝がどれだけ人々に癒しをもたらすか?という霊的側面は、私たちキリスト者こそ知っているはずです。そういった意味での社会貢献、バランスをもった社会的貢献を考えなかったのでしょうか?

 感染拡大を抑止する努力を批判しているのではありません。そうではなく、もっとバランスのもった冷静な判断ができたのではないですか?という問いかけです。

「恐れ」は人を狂わせる

 今年2月以降、普段は、安倍政権が右翼化する、国粋化する、現憲法を変えようとしていると批判している勢力が、緊急事態宣言をどうして早々に出さないのか?という批判をしていた時に、私は、「こうやって戦時中は、国民のほうから自由を制限していったのではないか?」と戦時中のことを思ったほどでした。戦時中の軍国主義は、軍部のせいでもあったが、国民が草の根で突っ走ったからに他ならないという指摘は、しばしば行われますが、私も、コロナ感染よりもこちらのほうが恐ろしいと思ったものです。

「日本の軍国主義は軍部だけが国民を振り回して戦争に突き進んだ、というものではなく、軍部が主導しつつも新聞やラジオを活用して国民を戦争への熱狂へと盛り立ててはじめて可能になった、というものである。」
「草の根の軍国主義」の書評から)

「三密を避けながら礼拝を守っているのですか?」

 私は、起業家や経営者の方々が集まる団体で、聖書の解説をする勉強会を任されていますが、緊急事態宣言の解除の兆しが見えてきた5月、小グループの中で、政府中枢に近い議員の方と同席(ズームの中で)しました。私が牧師だとご存じのその方の第一声が、「明石さんは、三密を避けながら礼拝を守っているのですか?」という質問だったのです。非常に驚きました。

 私たちの教会は、一度だけ4月初めに全面オンライン礼拝にしましたが、祈っても心に平安がなく、対面の礼拝を再開させました。幸いにして、その時に初めていらした方が復活祭礼拝の時に信仰を持ち、7月には水のバプテスマも受けました。緊急事態宣言中は、礼拝にいらっしゃる方々は少なかったので、その分、感染予防ができましたし、休日の電車はがらがらです。オンライン礼拝も継続しました。

 緊急事態宣言において、都道府県の知事は休業要請を出すことができます。私は東京にいますが、都のサイトには休業要請のリストの中で、神社仏閣、そしてキリスト教会は「対象外」と、しっかりと明記されているのを私は確認しました。おそらく日本全国の自治体において、宗教施設に対する特枠があったかと思われますが、日本政府は、先の議員の質問のように、意図的に、意識して、公権力で宗教活動を制限することを避けていたことが分かるのです。

 これを当たり前に思ってはいけないことは、これまで挙げた、アメリカ、韓国、オーストラリア、イスラエルなどで当局が、手錠をかけるまで私権を制限する事態になっている中で、大海にある孤島のように、日本だけが守られているということを、祈りの中で覚え、神に感謝しています。

「日本国民ならできるので、頼もう。」

 「コロナと共に、制限を受けながらも社会活動を継続していく」というのが、日本の基本姿勢ですし、私も賛同しています。そもそも、感染予防対策は、国民が感染予防意識を高めることによって成り立つものです。公権力が、警察が取り締まることによって成り立ちません。一人一人の意識が大事であり、それを日本政府は熟知しており、現憲法に遵守することからも、国民に強制できないことを知っていたのです。

 西村経済再生担当大臣が明かしたことですが、安倍首相と、緊急事態宣言を出すが、拘束力がないのに大丈夫か?と話し合っていた時に、首相はこう言ったそうです。「日本国民ならできるので、頼もう。」(記事)私はこれを聞いて涙しました。感染予防においては、強制力ではなく、信頼関係が必須です。ここまで首相が、国民を信頼してくれているのか!と思ったのものです。どんなに非効率のように見えても、それしか方法がないのです。そうでなければ、徹底した監視社会しかないのです。

 それが、いろいろな国の当局には分かっていない。そして、どんなに努力しても、当局は、完全な公平性を保つことはできていないのです、あまりにも限界があります。また、「不要不急」が何であるか、その厳密な定義は人それぞれなのです。キリスト者など宗教者にとっては、礼拝はサークル活動でも何でもありません、「必要不可欠(Essential)」なものです。しかし、公権力が判断できると思っている前提こそが、傲慢です。

 感染が神の許しの中で起こっていること。当局は自分たちで封じ込めることはできないこと。いい意味で降参すること。これを学ばないといけません。異教の国と言われている日本、言葉には表現してませんが、自然の驚異に対しては、それに近い感覚を持っていると感じています。キリスト者も、ウイルスというのが神の御手にあることを知って、自分を守ろうという恐れではなく、むしろ、このことをもって神がご自身の力を現しておられることを、同じ恐れでも、神への畏れをもって生きていきたいと思います。

 詳しくは下の拙記事で書きましたので、よろしければお読みください。

コロナ禍が現代社会に警告する神学的課題:「創造の秩序」と自然界への慎み

感染症対策「森を見る」思考を